あるまんのこと

 またひとつあるまんが完成した。
 ご存知だと思うが「あるマンガ家の住居」(1/15)というタイトルの作品を略して我々はただ「あるまん」と呼んでいる。非常にボロい三畳ひと間の作品である。「また」と書いたのは、つくったのがこれで4回目だからだ。
 最初は2002年の春、前年に制作した「15分の1トキワ荘」の瓦が大量にあまったため、それらを有効利用するためにつくりはじめ、勝手口(実はこの家の玄関だが)の横に「ひったくりに御用心—-肩掛け、前カゴ、暗い道—–池袋警察署」という標語をワープロで打って貼りつけて完成。作品題名を「庚申塚の借家」とした。庚申塚(こうしんづか)とは豊島区に存在する地名で、トキワ荘が豊島区だったので、おなじ区から響きのいい地名を選んだ。なかなか良い題名だとおもったが二作目以降は使えなくなる。
 「はがさん、こういう張り紙は、ワープロ打ちじゃダメですよ、やっぱり手書きでなけりゃ」
 と、あるうるさ方氏からご指摘を受けて、同年後期にクラフト教室の課題作として制作したもうひとつの同型作品では、「この土地と家屋は絶対に売りません、賃貸しもお断りです!」という手書きの文字にチェンジした。これが受けた。うるさ方氏にも大受けしたが「売らない」と主張する家が「借家」というタイトルには矛盾があり、2作目の題名は「あるマンガ家の住居」とした。
 更に2011年に、やはり教室の制作課題として、またまたあるまんを制作することになる。前二作は嫁に行ってしまったので、三作目はもっぱら展示用として使うために、台(ベース)をうんと高くして、題名を、より文学的な「青春の北池袋」へと改めた。(展示会でいつもお目にかけているのはこの作品だ)。
 ところがである。そのあと2014年から、今度は自由が丘の教室で、みたびあるまんを取り上げることになり2016年の9月まで続いた。終了時には完成一歩手前のところまで出来上がっていたが、おなじ作品がふたつあってもしょうがない。長らく未完のまま倉庫の片隅に眠っていた。
 以後次回——。

完成間近のあるまん。最新作だ。勝手口手前の張り紙の文字が読み取れるだろうか。最初にこれを書いた当時、ネットはまだ未発達で、近所の図書館や池袋のジュンク堂書店に毎日通って昭和の写真集を漁り、やっとこの文言に出会えた。そしてそれを手書きの文字に変換するなど、なんだかんだで一週間はかかった記憶がある。

震災直後のトキワ荘

 少し前に当欄で「トキワ荘講演」のことを宣伝した。(5/1日付け)。そのカンケーで、むかしつくったトキワ荘の写真を探していたら、おもわぬレアものが見つかった。(下の写真)。
 撮られた日付は2011年5月18日、場所は宮城県石巻市にある石ノ森萬画館の2階通路脇。東日本大震災の2ヶ月後に現地を訪れたわたしが、懐中電灯を片手にトキワ荘(1/15)の無事を確かめているところだ。ここは漁港で有名な石巻である。当然ながら津波の被害を受け、このときはまだ停電中だった。しかし浸水は1階部分のみにとどまり、当時2階に展示してあったトキワ荘は辛くも難を逃れた。(現在トキワ荘は1階に展示してあります)。
 ま、そんなはなしもいたしますので、6/27日の「トキワ荘講演」にぜひお出かけください。まだ若干の空席があるそうです。詳しい内容とお申し込みは下記URLをごらんください。
 https://www.toshima-mirai.or.jp/tabid216.html?pdid1=2437

左から、元生徒サカエリさん、同ままやさん、青いポロシャツの人物は津波来襲時にたったひとり館に残った漫画館スタッフの大森盛太郎さん。この写真を撮ったのは確か山ちゃんだった。

遊馬ブラックのこと

 自由が丘のぼくの教室に遊馬弘(あすまひろし)という生徒がいる。遊馬氏の本業は望遠鏡などの金属部品をつくる仕事だそうだ。望遠鏡といえば真っ黒である。なので彼は金属によく食いつく黒い塗料に詳しい。
 10年くらい前に、なにかのパーツを黒く塗るとき、彼に相談したことがあった。するとただちにリポビタンDの小瓶につめた塗料が届いた。これがなかなかのすぐれものだった。完全なるマットの黒色で、金属の地肌に直接筆塗りが可能で、乾けば剥がれない。わたしは勝手に「遊馬ブラック」と呼んだ。
 それから10年経って、いま自由が丘でやっている東屋教室において、たくさんの絵筆をつくる必要があり、ひさしぶりにそれを使うことにした。
 下の写真をご覧いただきたい。普通の虫ピンにただ遊馬ブラックを塗っただけでかんたんに絵筆(1/12)が製造できる。虫ピンの頭をニッパで切って、 叩いて潰し、そこに遊馬ブラックをぬる。そして胴体にも同じものをぬると、ただそれだけで立派な筆になる。絵の具やラッカーではこのあじはだせない。
 この魔法の塗料は遊馬さんが自分で開発したオリジナルで、みなさんへも宣伝してほしいと言われていたので、今号の記事として紹介した。
 イエサブのわたしの棚(の最下段)で入手できます。30cc入り小瓶一本756円。(もちろん遊馬さんから直接分けてもらうのも「アリ」でしょう)。

かなりドロッとした塗料なので、よく撹拌してご使用ください。稀釈液はラッカー薄め液ですが、上の写真における筆を製造する際にはまったく稀釈せずに用いました。なおイエサブの棚とは秋葉原スーパービル6階イエローサブマリンスケールショップの中のショーケース「はがいちようのミニチュアコレクション」のことです。

ゆうさんの鍍金工場完成!

 写真はゆうさん作による鍍金工場。縮尺7分の1。例の「ねじ式」の映画化における背景美術として去年の9月からつくりつづけてきた作品だ。
 写真では全体像がわからぬが、映画に映るのはだいたいここだけ。原画では中央のグラインダーが猛スピードで回っていて、真ん中の椅子に腰掛けた老婆が尖った金物を研いでいる。一体なにを研いでいるのか、ここがなんの工場なのか、わからない。だが原作者による別の作品にはこれとほとんどおなじ絵(場面)があり、そこにはハッキリ「鍍金工場」と書いてある。鍍金とはメッキのことだ。ではなんでメッキ屋の入り口に床屋のサインポールがあるのか。これには諸説があり、かんたんには説明できない。
 まあとにかくそういう作品が出来上がったので、彼はそれを車に積み込み、4月24日の午後、こちらへ持ってきた。急遽わたしも手伝って最後の仕上げに取り組み、翌25日の夕刻、ねじ式総監督の本部事務所(阿佐ヶ谷)へと運び込んだ。
 つまり納品したってことである。
 いやあ、ゆうさん、ごくろうさんでした。
 監督は作品を非常に気に入っていたと思う。
 よかった。よかった。
 しかしこの映画(ねじ式)には、これからつくらねばならぬ背景が、まだ20近くもあり、この先一体どうするのか‥。

いかにもつげ義春(ねじ式の原作者)らしい、静かな貧しさにあふれた、美しい作品である。原画には描かれていなかった電灯を、あえてぶら下げたことが成功している。この写真をぜひつげ先生に見ていただきたいものである。作品全体の大きさは、幅850ミリ、奥行き300ミリ、高さ350ミリ、(以上の寸法はわたしの推測です。計ったわけではありません)。

トキワ荘講演のこと

 今回はゆうさんの鍍金工場のことを書くつもりだった。だが豊島区の関係者から「トキワ荘講演会」のことを宣伝してほしいと言われ、急遽予定を変更することに。
 そうなんです。来たる6/27日に下記公演(トークイベント?)を行うことになりました。

 タイトル: 「立体画家/はがいちようが語るトキワ荘のイマージュ
      小さな世界に込められたノスタルジー」
 日程: 2012年6月27日(日曜日)午後2時より
 会場: 豊島区千早地域文化創造館 第一会議室
 住所: 東京都豊島区千早2-35-12 電話03-3974-1335
 費用: 700円
 定員: 30名(先着順か?)
 申込期間: 2014年4月21日〜6月6日

 トキワ荘ミュージアムがオープンして約1年、いま豊島区はゆる〜いトキワ荘ブームのさなかにあり、しがない小生にまでこんな公演の依頼が舞い込んだ。しかし30名という定員はあまりにも膨大で、そんなにたくさんの客が押し寄せるのか、非常に心配している。
 どうかみなさん、ふるってお申し込みください。
 応募対象は「豊島区在住、在勤、在学の方が優先」となっていますが、応募人数が少なかった場合は区外の方も受講できるそうです。
 お申し込みは下記URLまで。
 https://www.toshima-mirai.or.jp/tabid216.html?pdid1=2437

写真は小生作による「トキワ荘」です(縮尺50分の1)
会場には本作も展示いたします。

DC-3の完成写真

 ねじ式グループのテッシーさんとキッパラさんがつくった飛行機・DC-3について、ここで何度か取り上げたことがあった。(20/11/9日付け、21/2/26日付けなどに記事があります)。だが完成写真はまだ見せていなかった。下がその写真である。才谷監督がご満悦の様子だ。最後は塗装をどうするのかで若干議論の食い違いがあったが、さすがテッシーチームはソツがない、バッチリいい色に仕上げて、先月無事に納入を果たした。
 そして今週の土曜日(24日)に、もうひとりのチーム員であるゆうさんが、このところ制作中だったボロい鍍金工場を
 「一度見てほしい‥」
 ということで、ここに持ってくるらしい。
 ひょっとしたら完成したのかもしれない。
 状況が分かり次第、追ってまたお知らせいたします。

DC-3の完成写真。うしろは才谷監督。監督は以前、機体のどこかにマリリン・モンローの絵を描くよう主張したが、なぜか描かれないまま納入された。もしかしたら今後、追加でどこかに描く気なのかもしれない。
 

大森さんのこと

 3/11日付けの当欄「3.11のこと」と題する記事の一部に誤りがあった。
 記事は、震災の日の午後7時に宮城県石巻市にある「石ノ森萬画館」のキュレーター嬢から「先生のトキワ荘は無事でした!」という電話があり拙作の無事を知ったという内容で、電話があたかも萬画館から発信されたように記述した。だが事実はそうではなかった。地震の発生直後、すぐに津波が来ると知った彼女は、いち早く館を離れ、午後7時にはどこかの避難所にいたと推定される。したがってわたしへの電話は避難所からで、萬画館からではない。お詫びして訂正いたします。
 ではなんで避難所にいた彼女がトキワ荘の無事を知り得たのか。
 それは、津波が来ると知りながら館に残ったスタッフが、ひとりいたからだ。

 以下は2011年5月、当欄に投稿した記事から。
 下の写真は津波の被害に遭ったあとの石ノ森萬画館である。
 電気はまだきていないものの建物はそのまま残っていた。拙作トキワ荘も無事だった。それらを確認するために2011年5月18日に現地を訪れた。
 この日案内をしてくれた萬画館のスタッフ・大森盛太郎さんによると、地震発生時刻は営業中だったため、まずはお客様を避難させ、そのあと津波の襲来に備えて、スタッフ全員がただちに高台へと非難した。しかし大森さんだけは館を守るため現場に残った。するとすぐにに津波がやってきた。どっと海水がなだれ込んできた。だが建物が流されることはなく、水の侵入は一階部分のみにとどまり、上階へ逃れた大森さんは一命を取りとめた。やがて自衛隊員によって救出されるまでの五日間を、彼は停電した萬画館の中で過ごした。外に出ても周囲は瓦礫の山で、どこへも出かけられなかった。さいわい最上階にはカフェレストランがあり、食料や飲料には困らなかった。もちろん大量のマンガ本もある。なにかのイベントに使うためのロウソクもまとめて備蓄してあったので、夜はひたすらマンガを読んで過ごした。
 まるでロビンソン・クルーソーのようなはなしである。
 ——以上、2011年の記事より。

 午後の3時過ぎに津波がやってきて、やがて去っていった。その間の正味一時間くらいはメチャクチャな状態だっただろう。その後は食料をさがしたり、身の回りを整えてたりしているうちに、たちまち夕方になる。夕方以降はバッテリーが切れるまで、あちこちに電話をしまくったことだろう。(以上わたしの推測)。避難所にいたキュレーター嬢にトキワ荘の無事を伝えたのもそのころのことだとおもう。そう考えると我が家に電話があった午後7時という時間は、時系列的にあっている。
 人々が脱兎のごとく逃げたす中で、目の前が海という立地の萬画館に、自らの意思でひとり残った大森さん。彼がいてくれたおかげで、館の戸締りがきちんとなされ、海水の侵入を最小限に食い止めることができた。二階まで水が達せずに済んだのだのは彼のおかげである。したがって大森さんは萬画館と、拙作トキワ荘(1/15)にとっての恩人である。
 3.11を語るとき、どうしてもそのことを言っておきたくて、本日あらためてこれを書いた。

 2011年5月18日に撮った写真である。中央が萬画館。津波をかわすのに理想的なかたちをしている。のっぺりとして窓がない。海水は館のてっぺんの高さにまで達し、周囲の建造物はすべ流されてしまったのに萬画館だけはビクともしなかった。道路は自衛隊によってすでに片付けられていて、空き地に大量のゴミが積み上がっている。電線と電柱は復旧の途上にあり、このときまだ電気は来ていなかった。