「見事納入を果たす」

  群馬在住のK氏が制作していたモーターボートがやっと完成した。(ボートに関しては9/25日と10/9日付け当欄に先行記事があります)。
  18日の午後、K氏ははるばる群馬から、できたてほやほやのモーターボートを携えて、ぼくのボロスタジオへとやってきた。
  そして改めて作品の説明をしてくれた。
  しかし説明をしながら、彼は、船体のある部分の着色について、だんだんと自信を失っていったようにみえた。
 「ここは、やっぱ、青かなあ〜」
  船の側面をさすりながら彼はしきりに悩んでいた。
 「このままでもよいでしょうか?」
  と、わたしにもそう問いかけてきた。が、なにしろ原作画は白黒なので、色のことを問われても、正直いってわからない。仕方がないので納入先であるねじ式本部=阿佐ヶ谷へ持って行って、ご意見を伺うことにした。
  もし阿佐ヶ谷でNGとなれば、ふたたび群馬へ持ち帰り、塗り直す覚悟だったK氏だが、なんとその場でOKを授与され、見事納入を果たすことができた。
  バンザーイ!!!
  バンザーイ!!!

K氏作によるヤマハのプレジャーボート=PASSPORT-17に近いかたち。縮尺1/7。本体はFRPでできている。スクリュー以外はオールハンドメイド。2021年8月に制作を開始し10月に完成。制作期間約2か月。真剣な表情で見つめているのは元生徒のI氏。

「ウィンザー&ニュートン」

 むかし伊東屋の模型展示物をつくっているとき、扱っていた絵の具のブランドについて担当者に尋ねた。明治38年に撮られた創業店舗の写真を見ると、ショーウィンドウにはたくさんの画材が陳列されている。画材といえば「くさかべ」か、それとも「ホルベイン」か。ヘンなものを置いて、クレームがついても困るので、一応問い合わせたのだ。待つこと約一週間、届いた回答は「ウィンザー&ニュートン」だった。
 できあがった展示物を眺めるとき、ショーウィンドウにディスプレーされている品物はやたらと目立つので、特別にリキを入れて、ちゃんと当時のロゴを使い、ウィンザー&ニュートンの絵の具の箱をつくった。
 それから17年。
 最近ふたたびまたおなじ絵の具箱をつくった。
 お陰様で(?)このごろメキメキと感染者数が減少し、そろそろ自由が丘での「東屋教室」(小型版伊東屋教室)再開の声もささやかれるようになり、少しはその準備でもしようと、ひさしぶりにまたつくったのだった。
 だが絵の具の回までには、まだ少し間があり、講座を再開したからって、すぐにこれを取り上げるわけではない。またもし第6波でも来ると、ずーっと先のはなしになってしまうかもしれないのだが‥。

奥にあるのが「フィンザー&ニュートン」の絵の具箱。
このブランドの筆はむかしからよく使っていたが、絵の具があるとは、このときまで知らなかった。ショーウィンドウには画材のほか、ペリカン、モンブランなどの万年筆も、あわせてディスプレーする予定。
 

「群馬へ」

 前回「K氏のモーターボート」と題する記事を書いた。ねじ式の背景に使う模型のモーターボート(1/7)を制作中の群馬在住のK氏が、船体の色について迷い、結局ぜんぶ塗り直すことになったというはなしだった。
 その後彼からはまたたくさんの写真が送られてきた。美しかったワインレッドの船は、あえて野暮ったい白色系に塗り直され、原画(マンガ)絵にかなり近づいてきた。
 「だいぶんよくなったと思います」
 さっそく電話であっさり感想を述べたが、細かい部分で2〜3気になるところもあった。しかしあんまりこまかいことまでは、なかなか電話ではつたえられない。
 で、しょうがないので、きのう群馬まで行ってきた。
 下の写真。

群馬県のK氏のスタジオにて。
遠慮なく、好きなように塗ってくださいと言われ、わたしがぺちゃぺちゃと筆塗りをしているところ。このようにあちこち塗り加えたことによって、更にだいぶんよくなったと思う。着色後は自家栽培で採れた新鮮な野菜をつまみに、腹一杯ひやむぎをご馳走になり、ずっしり満杯の野菜袋を土産に、K氏宅を後にした。

「岸田さんおめでとう」

  季刊アトリエサードという雑誌に「はがいちようの世界」という小さな連載コーナーを持たせていただいてもう8年になる。短い文章と数枚の写真によって毎回一作品ずつ紹介している。
  今週は10月末日発売号(第88号)の原稿締め切り日なので、さっき写真を選び、短い文章を書いて、編集部へ送った。
  ついでなので、(本当はいけないんだろうが)、出来立てほやほやの原稿を、そのまま下に掲載する。

 「デカルト通り48番地」
  19世紀から20世紀初頭を生きウジェーヌ・アジェという写真家がいる。甲板式写真装置の時代に、彼は重たい機材一式を担いで街に出て、毎日写真を撮った。それらの写真にはすべて撮影場所が記されていて、ここに紹介した写真は、アジェが「デカルト通り48番地」と記した写真をもとに制作した作品である。(制作2011年。縮尺12分の1)。
  カンバンの〈BOULANGERIE〉とはパン屋のこと。ほとんどのパンが売り切れてしまった場末の店の、閉店間際の情景だ。たくさんのパンを山盛りにしたミニチュア作品が多い中、あえてスカスカに挑戦してみた。
  実はわたしの工作教室のサブジェクトとして、去年から再びこの作品を取り上げているのだが、緊急事態ばっかりで、遅々として進んでいない。もっと気楽に教室を開けるよう、岸田新総裁には、切に要望したい。
  本作は「ギャラリーいちよう」で見ることができます。あらかじめメール(ichiyoh@jcom.zaq.ne.jp)でご予約の上お出かけください。(東京都北区中里3-23-22/午前10時〜午後6時/入場料100円)

  と、まあ、たったこれだけの文章だが、なんといっても強調したいのは岸田政権に対する要望だ。しかし岸田さん、どこか短命政権におわりそうな、たよりなさを感じてしまうのは、わたしだけだろうか。

ウジェーヌ・アジェ(1857〜1927)
フランス、ボルドー生まれ。幼い頃に両親を失い、学校を中退後、商船に乗り込むが、やがてパリに戻って役者を目指す。その後、画家を経て、40歳を過ぎてから生活のために写真を始める。亡くなるまでの約30年に、変わりゆくパリの街や建築、意匠など約8000枚におよぶ写真を撮影。その多くを市立図書館が購買。没後に公表され、都市写真の模範作品として称賛され、近代写真の父と呼ばれる。

「K氏のモーターボート」

   昭和の名作マンガ「ねじ式」を、ストップモーションアニメで映画化しようというグループがあり、その背景(模型)を少し手伝っている。
   原作には飛行機とSLとモーターボートという3種の乗り物が登場する。
   なので飛行機の模型を東京ソリッドモデルクラブのT氏に、SLを、我がクラブ(渋谷クラフト倶楽部)のY氏にお願いし、作品はすでに出来ている。これら2作品の場合、さいわい原作画と同型の、模型のキットをゲットすることができたので、それをベースに更に改良し、結果として、総監督のおメガネにかなう、素晴らしい作品ができあがった。(3/26日及び4/22日付け当欄に記事があります)。
   T氏は飛行機マニアで、Y氏はSLマニア、しかもこの両者、モデラーとしての腕もハンパでなく、正に作品にぴったりの人材だった。ところがモーターボートとなると、くわしい人って聞いたことがなく、モーターボートマニアという言葉すら聞かない。従ってボート模型の市場はまだ成熟しておらず、おそらく一からぜんぶつくらねばならぬだろう。かなりの専門知識がいりそうだ。
   そんなことから、しばらくのあいだボートのことは棚上げにし、考えないようにしていた。そうしたある日、群馬のK氏のことを、突然おもいだした。
 「あっ! K氏の家に、モーターボートが置いてある!!」
   そうなのだ。氏の家の前には本物のモーターボートが一艘、いつでも湖に出られるよう、カートにのせた状態で止めてあり、それが家の目印になっている。
   もちろんK氏はボートマニアで、なお且つ模型をつくる会社の社長なのだ。
   すぐさまお会いして、ねじ式のマンガ本を手に、ボートのことを尋ねると
 「つくれます‥」
   アッサリそうおっしゃった。それが去年の暮れだった。それから半年以上、彼からはなんの連絡もなく、こちらから催促することもなかった。ところが先月の10日ごろから、急にK氏から、連続的に、制作途中の写真がとどくようになり、いまも、とどきつづけている。
   下が最新の一枚だ。
   この写真のあと、K氏からは、自己反省文的なメールがあり、「少しカッコよすぎた。もっと野暮ったくしなければ‥」のような趣旨の内容が述べられていた。
   どうもこのあと、もちょっとカッコ悪い色に、塗り直し、する気らしい。

テレ朝の連続テレビドラマ「やすらぎの郷」が放送される数ヶ月前のこと、番組の制作者から、石坂浩二が暮らすビラほか計2点の模型建築の制作を依頼された。しかしあまりにも制作期間が短かったためお断りすると、担当者は困り果ててしまった。気の毒に感じたわたしは、ただちにK氏を紹介し、結局K氏が、非常に素晴らしい模型をつくり、番組で使われることになった。この番組には、わたしの作品も数点つかわれていたので、テレ朝主催の同番組の打ち上げパーティーには、K氏とわたしが揃って招待され、一緒に帝国ホテルまで出かけたことがあった。

「9.11から20年」

  大惨事の半年後、わたしはグラウンドゼロに立っていた。
  ニューヨークには学生時代の友人(石橋君康くん)が住んでいて、日本山妙法寺という寺の住職をやっている。その彼からグラウンドゼロの模型をつくってくれ言われ、ニューヨークを訪れたのだ。彼はそれを鎮魂のシンボルにしたいと考えていたらしい。
  といっても倒壊したツインタワーは高さ417メートルもあり、もし400分の1の模型でつくったとして、高さ1メートル以上になる。それが砕け散った状態がグラウンドゼロなのだから、ベースは最低でも2メートル四方は必要だろう。よしんばつくったとして、それをどうやって運ぶのか。
  とても自分の手に負える代物ではないと判断し断ったが、とにかく一度現場を見てくれと非常に強く促され、この日そこへ行ったのだ。
  その前夜、彼の寺の祭壇に供えられていたジャガイモほどの大きさの、片側が熱で溶けたガラスの塊(かたまり)を3個見せられた。その日の朝、空から降ってきた窓ガラスの破片である。手にとるとドスンと強い衝撃を受け、瞬時にそのときの映像がよみがえった。自分も一個ほしいとおもったが、さすがにそれは言い出せなかった。
  そんなことを考えながらわたしは現場に立っていた。
  そこには正にグラウンドゼロといった風な、巨大な凹みがあり、その日掘り起こされた残土が目の前まで運ばれてきて、高く積み上がっていた。
 「あの土の中に絶対ガラスが混ざっている!」
 そう確信したわたしは、見張りがそっぽを向いているすきに素早く残土に近づき、両手いっぱいに掴み取り、ポケットにしまった。案の定土の中には消しゴム大ほどのガラスの破片が混ざっていたので、大切に持ち帰り、仏壇の引き出しにしまった。
  ——–と、ここまで書いて、写真を撮るために、あらためて仏壇を探したら、ガラスがない! あせってあちこち探したが、やっぱりない。仕方がないので20年前の石橋くんの写真を掲載する。(下)。

中央の日本人が石橋君康上人。彼は寺の坊さんだが彼の寺に墓はない。彼はいわば仏教の伝道師で、世界中に点在する日本山グループのニューヨーク支部長みたいなことをやっている。15年ぐらい前、渋谷クラフト倶楽部のメンバーら10数名で遊びにいったことがあるし、その後も杉ちゃんらと度々お邪魔しているので、知ってる読者もいるはずだ。

「ニコレットの居酒屋」

「ニコレットの居酒屋」って作品、知ってますよね。
 あれ、売れました。
 人がうじゃうじゃいるところで催事をやると、黒山の人だかりになり、いつもこの作品が人気ナンバーワンだった。しかしマスクの時代じゃぁもう催事はなさそうだ。だから売るのはやぶさかでないし、もちろん非常に嬉しいが、買った方が置き場にこまるんじゃないかと心配し、こちとらは若干消極的販売姿勢で構えていた。そしたら先日買い手がブツを取りにみえ、すでに持ち帰ってしまった。そのあと「あ〜オレも買いたかった〜!」というおじさんがあらわれたりして、実は意外と混戦(?)だったのかも。
 下の写真、左がゲットしたご本人M氏、中央が奥さん。
 「あ、この人、知ってる!」
 ってひと、いっぱいいるだろう。
 ——Mさんありがとう!!!

写真の中央に「ニコレットの居酒屋」(1/12)が。
本作は禁煙補助剤「ニコレット」のテレビCMの背景として制作され、2007年11月に完成した。ただちにCM映像が制作され、このときつくられたCMはその年の年末から翌年の年始かけてしきりに放映された。その映像を見たいとM氏から言われ、いま懸命に探している。捨てたハズはないのでもう少しお待ちください。