「再募集のこと」

 6月に当欄で、この秋にスタートする予定の「火の見やぐら/制作教室」への参加者を募集いたしましたところ、いまのところ以下6名の方々にお申し出いただいています。(下の方々には開催日が決まり次第ご連絡いたします。もう少しお待ちください。)

 マガラ・ヤストシさん
 オウ・コクさん
 スズキ・カツヤさん
 ナカジマ・ユウさん
 カトウ・ヒトヒコさん
 サトウ・キョウコさん

 *講座内容は以下です。
 制作課題: 「火の見やぐら&手押し式消防ポンプ」(1/80)
 開催場所: はがいちようの駒込スタジオ
 住所: 東京都北区中里3-23-22
 開催日: 原則月一回土日祭日の午後
   (初回講座終了後に次の開催日を決めます)
 参加料: 一回11,000円(材料費別)

 本作は80分の1スケールにおける「日本の情景シリーズ」に欠かせないアイテムとして、むかしから何回も教室で取り上げてまいりました。ところが最近の教室ではドールハウス的作品が人気で、日本的なものはめっきりやらなくなってしまいました。そんなわけで、もしかするとこれが最後の火の見やぐらになるかもしれません。
 ——-まだ席に若干の余裕がありますので、参加希望者は、はがまでメール(ichiyoh@jcom.zaq.ne.jp)をください。質問等も受け付けています。

 少々しむずかしい課題ですが、守備よくこれを完成させることが出来れば、半田(ハンダ)の技術がバッチリ身に付きます。

「暑中見舞い」

 いやあとにかく暑い。
 それしか言いようのない日々がつづいている。
 毎年この時期には、ほんの数枚ではあるが暑中見舞いのハガキを出している。年賀状とは違い、去年出したから今年も出さなきゃマズいとか、そういうことは一切考えず、いたっていい加減なチョイスで投函している。7月から8月、立秋を過ぎた9月にも、今度は残暑見舞いとして出すこともある。
 これを読んでいる方ならば多分ご存知であろう渋谷クラフト倶楽部の佐野匡司郎氏と白石和良さんから、その返事が届いた。
 佐野氏からのハガキには、非常に苦しい体調面での近況がとつとつ述べられ、ご子息に支えられながらのご自宅での日常が目に浮かぶような内容だった。
 白石さんからは、なんと便箋5枚に、独特の白石文字で、びっしりと、こと細かにリハビリの様子が書き連ねられ、ひさしぶりの〝白石節〟に圧倒された。
 佐野さんは御年88歳になるはずで、いまは腰椎圧迫骨折に苦しんでいる。
 白石さんは67歳ながら数年前に脳溢血を患い、いまは半身が不自由な身だ。そんなお二人もこの暑さに耐えながら必死に生きている。そのご様子が文面からヒシヒシと伝わってきた。
 かく言うこのわたしも、今月の末に、ちょっとしたヤバイことがあるので、ご両人からの便りがとりわけこころに刺さった。

アートと言ってよいレベルの白石さんからのお便り。わざと遠くに置いて、できるだけ読めないように撮りました。
 

「トーキングヘッズ叢書」

「トーキングヘッズ叢書」という雑誌(季刊誌)で、もう10年以上にわたって「立体画家・はがいちようの世界」という連載コーナーを担当している。今号で連載45回目になる。そのトーキングヘッズ誌の最新号、第99号「イノセント・サバイバー〜迷える子の生きる道」が、本日(8月8日)発売になりました。
———「最新号のテーマは、迷える子(ストレイ・シープ)。「迷える子」は先の見えない時代、過酷な環境をどのように生き抜こうとしているのか——小説、映画、漫画などを紐解きながら、さまざまな観点から解題を試みました。また特集以外でも、レビュー・エッセイなども豊富に掲載しています。ご高覧いただき、ぜひ諸媒体・SNS等でご紹介いただけると幸いです」
 ——–だそうです。

 もちろんアマゾンでも買えます。
 編集=発行=アトリエサード/発売=書苑新社
 A5版/全192ページ/本体1500円+税

 わたしは今号で「晩秋の情景」という作品を紹介したが、(下段の写真)、わたしのページはほんの刺身のツマに過ぎず、あとはガツンと文字がいっぱい詰まった優良記事のオンパレード。「イノセントじゃいられない ! 子どもたちの地獄めぐり—-『少女ムシェット』『誰も知らない』『異端の島』ほか…」にはじまり、「真夜中の紅茶と眠らない夜」や「〝永遠の少年〟澁澤龍彦の根底にあった詩学」等々、どれも熱の入った記事ばかりで、読み応え十分だ。
 本好きのみなさん、ぜひお求めください。

本作は2012年、カタール在住のあるコレクター氏がご購入されたが、木が非常にデリケートであるため宅急便で送ることができず、わざわざ手持ちで、ドーハまでお届けに上がった。

「メキシコとの壁 ?」

 拙作「昭和初期の真岡駅」(1/80)が「消えちゃった!」という趣旨の記事を前回ここに掲載(7/19付)したところ、約2名の読者から「いや、そんなことありませんよ‥」というメールを頂戴した。
 まずは元生徒・穴熊@安達さんからいただいたメールを、当人に無断でm(__)m下に掲載する。
 「SLキューロク館と同じ側ですが、駅の建物の中の、改札口の向かい側に展示されています。こちら側は真岡鐡道の本社ビルを兼ねているので、駅というより、真岡鐵道の本社ビルに展示されている、という感じです。添付した画像は、昨日(2024年7月26日)再訪して撮影したものです。真岡駅の作品を拝見するのは、昨日で4回目ですが、やはり素敵です。今、思い返してみたのですが、最初は駅の反対側(キューロク館側ではない方)の展示だったのですね。穴熊@安達 拝」
 —–以上、原文のまま。
 注①: SLキューロクとは蒸気機関車の9600型のことです。
 注②: キューロク館は駅の東口側にあります。
 穴熊さんありがとうございます。
 わたしの記事を読んだ一週間後にわざわざ見に行ってくれたのですね。感動いたしました。いただいたメールで詳しい展示場所がわかりましたので、こんど行ってみます。

 1996年当時、真岡市の市長は菊池恒三郎という人だった。
 菊池氏は市長であると同時に(株)真岡鐵道の社長でもあり、当時ディーゼル車しか運行されていなかった真岡鐵道真岡線に、はじめてSLを走らせ、観光の目玉としたのも菊池氏だった。
 わたしはその菊池氏から直接依頼され、真岡市役所の企画課が窓口となって、1997年の春、あの模型展示物の制作をスタートした。このとき市とのあいだにはさまざまな取り決めがあった。展示場所は駅東口コンコースの真ん中であること、展示台の高さは床から何センチであること、ショーケースの天井には6本(8本だったかな ?)のスポットライトを設けること、等々、他にもいろいろあった。そして同年秋に完成した暁には市がちょっとした完成披露のパーティーを催してくれた。
 数年後、菊池氏が落選し、状況が一変。後任の市長は前任者の政策を否定することからはじめるので、わたしの作品は隅っこに追いやられ、次第にどこえ行ったのかさえわからなくなった。トランプが作ったメキシコとの壁が、バイデン氏によって壊されたのとおんなじですね。

穴熊さんの他にもうひとり、現役生徒の王さんからも、非常にわかりやすい上の写真と共に、やはり「置いてありますよ」という趣旨のメールをいただいた。写真左側の黄色い円の中に置いてあるのが拙作「昭和初期の真岡駅」です。
 

「困ったな‥」

 ギャラリーICHIYOHへご来場いただいた方々に必ずたずねる。どの作品がいちばん好きですか‥と。すると、たいがいのひとは
「えーと、マンガを描いている人の、ボロっちい家‥‥」
 みたいに答える。要は「マンガ家の家」のことだ。これが一番人気である。(家と家がかさなって字ズラがわるいので、正式な題名は「青春の北池袋」としているが‥。)
 2番人気は「東家(あづまや)」だ。
 来場者全体の約7割がマンガ家の家を、2割が東家を、そして残り1割の方々が、てんでんバラバラにいろんな作品の名前を言う。もしここに「ニコレットの居酒屋」があったら断然第一位だろうが、ニコレットはもうない。
 なので現状一位の人気者は、まちがいなくマンガ家の家である。したがって当ギャラリーでは、それを部屋の真ん中に置き、まわりが引き立て役になるように、考えて配置している。
 ところが、である。
 この人気者をもうなん年もまえから狙っている御仁がいて、数年まえ、とうとう「買いたい」とまで言い出したことがあった。
「ま、そのうちね‥」
 と、そのときわたしは否定も肯定もせず、そんなふうに答えた。するとそのかたは半年にいっぺんぐらい、マジな目つきで「そのうち」ですよね…と、逆にわたしに念をおすようになり、そのたびに一抹の不安を感じていた。
 そして、不安は突如現実となった。
 暑いあついこの7月の、22日の昼ごろ。彼は奥方とともに風のようにあらわれて、ほんの20分ほどで、ブツを持ち去って(つまりお買い上げになって)しまったのだ。彼らはマンガ家の家と一緒に故郷の四国へ帰り、これからは,夫婦ふたりだけの悠々自適の生活を送るのだそうだ。どうかお幸せに !!
 さて、人気者がさった穴をどう埋めるのか。
 かなり困っている。

この作品(1/15)を過去4回つくったが、今回の一件でぜんぶなくなってしまいました。最初は2002年「ある漫画家の部屋」という題名でつくり、次は2003年「庚申塚の借家」という題でつくった。そして3作目と4作目はおなじ題名「青春の北池袋」としてつくった。写真の作品はその3作目で、今回売れたのも、この作品です。ちなみに机のうえのマンガの原コウは4作すべて、つげ義春氏が貸本屋時代に描いたといわれる「腹話術師」を使っています。

「ガーン!!!!!」

 持病の腰痛が出てしまい、けっこう苦しんでいる。そのため浅草のドールハウスショウへは行けずじまいで、関係者のみなさん、たいへん申し訳ありませんでした。お詫び申し上げます。m(_ _)m
 仕方がないのでじっとパソコンの前にすわっておとなしくしている。よい機会だと思い、むかし書いた手作り本を、PCで文字起こしして、新・芳賀本として復活せんと、極力からだを動かさず、そんなことをやっている。
 1995年わたしは「木造機関庫制作記」という本を書いた。これがそこそこ評判がよくて、翌年「続・木造機関庫制作記」を書いた。前者は(株)東京中央出版という会社が印刷してくれたが、後者はどこもかまってくれず、仕方がないのでまゆみちゃん(元生徒)とわたしが一冊ずつ手でつくっていた。そんな本が他にも4〜5冊ある。まずは、ふるい順からと、「続・木造機関庫制作記」からはじめた。しかし一文字起こすたびに、いちいち文章を直したくなってしまい、やたらと時間がかかり、まだ終わっていない。
 内容をご存知の方もいらっしゃるだろう。
 渋谷のパルコで開催された、わたしの初個展の折に知遇を得た田村豊幸という医学博士の先生が、当時の真岡市市長と友人関係にあったことから、そのことが拙作「昭和初期の真岡駅」誕生のきっかけとなった、というストーリーだ。
 その本に、このところずっと取り組んでいて、すでに3分の2は終わった。だからかどうかわからぬが久しぶりに作品を見たくなった。最後に自作と対面したのは2005年のことだからもう20年も見ていない。安静にしていたせいか腰の具合もいくらかよくなった。
 それで、思い切って、きのう、真岡へ出かけた。
 作品は真岡駅東口のコンコースに展示してあるはずだ。
 ところが、「ガーン!!!!!!」であった。作品が、な、ないのだ。
 拙作「昭和初期の真岡駅」は跡形もなく消えていて、代わりに巨大な、本物のSLがピカピカに磨かれて置いてあった。以前よりもずっと天井が高かったので、コンコース全体が大改造されたようである。それにあわせて拙作が消えたのだろう。誰かに事情を聞こうとしたが、人はどこにもいなかった。

以前は拙作が展示されていた真岡駅東口のコンコースだが、いつのまにか本物のSLの展示場に変貌していた。駅周辺もすっかり整備されむかしの面影はなかった。

「頼みます、伊東屋さん‥」

 一年ほど前、銀座で展示中の伊東屋を見に行ったとき、作品にカビが生えているのを発見。黒かったハズの店内の床は、カビが繁殖して、ほぼ真っ白になり、それは手前の石畳のほうへもかすかに進んでいた。
 このときは、そのことを一階のインフォメーション・デスクで説明し、ハケで払うよう、担当者に伝えてほしいと頼んで帰った。
 それから一年たって、その後どうなったのかと、先日わざわざ銀座まで見に行った。そしたら状況は一年前となんら変わっていなかった。まったくなにも処置されてなくて、かといって症状が広がっているわけでもなかった。だが一度カビ菌がついてしまった以上、いつまた発展に転じるかも知れず、相変わらず心配である。
 カビなんてハケで払えばカンタンに取れるのに、伊東屋の社員は誰もそんなことをやりたがらないのだろう。困ったもんである。担当者に宛てて、手紙でも書いて縷縷説明するしかないのか、放っておくとカビはどんどん拡大し、そのうち作品全体を覆うことになりかねないということを…。(担当者の名前が分からないので、まだ手紙は書いていません)。
 自分の作品「ワンス・アポン・ア・タイム」にも、むかしカビが生えたことがあった。あれよあれよという間に地表のすべてがカビで覆われ、しばらくは、ただ呆然と手をこまねいて放置していたが、あるとき意を決し、それら全部をハケで払ったところ、あっさり元通りの地表に戻り、以後ずっとそれをキープしている。
 いまは正に梅雨。カビのシーズンである。
 もし作品にカビが生えたらハケで払えば簡単に落ちます。
 頼みますよ、伊東屋さん‥。

 
店内部の床はカビでほぼ真っ白だ。手前の石だたみの上にも白い粉のようなものがちらほらと見える。2024/7/5日。