「ギャラリーのこと」

   コロナ禍がはじまってからは、急に客が減ってしまった「Gallery ICHIYOH」だったが、このところにわかに感染者数が激減してきた。これならば、ギャラリー復活もありうると考え、ひさしぶり宣伝することにした。
 当ホームページ「インフォメーション」にも掲載があるが、わたしの駒込スタジオには広さ20坪ほどの作品ギャラリーが併設しており、いつでも見学することができます。

 名称: Gallery ICHIYOH
 住所: 東京都北区中里3-23-22
    営業時間: 午前10時〜午後6時
 入場料: 100円
 —–年中無休
 *予めメールでご予約の上ご来場ください。

 作業場の隣にわたしの自宅があり、わたしはその一階に住んでいた。しかし二階の母が亡くなったのを機にわたしが二階へ移り、一階をギャラリーに改造した。
    オープンは2016年5月だった。
    多くの方々はオープンの直後にお見えいただいたが、そのころはある程度の間隔をあけて作品を展示していたため、いまから考えれば少しスカスカだったかもしれない。その後6〜7点の作品を追加で突っ込みいまはギューギュー。計23点の作品をご鑑賞いただけます。
    コロナ禍も一段落したことですし、お出かけには丁度良い気候です。
 ぜひ一度お越しください。
 夕方おいでいただければビールの付き合いも‥。

ギャラリーの改修工事をやっているときには、ちょうど「豊島区版トキワ荘」の制作が佳境に入っていたころで、工事のことにはあんまりアタマが回っていなかった。そのため塗装のことや電気配線のことなど、あとで気に入らない箇所がいっぱいでてきた。上の写真で見ると床がいい感じだが、床は、壁や天井の色にあわせて、本当はグレーにしたかった。それがどういうわけかダークマホガニーになってしまい、平凡だなぁ〜、と残念がっている。
 
 

「池袋ハンズの思い出」

    池袋の東急ハンズがとうとう閉店してしまった。非常に残念である。池ハンにはたくさんの思い出があるが下の一件が一番強烈だ。
   店がオープンした1984年のこと。
   その日は水道のパッキンを買いにハンズへ向かった。商品はすぐみつかったが売り場が大混雑(大繁盛)していて、とりわけレジの行列がすごかった。まだ今ほどのレジ台数はなく、配置も悪く、また、当時は見習い店員が多くて手際が悪かった。どのレジにも数十メートルの列ができていたが、仕方なくわたしもそれに並んだ。だが遅々として進まぬレジに業を煮やし、あきらめて列を離脱し、帰ろうとした、そのときに魔が差した。持っていた水道パッキンをスルッとジャンバーのポケットに入れてしまったのだ。
   万引きである。
   少額商品のせいか、ほとんど罪悪感を感じぬまま普通に店を出て数歩あるいたところで男にグイと左手首を掴まれ、そのまま事務所へ連れて行かれた。
 「ポケットのものをみんな出せ!」
   と命じられ、水道のパッキンや、財布や、手帳や、名刺や、車のキーなどをデーブルの上に出させられ、激しく叱責され、警察に身柄を引き渡すとまで言われ、真っ青になった。それが次第に「身元引受人が来れば帰してやる」に変わり、やがて「パッキン代数百円を払えば帰ってよい」になっていった。
   そのころわたしは常にカバンを持っていた。
   ポケットのものを出したあと、彼らはそのカバンにも目をつけ、中身をみせろと言いだした。
 「どうぞ勝手にご覧ください」
  と、カバンを差し出すと、すぐに彼らが点検をはじめた。すると出るわ出るわ東急ハンズ発行の「商品引き渡し証」が5〜6枚出てきた。(前金を払って商品を取り寄せる場合、カネを払った段階で「商品引き渡し証」がもらえる)。つまりわたしがハンズにとっての上客だということが図らずも証明されたわけで、急に彼らの態度が軟化したのだった。
  結局‥‥
  「もう二度とやるなよ」
   と、言われ、放免された。
   当たり前だがその後一回もやっていない。

上の事件(?)の直後、家へ帰って女房にはなしたところ「アンタ、そのことは絶対に誰にも言わないほうがいいよ‥」といわれた。しかし国会議員になるつもりはないし、なにかの叙勲を受ける予定もない。少しぐらい経歴に傷があってもよかろうと、37年ぶりにカミングアウトした。
——–池袋ハンズさん、その節はごめんなさい。改めてお詫びいたします。

「いそがしくなってきた」

  24日の日曜日、ひさしぶりにわたしの駒込スタジオで、工作教室が開催され、写真のみなさんが集まった。
  内容は「デカルト通り48番地」制作講座。
  あまりにも長いこと、多分半年以上も自粛休講がつづいたため、講師であることの自覚や慣れや、しゃべり方や、説明のしかたといったノウハウみたいなものが、からだからすっかり消えてしまい、ふたたび以前のように振る舞えるのか、不安で仕方がなかった。
  そのむかし渋谷のパルコで、第1回目の「芳賀一洋教室」に登壇した際には、前夜にいやというほど予行演習をやって臨んだが、それでも不安だった。写真の中の自分をみると、とても不安そうにはみえないが、このとき、そんな心境だった。
  だが終わってみたら、案ずるより産むが易し、特別な粗相もなく、いつも通りに乗り切ることができた。
 「あーよかった!」
  ちなみに、あさっての土曜日(30日)午後6時から、今度は自由が丘グリーンホールでの東屋(あづまや)制作教室が、ひさしぶりに開催される。さらにその翌日、つまり31日の日曜日午前11時からは、ふたたび駒込のスタジオで、今度はブーランジェリー制作教室が、これまた久しぶりに開催される。
  もうゴチャゴチャ不安がってるヒマはない。
  なんだか突然いそがしくなってきた。
  (30日と31日の講座を見学したい方がいらっしゃればご連絡ください)。

10月24日@駒込スタジオにて。
この教室は午前11時に始まって午後3時に終わるという、主婦向けの時間設定になっている。したがって女性陣は終わったらそのまま家へ帰るが、私を含め3人の男はけっこう困る。3時じゃまだ居酒屋は開いていない。仕方なく我々はこのあとイタめし風ファミレスへとむかった。
 

「見事納入を果たす」

  群馬在住のK氏が制作していたモーターボートがやっと完成した。(ボートに関しては9/25日と10/9日付け当欄に先行記事があります)。
  18日の午後、K氏ははるばる群馬から、できたてほやほやのモーターボートを携えて、ぼくのボロスタジオへとやってきた。
  そして改めて作品の説明をしてくれた。
  しかし説明をしながら、彼は、船体のある部分の着色について、だんだんと自信を失っていったようにみえた。
 「ここは、やっぱ、青かなあ〜」
  船の側面をさすりながら彼はしきりに悩んでいた。
 「このままでもよいでしょうか?」
  と、わたしにもそう問いかけてきた。が、なにしろ原作画は白黒なので、色のことを問われても、正直いってわからない。仕方がないので納入先であるねじ式本部=阿佐ヶ谷へ持って行って、ご意見を伺うことにした。
  もし阿佐ヶ谷でNGとなれば、ふたたび群馬へ持ち帰り、塗り直す覚悟だったK氏だが、なんとその場でOKを授与され、見事納入を果たすことができた。
  バンザーイ!!!
  バンザーイ!!!

K氏作によるヤマハのプレジャーボート=PASSPORT-17に近いかたち。縮尺1/7。本体はFRPでできている。スクリュー以外はオールハンドメイド。2021年8月に制作を開始し10月に完成。制作期間約2か月。真剣な表情で見つめているのは元生徒のI氏。

「ウィンザー&ニュートン」

 むかし伊東屋の模型展示物をつくっているとき、扱っていた絵の具のブランドについて担当者に尋ねた。明治38年に撮られた創業店舗の写真を見ると、ショーウィンドウにはたくさんの画材が陳列されている。画材といえば「くさかべ」か、それとも「ホルベイン」か。ヘンなものを置いて、クレームがついても困るので、一応問い合わせたのだ。待つこと約一週間、届いた回答は「ウィンザー&ニュートン」だった。
 できあがった展示物を眺めるとき、ショーウィンドウにディスプレーされている品物はやたらと目立つので、特別にリキを入れて、ちゃんと当時のロゴを使い、ウィンザー&ニュートンの絵の具の箱をつくった。
 それから17年。
 最近ふたたびまたおなじ絵の具箱をつくった。
 お陰様で(?)このごろメキメキと感染者数が減少し、そろそろ自由が丘での「東屋教室」(小型版伊東屋教室)再開の声もささやかれるようになり、少しはその準備でもしようと、ひさしぶりにまたつくったのだった。
 だが絵の具の回までには、まだ少し間があり、講座を再開したからって、すぐにこれを取り上げるわけではない。またもし第6波でも来ると、ずーっと先のはなしになってしまうかもしれないのだが‥。

奥にあるのが「フィンザー&ニュートン」の絵の具箱。
このブランドの筆はむかしからよく使っていたが、絵の具があるとは、このときまで知らなかった。ショーウィンドウには画材のほか、ペリカン、モンブランなどの万年筆も、あわせてディスプレーする予定。
 

「群馬へ」

 前回「K氏のモーターボート」と題する記事を書いた。ねじ式の背景に使う模型のモーターボート(1/7)を制作中の群馬在住のK氏が、船体の色について迷い、結局ぜんぶ塗り直すことになったというはなしだった。
 その後彼からはまたたくさんの写真が送られてきた。美しかったワインレッドの船は、あえて野暮ったい白色系に塗り直され、原画(マンガ)絵にかなり近づいてきた。
 「だいぶんよくなったと思います」
 さっそく電話であっさり感想を述べたが、細かい部分で2〜3気になるところもあった。しかしあんまりこまかいことまでは、なかなか電話ではつたえられない。
 で、しょうがないので、きのう群馬まで行ってきた。
 下の写真。

群馬県のK氏のスタジオにて。
遠慮なく、好きなように塗ってくださいと言われ、わたしがぺちゃぺちゃと筆塗りをしているところ。このようにあちこち塗り加えたことによって、更にだいぶんよくなったと思う。着色後は自家栽培で採れた新鮮な野菜をつまみに、腹一杯ひやむぎをご馳走になり、ずっしり満杯の野菜袋を土産に、K氏宅を後にした。

「岸田さんおめでとう」

  季刊アトリエサードという雑誌に「はがいちようの世界」という小さな連載コーナーを持たせていただいてもう8年になる。短い文章と数枚の写真によって毎回一作品ずつ紹介している。
  今週は10月末日発売号(第88号)の原稿締め切り日なので、さっき写真を選び、短い文章を書いて、編集部へ送った。
  ついでなので、(本当はいけないんだろうが)、出来立てほやほやの原稿を、そのまま下に掲載する。

 「デカルト通り48番地」
  19世紀から20世紀初頭を生きウジェーヌ・アジェという写真家がいる。甲板式写真装置の時代に、彼は重たい機材一式を担いで街に出て、毎日写真を撮った。それらの写真にはすべて撮影場所が記されていて、ここに紹介した写真は、アジェが「デカルト通り48番地」と記した写真をもとに制作した作品である。(制作2011年。縮尺12分の1)。
  カンバンの〈BOULANGERIE〉とはパン屋のこと。ほとんどのパンが売り切れてしまった場末の店の、閉店間際の情景だ。たくさんのパンを山盛りにしたミニチュア作品が多い中、あえてスカスカに挑戦してみた。
  実はわたしの工作教室のサブジェクトとして、去年から再びこの作品を取り上げているのだが、緊急事態ばっかりで、遅々として進んでいない。もっと気楽に教室を開けるよう、岸田新総裁には、切に要望したい。
  本作は「ギャラリーいちよう」で見ることができます。あらかじめメール(ichiyoh@jcom.zaq.ne.jp)でご予約の上お出かけください。(東京都北区中里3-23-22/午前10時〜午後6時/入場料100円)

  と、まあ、たったこれだけの文章だが、なんといっても強調したいのは岸田政権に対する要望だ。しかし岸田さん、どこか短命政権におわりそうな、たよりなさを感じてしまうのは、わたしだけだろうか。

ウジェーヌ・アジェ(1857〜1927)
フランス、ボルドー生まれ。幼い頃に両親を失い、学校を中退後、商船に乗り込むが、やがてパリに戻って役者を目指す。その後、画家を経て、40歳を過ぎてから生活のために写真を始める。亡くなるまでの約30年に、変わりゆくパリの街や建築、意匠など約8000枚におよぶ写真を撮影。その多くを市立図書館が購買。没後に公表され、都市写真の模範作品として称賛され、近代写真の父と呼ばれる。