2003年4月8日

 「天上大風」(てんじょうたいふう)という名前の月刊誌が、この春創刊され、創刊号が先月(3月)26日に、全国で一斉に発売になった。初版が確か35万部(もしかすると45万部だったかも)印刷すると聞いたので、たいへんな数だと思う。表題の「天上台風」とは、むかし良寛和尚が、子供の凧にそんな字を書いたんだそうだ。ゆったりとした大きな風とでもいった意味があるのだろう、団塊の世代をターゲットに㈱立風書房が発刊した。
 中に「壺中の天地」という新・連載企画のコーナーがあって、その第一回目として拙作「トキワ荘」を取り上げていただいた。本日は紙面より、そのときの記事を紹介することにする。

――模型「トキワ荘」――

 この木造モルタル仕上げのアパートの15分の1模型の作者は「立体画家」芳賀一洋さんだ。モデルは、1952年から82年まで、東京都豊島区椎名町(現南長崎)にあった「トキワ荘」。
 マンガファンならばここがすごい場所であったことはだれでも知っている。なぜなら、「鉄腕アトム」「ブラックジャック」の手塚治虫、「オバケのQ太郎」「ドラえもん」の藤子不二雄、「おそ松くん」「天才バカボン」の赤塚不二夫、「サイボーグ009」の石ノ森章太郎ら、ぼくら元漫画少年にとっての英雄たち、「星のたてごと」で漫画少女をときめかせた水野英子らが若くて無名だった時代に、ここに同じ頃、住んでいたからだ。
 「トキワ荘」が保存されていれば、見に行きたい。そういうファンの要求に応えてつくられたが、展示されているのは、宮城県石巻市の石ノ森章太郎のミュージアム「石ノ森萬画館」東京のファンにはすこし遠い。
 そこで本誌に紹介するが、芳賀一洋さんの執念がどれほどのものかというと、たとえば22ミリ角の瓦の原型を、まず真鍮(しんちゅう)でつくり、それからシリコンの型をつくってレジンを流し込む。そうやってつくった瓦を3000枚、1枚1枚と貼っていったのである‥‥‥。
 瓦もそうだが、外壁のモルタル壁(ベニヤに漆喰の粉を水で練って塗り、やすりをかけた)にも、窓にはめこまれた古びた木枠のガラス(塩ビ・フィルムを使用)障子にも、試行錯誤をくりかえしてきたという。徹底してリアルさを追及している。
 窓から部屋の中を覗くと本箱に納められた本や「漫画少年」などの雑誌の背文字も読める。表紙の絵も再現されている。一冊づつページを開くこともできる。当時、その部屋にどんな本が置いてあったのかも調査して再現してある。
 ちゃぶ台も座布団も、アルミの傘の電気スタンドも、石ノ森氏愛用のピースの缶も、2ミリのフタがちゃんと開く「開明墨汁」の缶も、火鉢も、鋳物のガスコンロも、あらゆるものがマニエリスム的な克明さでつくられている。
 覗いていると、ここには若き日の手塚や藤子や石ノ森や赤塚や水野がいまもまだ寝起きしていて、自信に胸膨らませ、青春の野心に燃えて、制作に没頭したり、愛したり、憎んだり、議論したり、取っ組み合いのケンカをしたりしているように思えてくる。
 この窓の中には、もうひとつの世界、アナザー・ワールドが、確かに存在している。
 そう、こんな世界を古代中国の詩人は空想の中に思い描いたのだろう‥‥壺の中に入ってみたら、大廈高楼が立ち並び、登桜して酒をいくら酌んでもつきることがない‥‥壺は「トキワ荘」‥‥酌んでもつきることがないのは眩いばかりに煌めいていた青春‥‥手塚治虫25歳、藤子不二雄20歳と21歳、赤塚不二夫21歳、石ノ森章太郎18歳、水野英子19歳‥‥少しずつ時間はずれているのだが。

 以上、原文のままを掲載した。
 記事をお書きになったのは、倉持公一(くらもち・こういち)とおっしゃるフリーのライターの方だ。真っ白なあごひげをたくわえ、銀座の「トラヤ」で買ったというフランス製の粋な帽子をかぶった熟年紳士。約半日、私の工房で取材をされて、上のような丹念な文章をつくってくれた。
 お伺いしたところ、マンガには非常に詳しく、ごく最近までは、世間で発行されているマンガ誌(少年マンガ誌も含めて)のすべてを購入し、それをぜんぶお読みになっていたそうだ。
「仕事ですから‥‥」
と、かるくおっしゃったが、並大抵のことではない。
 それと、現在放映中のあらゆるトレンディードラマの類も、すべて録画して、その全部を見ているそうだ。優雅な風貌に似あわず「プロ魂ここにあり」とでもいった人物のようである。
 ま、そんなわけで「天上大風」という雑誌を買って下さいね。椎名誠さんの表紙で、まだいっくらでも書店にあるはずです。

「天上台風」誌・創刊号より


2003年4月8日

まずしかったころ

 子供のころ、商店街の裏手には原っぱがあり、小さな芝居小屋が建っていた。客席は、地面にゴザ敷きだったが、年数回そこに旅芸人の一座がやってきて、チャンバラの劇を演じた。奥には一応安物の舞台が付いていて、顔を真っ白に塗りたくった役者たちが、床にドスンドスンと音をたてて、おお立ち回りを演じていた。刀は竹製で、表面には銀紙がはってあり、裸電球の光を受けてギラギラ光り、めまぐるしく動き回った。ものすごい迫力だ。しかし役者たちの衣装も、背景も、劇場も、哀しいほどに貧しかった。
 私は、自分が貧しかったせいか、まずし~いものたちがたまらなく好きだ。しかし今日、まずしいものって、なくなっちゃったような気がする。確かにホームレスの人々は貧しいんだろうが、彼らは単にカネが無いだけで、真の「貧しさ」とは、少し違うような気がする。やっぱり、社会全体がまずしくないから、いかんのかなあ。
――芳賀一洋

いま青山で、私を含めた計8名の作家たちによって「私の劇場」と題する合同作品展が開催されている。
――そのことについては前々回、この欄でお知らせした。
 上の一文は、会場で私のコーナーに掲げられているキャプションだ。
 搬入の4~5日前のこと、主催者側より「自分にとっての劇場を説明し、同時に作品の説明にもなるような文章を、至急に作って提出せよ‥‥」との、非常にむずかしいご注文があり、ない知恵を搾って提出したのが上の一文だった。しかし会場では、ほんの少しだけ違った文章(多分ミスプリント)が掲示されているので、「正オリジナル」として、冒頭に掲げた次第だ。
 ところで案内にもあったように、展の初日、3月10日(月)の午後6時より、盛大なオープニング・パーティーが催された。これが大変な大盛況だったので、ついでに本日は、ほんの少しだけ、そのときの様子を説明することにする。
 当日は、午後5時半のころからポツポツと客人が現れはじめ、定刻6時になると、会場に入りきれない客たちが青山通りにまであふれるといった、異常な現象におちいってしまったのだ。もちろん、そのころギャラリーの中は、完全なる満員電車状態である。と言っても、そんなに広いスペースではなかったので、せいぜい100人とか200人といったレベルの人数だったと思う。が、とにかく身動きがとれない。だからのんびり酒を飲むとか、会話を楽しむといった通常の行動は、まったくとれなかった。代わりに、陳列中の作品が壊れるんじゃないかと心配したり、ご来場いただいた私の客人を識別できず、失礼になってはいけない、などと心配しながら、次々と繰り広げられるけったいなパフォーマンス耳をそばだてるといった、非常に、非日常的なひと時を過ごすことになった。
 当日は、フェーマス・ピープルも多数お見えになり、私が確認した範囲では、平野レミ(料理研究家)渡辺真里奈(タレント)市山貴章(俳優)さんなどの顔ぶれが、確かに人ごみに混ざっていた。もっとも、このたびの合同展のキュレーターである宇野亜喜良氏や、和田誠さんや、串田和美さんなど、私以外の作家さんたちは、すべてフェーマス・ピープルなのだから、まことにゴージャスなメンバーだ。
 当日主催者より、カメラマンを呼んできてくれと言われ、いつも拙作の撮影をお願いしている佐藤紀幸氏に声をかけ、その混雑ぶりをカメラに収めていただいた。こういった、なんでもないような群集写真が、実は一番むずかしいのだ。そして、どの写真も「さすがプロ」という仕事を残してくれた。とりあえずその中の一枚を下段に掲示したので、当日の異常な混雑ぶりを、しかとご確認いただきたい。
 パーティーの終了後は、この日にみえた客人とともに近所の飲み屋へと場所を変え、深夜の12時まで談笑した。
 しかし私にとっては、その前日にも、搬入後の「お疲れさん会」という名目の酒席が当然あったわけで、若干バテた。そしてパーティーの翌日には「ザ・メモリー・オブ・マイファーザー」(昭和33年・江戸川区鹿骨)と題する大型作品一点を、追加で陳列したのだから、近年まれにみるお「疲れさん体験」を実践したことになる。しかし今、ギャラリーへ足を運ぶと、つわものどもの夢の跡とでもいった風情で、なんともガラーンとしたものである。
 ま、そんな訳で、ただいま青山で、ちょっとした合同展を開催中ですので、お時間があれば、是非一度のぞいてみて下さい。
 4月12日(土)までです。

撮影・佐藤紀幸


2003年4月1日

2003年4月1日

 またまた合同展のはなしで、すいません。
 (詳細は2003年3月6日付けのトークスを参照のこと)
 先日、東京新聞にわれわれの合同展「私の劇場」の告知記事が載った。だからもう一回だけ、紹介させていただくことにする。
 下は、2003年3月29日付け東京新聞の朝刊、芸術欄の記事である。

「私の劇場=3」展
 ――コクトーの文学世界を表現した石塚――

 本展は宇野亜喜良の企画によるもので、「新鮮なオブジェとしての演劇空間」が大きなテーマである。イラストレーター、演出家、舞台演出家、フィギュア作家、人形・写真家など、多彩な顔ぶれがそろい、思い思いの劇場を演出している。
 下谷二助の「人間ポンプ」は、檻の中ではいつくばった塊状の人間が、実際に口から火を吐きだす様は、インパクトがありなんとも切ない。敗戦後の小学二年生の時に田舎で見た火を噴く人間の姿が、五十年以上も下谷の胸の中でくすぶり続け、それを形にしたのがこの作品。
 野村直子はエクレールという少女を主人公に設定し、来客を迎えるために羊の洋菓子職人が菓子を作ったり、ネズミと兎の頭部が歌ったりしている。丹念に作られたオブジェが、白い世界の中で、架空のストーリーを演じている。
 芳賀一洋は建物の精密なマケットかと見粉うばかりの建築群と、荒れた空間を創り出し、現代日本が失ってしまった文化としての貧しさと、郷愁を見事に表現している。
 コクトーの「オルフェの遺言」をテーマにした石塚公昭は、木の箱の中にコクトーや驢馬(ろば)の人形などを置き、蓋の部分には黄泉(よみ)の世界へと続く鏡の中に消えていくジャン・マレーの姿を描き、死を主題にしたコクトーの文学世界を象徴的に表現している。
 他に「マクベス」の和田誠、「山羊を被った僕」の石山裕記、「牛のいる広場」の船越全二が出品しているが、中でも興味深かったのは串田和美の「私の劇場」である。開閉する舞台の緞帳(どんちょう)や団子のような観客がくっついただけの極めてお粗末な作りだが、作者や他の人がそれを被り、語りや歌を披露すると何とも魅力的な劇場へと変身するから面白い。
 実人生と虚構が出会う場、哀愁と歓喜が出会う四つ辻、ユーモアとペーソス、そして見世物的なものから高尚なものまでが存在する場、それが劇場であり、私たちの生の場なのではないだろうか。ユニークな好企画であるとともに、本展そのものがひとつの大きな劇場でもある。
――(中村隆夫=美術評論家)
 ※ 私の劇場=3展は、港区青山5の1の25のギャラリー北村で、4月12日まで。日曜休廊。

 以上、当日の新聞記事を、原文のまま掲載した。
 今回の合同展で、ジャン・コクトーの人形を作って陳列した石塚公昭(いしづか・きみあき)さんの知人が、この記事を執筆した美術評論家の中村隆夫氏だそうだ。中村氏は(学校の名前は失念したが)有名美大の教授も努められているとのこと。
 しかし新聞記事というものは、文章にムダがなく、簡潔で、いつも、つくづく感心してしまう。

2003年3月29日・東京新聞
記事の左上が石塚氏の作品


2003年4月1日

2003年3月13日

 高名なフィギュア(人形)作家に矢沢俊吾(やざわ・しゅんご)という方がおられる。彼の造るフィギュアは、一流の造形雑誌あたりでは、ちょくちょくとその表紙を飾っているので、ご存知の読者も多いと思う。まことにナイスなキャラとグッドなテクの持ち主だ。
 ある日彼と、酒を(確か調布の居酒屋で)飲んでいるときだと思った。
「協同で‥なにか、ひとつの作品を作りませんか?」
いつのまにかそんな話しになった。
 どちらが先に言い出したのかは、いまひとつはっきりしない。が、多分矢沢氏だったと思う。と、いうのは、そのころ矢沢氏は「クイック&デッド」という、シャローン・ストーン主演の西部劇に凝っていて、腰にコルトのピースメーカーをぶら下げて、テンガロンハットにセクシーなコスチュームをまとったシャロン・ストーンを、酒場のカウンターに配置した作品をつくりたがっていたからだ。酒場とは、もちろん西部劇に出てくるような酒場のこと。そしていま正に、美女がGUNをぶっ放そうとしているところを造りたいと、常々そう言っていた。
「酒場って、つくれますか?」
だから、はじめは、そんな話しからスタートしたと思う。
 シャローン・ストーンとは、いかにも矢沢好みのボディの持ち主だし、彼の過去の作品を見ると、常にGUNが登場している。だから氏がそんな作品を造りたがっていた気持ちはよくわかる。
「そりゃあ作れるよ、オレは、こう見えても西部劇には詳しいんだから‥‥」
な~んて返事のあと数ヶ月がたって、結局この話しは実現しなかった。どうしてボツになったのかは、よく覚えていない。確か版権(映画の版権)が難しいとの理由から、計画自体が挫折したんだと記憶する。最初は気楽な話としてはじまったんだが、そのうち、できた作品を雑誌の表紙に発表するだとか、作ったフィギュアを量産して販売するとかの話にまで進展したために、映画の版権のことがネックになったんだと思う。(が、もしかすると、もっと別の理由だったかのもしれない。)
 いずれにしてもこの計画はボツになり、その後、こんどは私の方から
「鉄の扉の前に、ババアの娼婦をひとり配置して、タバコを吸いながら客待ちをしているような作品をつくりませんか?」
みたいな提案を述べてみた。
「いいですねえ」
すると矢沢氏は、あっさりと了承し、ここに我々のコラボレーションが成立した。

 完成した作品は「Isabella」(イザベラ)というタイトルで、ごく最近「アートインボックス」の最終ページに掲示した。写真の横に配した英文の内容は、本日ここに書いたことの要約である。まだチェックしておられない御仁は、あとでゆっくりとご覧いただきたい。(なお、12分の1というスケールではリアルな人形が作れないとの理由から、この作品のみ、6分の1という変則的なスケールになっている。)
 しかし、見たら
「え? これって、ぜんぜんババアじゃないじゃないか!」
って、ことになるだろう。
それは、そうなんです。
 芳賀は「やり手ババア」の熟年娼婦の製作を依頼したのだが、彼はついつい手元が狂ってしまい「セクシー美女」になってしまった、とのこと。
「しょーがないなー」
最初に見たときには唖然とした。しかし、もともとセクシー好みの矢沢氏に「ババア」を作れと依頼した、自分の不明を恥じ
「まあ、いいんじゃない‥‥」
なんてことで、あきらめた。

 製作に着手したのは1999年の夏だった。
 最初に壁やドアーなどの建造物を、私が自分の作業場でつくりはじめて、ちょうど半分ぐらいまで仕上がった頃に、それを矢沢氏のアトリエに運んだ。そして矢沢氏は、建物にあわせて、即座に「美女」を作ったのだ。その後、建物と美女は、もう一回芳賀のアトリエに運び、幾つかのフィニッシュワークを付け加え、この年の初秋には完成した。完成後この作品は、ある造形誌の表紙に、「ミステリアス・16」というタイトルで使っていただいた。以下はその雑誌「DDD」誌・秋号(㈱メデイアワークス・刊)に本作品が掲載されたときの記事である。

 「フィキュアモデラーと立体絵画師の幸福な出会い」

 モデル雑誌各誌で美麗なフィーメルフィギュアを精力的に発表している矢沢俊吾。一方「SMH」誌を足掛かりに一躍模型シーンに踊り出た立体絵画作家・芳賀一洋。この稀代の2名人が幸福な出会いを果たした。その結果はコラボレーションという形で昇華された。表紙とこのページに掲載した作品がそれである。
 そもそもの発端は、矢沢氏が芳賀氏の個展会場を訪問したことからだった。片やフィティッシュなフィギュア、片やお堅いアートインボックス、一見何の関わりも持ちそうにない両者だったが、お互い同じ雑誌に作品を発表していることから話しがはずみ、また、お互い密かにリスペクトし合っていたことも判明、今回の合作の話しがとんとんと進行したのである。
 作業のプロセスとしては、まず矢沢氏の希望する6分の1スケールに合わせて芳賀氏が自身の2大テーマのひとつ「額縁の中のパリ」シリーズの一点として作品を制作。扉の開閉、室内灯点灯などのギミックを仕込んだ末、矢沢氏宅に搬入。矢沢氏は戸口に立てられるように巧妙にポーズを設定してフィギュアを製作。再び芳賀氏の工房に持参し、二人で相談しながら微調整して固定。あとは本誌のカメラマンが参上してパチリといった具合である。  これは裏話だが、矢沢氏は錆びた鉄の扉から「アラビアンナイト」に出てくるような奴隷女を連想、半裸に金属のアクセサリーをまとったアラブ美女(?)を製作したが、芳賀氏の想定はあくまでもパリの街角。結果的に不思議なミスマッチが生まれた。そこで、杯を交わしながらの相談の末、パリ裏通りのアパルトマン16号は、実は会員制の秘密クラブだった‥と設定し、タイトルも「Mysterious 16」に決定した次第。
 しかし、どうしても「アリババと40人の盗賊」で扉にトリックの印を付ける聡明な奴隷美女マルギアナを連想してしまうのだけど‥‥。(編集部)

 上が、このときの記事の全文だ。
 執筆したのは、この雑誌の編集長・歌田敏明氏である。「稀代の2名人が‥」などと、大げさな表現を使われてしまい、お恥ずかしい限りだが、なかなかの名文だと思う。文中にあるように、このときには「ミステリアス・16」というタイトルだった。しかし今回、サイトに掲載するにあたり、矢沢氏の了解を得て「イザベラ」に改題した。しかし、いま改めて歌田文を読むと「マルギアナ」って線も、悪くないな‥と、若干感じた。

上が「DDD」誌1999年・秋号の表紙
フィギュアに巻き付いている白布は、芳賀が30年前パリ蚤の市で調達したシルクのスカーフ。


2003年3月13日

2003年3月6日

 1960年代に青春を送った団塊の世代にとって、宇野亜喜良(うの・あきら)という名前は、格別の意味がある。当時われわれのバイブルだった「平凡パンチ」誌の常連イラストレーターだったからだ。この雑誌の表紙のイラストを書いていた大橋歩(おおはし・あゆみ)さんや、伊坂芳太郎、横尾忠則氏(当時は全員がイラストレーターだった)などの名前とともに、今でも、鮮烈に記憶に残っている。
 その宇野氏から、去年の秋に電話があった。
「こんど青山で我々の合同展があるんですが、もしよろしければ、芳賀さんもご参加いただけませんか‥‥」
とのことだ。
「え? 私なんかが、参加しても、よろしいんでしょうか?」
彼の名前を聞いたとたんに、びっくりしてしまい、なんと答えたのかは、よく覚えていない。
 いずれにしても
「大変光栄なことなので、ぜひ参加させていただきます」
みたいな返事をした。

 以前より当エキシビジョンのコーナーには掲示してあったが、その合同展は、下のような日程で開催される。

タイトル: 「私の劇場」
場所: 「ギャラリー北村」
     東京都港区南青山5-1-25 北村ビル102
     TEL 03(3499)0867
日程: 2003年3月10日(月)~4月12日(土)
時間: 11:00am.~5:00pm.
パーティー: 3月10日(月)の午後6時よりオープニング・パーティーがあります。(どなたが参加しても構いません。芳賀も参加の予定です。)

参加するアーチストは以下の方々です。

  船橋全二
  芳賀一洋
  石塚公昭
  石山裕記
  串田和美
  野村直子
  下谷二助
  和田 誠
 ――以上、案内状の掲載順

 上の方々の名前のなかに宇野氏の名前がありませんが、彼はこの展の「キュレーター」とのことで、今回は作品を陳列しません。また、最下段に名前のある和田誠氏は「週刊文春」表紙を書いている人物として有名だ。そして和田氏は、日本では有数のムービー・ラバー(映画愛好家)としても有名で、映画に関する著書は、かなりの量にのぼると思う。氏は以前映画の監督もやったこともあり、「麻雀放浪記」という彼の映画は、マイ・フェイバリットムービーだ。それどころか、私は、日本映画「ベスト3」の一本に入れてもいいんじゃないかと、真剣に、そう思っている。
 いまのところの予定では、私は、「ザ・メモリー・オブ・マイ・ファーザー」と題するストラクチャー作品のほか数点しか展示いたしませんが、お時間があれば、是非のぞいてみてください。

上が案内状


2003年3月6日

2003年2月28日

 前年9月9日と、今年2月16日の二回にわたって昔の知人・小島素治(こじま・もとはる)氏について、このコーナーに書き込んだ。これに関して、先日「愚すん」という方から、当「BBS」に宛てて多大なリアションをいただいた。そんな関係から、もう一回だけ、彼からの便りを紹介することにする。
 今回はハガキ一枚が到着。
 消印は2003年2月26日。

以下文面――。
時間が無くなってしまった。
敗訴です。
頼んでいた図書の件、間に合うように送ってくれると助かるのです。
今後の通信は親族だけとなります。これが最後になるかも知れません。
A・ヘミングウェイも頼む!
2/28日までに!
――小島素治

 ハガキの現物は下段に添付した。
 官製はがきのアドレス面にのみ、上の書き込みがあり、記入面には「失敗した葉書で失礼する、ゴメン!」とのことで、別人宛ての「失敗文面」だけなので、今回のコンテンツは事実上うえの文面だけである。
 かなりあわただしい雰囲気が伝わってくる。
 スデに数日前、宅急便で5~6冊の書籍は送ってある。所内の手続きに若干の時間が掛かるだろうが、間違いなく彼の手元には届くはずである。しかし懲役となると相部屋であろうし、過酷な労働もあるのだろうから、のんびりと読書もしてられまい。
 生還を祈る!

2003年2月28日

2003年2月24日

 先年の暮れ、12月の3日に発売された「週刊アスキー」対談コーナーに、不肖・芳賀一洋が登場したということは以前に一回書いた。お話しをさせていただいたのは、元TBSの女史アナ・進藤晶子さんだった。進藤さんは、もちろん美人で、しかも非常に背が高かった。もしかしたら藤原紀香さんよりも、ずっとチャーミングかもしれない。(藤原紀香さん、ごめんなさい)。
 そんな関係から対談中はろくなことがしゃべれず、あとではひどく落ち込んだ。しかし当日一緒にみえたライターの田中里津子さんが、すごくスッキリとした記事に仕上げてくださり、さすがプロだと心から感心した。だが写真は、かなりかなり見苦しいものとなった。当日は、写真のことなどあんまり考えておらず、下半身は写らないものとの勝手に判断したのが大きな災いを招いたのだ。お陰でこちとらの履いていた450円のサンダルがバッチリ写ってしまい、これが大きな汚点となった。
 まだお読みでない方もおられると考え、本日はそのときの対談の様子を紹介することにする。
 以下がその全文だが、お話しをしたのは2002年の10月の上旬だったと記憶する。

 進籐晶子の「え、それってどういうこと?」

 「いちばん最初の作品は、
  マッチ棒やコンビニ弁当のパッケージなど、身近な素材で作ったんです」

進籐 芳賀さんの作品には、鉄道や昔の駅をモチーフにした模型のシリーズ(ストラクチャーアート)と、パリのお店を表現したシリーズ(アートインボックス)がありますが、このふたつのシリーズがメインになるわけですよね。
芳賀 最初は模型のほうだけつくってたんです。そしたらおじさんたちには人気があったんですが、女性にはどうも受けが良くなくて。周りからももうちょっとパッとしたものを作ったらどうなのって言われて、作ったのがアートインボックスなんです。
進藤 そもそも、芳賀さんがこの道に入られたきっかけはなんだったんですか?
芳賀 それは、本当にたまたまですね。そのころやっていた商売が、何しろ不景気で。暇で手持ち無沙汰でね。そういうときって、頭を切り替えて気分転換してみるといいじゃないですか。もともと何かを作るのは好きだったし、そのときは他のことなんて何も考えずにただ作って。今から7年くらい前ですかね。できあがったものを見たら、自分でも「これ、いいんじゃないかな」って(笑)。だったらこういう仕事できないかと、商売やってて目が利く友人に見せてみたら、これはいけるんじゃないかって話しになったんです。
進藤 よくピンチにはチャンスなんていいますが、その最初の作品は、どんなものだったんですか。
芳賀 機関庫でした。(*芳賀・注 機関庫ではなく「小屋」でした)それもそのへんに転がってたもので作ってね。マッチ棒を柱にしたり、コンビニ弁当のパッケージをガラスに見立てたり、こういう窓枠とかもね‥‥(引出しをもってくる)。
進藤 うわぁ~ これ全部窓枠ですか?! 小さくて可愛らしいですねえ。
芳賀 この窓枠はね、洋服の値札ってあるじゃない、厚紙の。あれを切り抜いて作ったの。ほら、隅のほう、よく見ると柄が入っているでしょ。
進藤 本当! でもなぜ値札で?
芳賀 商売で洋服屋をやっていたから、店にいっぱいあったんですよ。
進藤 なるほどぉ。確かに身近にあるものですよね。
芳賀 最初は本当にただの暇つぶしでしたね。店番の子が夏休みで、かわりにレジカウンターに座ってたわけなんだけど、お盆だからお客なんてそんなにこないんですよ。週刊誌読むのも飽きちゃって、それで作ってみようかと。
進藤 その記念すべき第一作は、今も残っているんですか?
芳賀 ありますよ! かなりいい作品だったんです。クオリティーとしては、今作っているものとそんなに変わらないかもしれない(笑)。
進藤 見てみた~い(笑)。
芳賀 それで自分でもびっくりして、しかも案外気に入っちゃって、これはもしかしたらいいかもしれないなーと思って。
進藤 年を重ねるにつれて、自分がしたことに驚くなんてこと、どんどんなくなりますよね。芳賀さん、うらやましいです(笑)。
芳賀 僕も、生まれてはじめてって感じでした(笑)。

 「それまで見たことがない物だから
  珍しいんだと思う」

進藤 それから本格的に活動をはじめられたんですね。
芳賀 ええ。最初は小さいのをポツポツ作ってただけだったんだけどね。でも、その次の年の4月には渋谷で展覧会やって。
進藤 あら、ずいぶん早くないですか? トントン拍子だ!!
芳賀 そのときはね(笑)。顔のきく友人がいたおかげです。
進藤 初個展ということは、作品作りは大変だったでしょうね。
芳賀 そうです、そのころは自分で全部作るしか方法がなかったし。だからかなり熱心にやりましたね。
進藤 その展覧会はどんなだったんですか?
芳賀 そのときは‥‥(うしろの引き出しから写真を出してくる)。
進藤 あちこちの引出しから続々出てきますね(笑)。
芳賀 アートインボックスのシリーズは、このときに試しにひとつ作ってみたものだったんです。
進藤 では、このシリーズはここから火がついたんですね。
芳賀 そう、ひとつだけ作って試しに並べてみたんですね。そしたら、たまたまそれが、100万円で売れちゃった(笑)。
進藤 ひぇ~っ、すっごーい!!
芳賀 僕もびっくりしちゃって。
進藤 ご本人も予想されてなかったんだ(笑)。
芳賀 それで、その年末にも個展があったんですが、模型のシリーズだけじゃ地味だからアートインボックスのほうもたくさん作ってほしいって言われて、急遽たくさん作って。
進藤 そうするとすべて、流れに乗っていくうちに気がつけば今、という感じなのかしら。
芳賀 そうですね。
進藤 ”立体絵画”っていうのは、芳賀さんが作られた言葉ですよね。
芳賀 まあ、どこかで聞いたような気がしないでもないけど(笑)。
進藤 つまり、この立体絵画の歴史は、芳賀さんからはじまった。
芳賀 う~ん、そうですね、激しい言い方をすればね(笑)。でもホント、ただみんな珍しがってくれるだけだと思うんですよね。今までこういうの見たことがなかったから。
進藤 どんどん道が開けていったその当時、ご本人としてはどんなお気持ちだったんですか。
芳賀 いや、なにかを考えるとかそういう感じじゃなかったですね。とにかくひとつの展覧会が終われば、またすぐ次がくるので、何しろ僕の作品の場合は、作るのにものすごく時間がかかるので、もう、この狭い家の中を駆けずり回ってる感じでした(笑)。ずーっと仕事して、そのままパタッと寝ちゃって、起きたら歯も磨かずにまたそのまま作り始めて。
進藤 寸暇を惜しんで。つまり、起きてる間はずっと作品を作ってらっしゃる生活だったんですか。
芳賀 そうでしたね。
進藤 今も変わらず?
芳賀 今はね、そのころよりはもうちょっとだらけてますね(笑)。

 「トキワ荘の模型の依頼、
  実は最初、断ったんです」

進藤 芳賀さんは、あの石ノ森章太郎氏や手塚治虫氏が住んでいた”トキワ荘”の模型制作も手がけられましたよね。
芳賀 そうですね。それは石ノ森章太郎氏のミュージアム”石ノ森萬画館”に展示するための作品だったんですが(再び引出しから写真を出してくる)
進藤 うわーっ。これ、”トキワ荘”を上から撮った写真ですね。覗き見しているみたいで‥‥楽しい(笑)。もしかしたらこういう感覚も、みなさんに興味を湧かせるポイントのひとつなのかも(笑)。
芳賀 これがアパートの裏から見たところ。表と裏があって、真ん中に廊下があって。こっちが石ノ森章太郎さんの部屋ですよね。
進藤 それにしてもリアルですねえ。
芳賀 屋根にのってる、この瓦はね、こうやって作るんですよ(瓦を作るための型を披露)。
進藤 あ、なるほど。お千菓子作りと同じ手法なんですね。なんだか和菓子職人にもなれちゃいそうですねえ(笑)。
芳賀 あはは。そもそもはね、水野英子さんっていう、トキワ荘に住んでらした少女漫画家の先生が、僕の展覧会場を偶然通りかかって、すごく作品を気に入ってくれてね。
進藤 それがご縁で、ですか。
芳賀 ええ、それでミュージアムを作る話しがあったとき、水野先生のところに監修してくださいって話しがいったみたいで、水野先生が僕を製作者として紹介してくれて。でも最初はね、自分の作りたいような図面じゃなかったもんで、実はお断りしたんですよ。でもその後、僕が考えているようなもの作っていいってことになって、それならやりましょうとお引き受けしたんです。だって最初は模型っていっても、かなり説明的な模型を考えていたみたいなんですよ。ホラよく、ニュースで殺人事件の現場を説明するときに使うようなのあるでしょ。
進藤 位置関係を伝えるための、極めてシンプルな模型ですよね。
芳賀 上から見てここが手塚治虫の部屋とわかるように、屋根がなくて天井がパッカリ開いてて。でもそういうのは僕作ったことがないから(笑)。自分が作りたいようなトキワ荘だったら、一度作ってみたいと思っているんですけどって言ったら、結局作らせてもらえることになって。
進藤 人が実際に住んでそうな雰囲気がする作品として、作らせてくれたんですね。ほんと、部屋の中にマンガの原稿があったりして生活感ありますよね。
芳賀 部屋に積んであった本とかは、助っ人が製作してくれて(笑)。紙ものを作るのがとてもうまい女性でね。作ってくれた本1000冊。タイトルとか大きさとか、厚み、色なんかが全部違っているんですよ。他にもガスメーターとか墨汁の缶とかの金属ものが得意な方とか、いろんな助っ人が助けてくれました。もう僕、電話をかけまくりでねぇ(笑)。
進藤 それは芳賀さんの人柄に違いない。
芳賀 いやいや、そんなことはないんですが。そうそう最近はね、グラウンドゼロを作ってくれっていう話しもありましたよ。
進藤 もちろん、ニューヨークの、ですよね。
芳賀 断りましたけどね。僕の作品って廃墟みたいな作風でしょ。だから、これを作るのはあなたしかいないって。でもとにかくもとが巨大なものだから、もし200分の1のサイズで作ったとしても、大きすぎてニューヨークまで運べないし。仮に3年かかって作ったって、それが世の中のためになるんだったらいいですけどね。
進藤 グラウンドゼロということだから、崩壊した現場を模型にするということですね。
芳賀 そう。倒れた惨状をってこと。だけど焼け野原を作ったからといっても、作品として作るのなら、さらに隣りの倒壊しかかったビルも2つ3つあるなかでの風景ってことになってしまうし。
進藤 それはたしかに超大作になってしまうし、それ以上に、製作者としては複雑な心境ですよね。
芳賀 だからとても手におえないと。

 「模型の中で布や水を表現するのは
  結構難しいんです」

進藤 パリの作品は、今までにどのくらい作られたんですか。
芳賀 まあ、30作品くらいですかね。
進藤 必ずこういうふうに、というのはあるんですか?
芳賀 いろいろあるけど。まあ、やっぱり商店じゃないと面白くないっていうのはありますね。あと、ボロボロで汚い感じが喜ばれるみたいだね。壁がボロッとしてたりとか。
進藤 年季がはいっている感じですか。そう言われると、みんな老舗っぽい(笑)。わざと古く見せるのは難しいんでしょうね。
芳賀 難しいといえばすごく難しいし、めんどうくさいって言いだすとすごくめんどくさい作業なんです(笑)。
進藤 私といたしましては、ディティールにも惹き付けられますね。ショーウィンドーに並べられた品物のうえに、ひょいと帽子がかかっている作品とか。あれ、私、好きなんです。
芳賀 あの店は”チャーリー”っていって、あのチャップリンからきてるんです。チャップリンを好きな年配の方って、結構多いんですよ。それで、前に2つくらい売れたことがあったんで、味をしめて作品の中にチャップリンのポスター貼ってみたりして(笑)。
進藤 お客さんへのサービスだったんですね(笑)。そういう、物語が見えてくるようなところに、人はくすぐられるのかもしれませんね。人物を登場させないのも、芳賀作品の特徴のひとつでしょうか?
芳賀 やっぱり人物は動かないとちょっとヘンじゃないかと思っちゃうんで。あと、布ものも難しいですね。布はね、たとえば80分の1という縮尺で作ってたとしたら、どんなに厚みの薄い布を探したとしても、80分の1の薄さの布って存在しないでしょ。そうすると別のもので代用したりしなきゃいけなくなるんです。
進藤 なるほど。素材そのものもミニチュアサイズで存在しないと。
芳賀 そうそう、ヘンなんだよね。あと、水も難しい。模型では、固まると透明になるものを流し込んで池みたいなものを作る場合もあるんだけど、固まるときにちょっと収縮して端と中心で高さが違ってきたりするから、どうもねえ。それとか、展示してたらホコリがたまったりしちゃうじゃないですか。水面がまったいらっていうのもなんだかヘンだし。
進藤 ご本人としては、布や水は難関だとされていても、全体的なリアルさは高く評価されていて。そのポイントというと。
芳賀 だいたい、素材そのものを使うのがいいんですよね。金属の部分は金属で作るし、壁は壁材で作る。絵の具で着色したりっていうのは、なるべくしないようにしていますね。たとえば、この屋根の部分とかは本当に錆びている金属の板を使っています。こういうのは道で落ちているのを拾ってくるんですよ(笑)。
進藤 思わぬところに素材が(笑)。
芳賀 この間も八百屋の前で一斗缶でゴミ燃やしているのを見つけて。それがね、すごいいい色に錆びてたの。
進藤 アハハ! 一斗缶にひと目惚れしちゃったんですか(笑)。
芳賀 それでさっそくバイクに乗って、きれいな缶、しかも上の部分をちゃんと切り抜いたものをもっていって「おばさん、すいません、これと取り替えてもらえませんか」って。
進藤 アッハハ! いいですね~。
芳賀 帰るとき振り返って見たら「あの人なんだったんだろう?」って、かなり不思議そうな顔してましたよ(笑)。いきなりだったですしね。
進藤 でも、お互いにありがたいですものね。いつもセンサーをはりめぐらせて、物色しながら歩いていらっしゃるんですね(笑)。
芳賀 散歩行っても結構いろいろ拾ってくるんです。あ、いいのが落ちてる! って(笑)。この間も教室の生徒がね、わざわざ遊びに来てくれて、「いい感じで錆びたのが見つかりました!」って。
進藤 うれしいおみやげ(笑)。
芳賀 ああ、これはよく錆びてる!って(笑)。だってもう、都会では錆びたものってないんですよ、最近は。ありそうで、なかなかない。
進藤 錆びたものを見つけるたびに、芳賀さんのことを思い出しそう。お届けにあがらなきゃ!って(笑)。
芳賀 ぜひ持ってきてください(笑)。
進藤 これから作ってみたいもの、挑戦したいことはなんでしょう?
芳賀 いろいろあるなあ。ただ、僕はあんまり豊なものは作りたくないんですよ。だから夏目漱石の家とかそういうのじゃなくて、個人の、庶民の家のようなものを作りたい。
進藤 生活のにおいがするような。
芳賀 そうそう。あとは労働現場ね。今は廃墟のようになっているけれど、昔はここでお父さんたちが働いていたんだよ、みたいなものですね。

「追伸 From 晶子」

「ウチ、わかりにくいんじゃないかと思って‥‥」と、ご自宅前で我々取材スタッフを待ち受けてくださった芳賀一洋さん。隣接するアトリエの出入り口は、捨てずに保管していた扉を、ご自身で取り付けられたのだとか。お仕事場も、模型も、芳賀さんにとってはさしたる違いはないのでしょうね。話題が変わるたびにクルリと後ろを振り返り、ギッシリ詰まった書棚から作品の写真や材料をご披露くださり、お話しがおわるや否やさっさとお方付け。その手さばきたるや、作品同様、見事なことこの上なし、なのでした。

サンダルがバッドでした。


2003年2月24日