2003年7月15日

 当サイト「プラスチックモデル」のコーナーでは、プラモデルのオートバイを色々と掲載している。ここに最近、「BMW・R69S」、「HONDA・CR110」、「ハーレーダビッドソン・アーミーモデル」、「陸王」の4車種を新たに追加し、これで計8種類のバイクが並び、お陰様で、かなり充実してきた。
 ほとんど全部がグンゼ産業の「ハイテクモデル」というプラモデルのキットを組んだものだ。これはプラモデルとしては割に高く、ひとつ7~8千円ぐらいする。しかし最終ページに掲載したハーレーだけは安物のキット(発売元ハセガワ・定価1500程度)を組んで作った。
 私は過去、たくさんのアートインボックス作品を作った。
 それらの製作過程で、毎回頭を悩まされるのが路上に置くための物品だ。すべての作品は1945年のパリという設定なのだが、いっくら当時の写真を眺めてみても、路上に物など置いてないからだ。しかし作品として見ると、画面の手前(路上)には、何かがないとヘンなのだ。しょうがないので、お掃除の道具類をならべてみたり、ガラクタの木箱類を並べてみたり、またある作品ではゴミの類を並べてみたりと、ない知恵をしぼり、いろいろ工夫をこらしてきた。できるだけワンパターンは避けたいので、毎回新しいアイデアを探してきたのだ。しかしだんだんと種が尽きてくる。そんなとき、突然バイクを置くことを思いついた。バイクならば、路上にあっても何ら違和感はない。しかもプラモデルを加工すれば済むので、作るのもカンタンそうである。だから最初に考え付いたときには、大喜びしたものだ。そうして出来上がった作品の題名は「モンパルナス19」。(以前より当サイト、アートインボックスのコーナーに掲載してある。)
 と、いうわけで、アイデアはよかったのだが、非常に困ったのは、古いバイクのキットがみつからないことだった。本当なら、1940年ごろの、フランス製のバイクが望ましいところ。しかも縮尺は12分の1でなければならない。私は、次から次へと東京中のプラモデルショップを探し回った。だがそんなものはどこの店にも置いていなかった。それでしょうがなく、この作品には、ハーレーダビッドソンのアーミーモデルを置くことでお茶を濁した。なにしろ私がつくっているパリものは、ノルマンジー上陸作戦によって連合軍が進駐してきた直後という設定なので、道端に米軍バイクがころがっていたとしても別段不思議ではない。が、車種としてはかなり新しいものだったので、時代考証的には大いに不満足ではあった。しかしそんなことまでわかる客はまずいないだろうと考え、そのまま作って作品の手前に置いてしまった。
 それは、それでよかった。
 だが、じゃあ、「他の作品にフィットするバイクは?」となると、相変わらず適当なものは見つからない。仕方なく、ある人に
「なにか、いいバイクって、ないですか‥?」
と、尋ねてみた。この方は、かなりのドールハウスをつくる女性で、どういうわけかバイクにも非常に詳しいという変わったお方。
 それから数ヶ月が経って
 「もし、よかったら、これを使ってください‥」
 なんとプラモデルのバイクのキットをタダでプレゼントしてくれたのだ。それがグンゼのハイテクキットとの出会いだった。このときいただいたキットは「BMW・R69S」と「トーハツ・ランペット・CR50」のふたつで、いずれも店頭では入手不可能という貴重品だった。もったいなくてしばらくは封を切る気になれず、実際に作ったのはそれから一年ぐらいたってからのことだった。しかし残念ながら、二台ともパリの街角には不似合の車種だったため、ただ単にバイクだけの作品となってしまった。以後その数は、だんだん増えてゆき、同時に、バイクを作ることにはまってしまった私は、町のプラモデル屋でグンゼのキットを見つけるたびに買いあさっている。

 本文の文末には、2000年の11月に発売された「月刊モデルグラフィクス」の誌面から、私のバイクが取り上げられたときの様子を掲載した。写真はトーハツ・ランペットと、ホンダのCR110である。このときは同時にカンタンな制作記事も併載された。(記事の内容は、当コーナー・2002年11月15日付けにて全文掲載してあります。)その後再度、同誌別の号に、こんどは「陸王」を取り上げて下さるという話があり、私は、はやばやと記事だけを書いてしまった。が、結局「陸王」の記事はボツになり、使われることはなかった。もったいないので、本日は、その、日の目を見なかった駄文を下に掲載することにした。

 ――これは陸王ってバイクだが、むかし三軒隣りのおっちゃんが乗っていた。当時、うちのオヤジは「アサヒ号」なんて地味なバイクで通勤していたから、こども心に「負けた!」なんて思ったもんだ。
 前回、11月号で記事にしたトーハツ・ランペットは、絶版の貴重品というキットを組んだものだったが、今回の陸王は、幸いいま市販されている。
 例によってグンゼ産業のハイテクモデルというキットを使ったので、主要部品のほとんどがホワイトメタル製というやっかいなもの。やってみりゃあわかるけど、ちょいとヘマすりゃポキッと折れちゃうのがホワイトメタルの特徴だ。だから折れちゃったパーツはすべて金属で作り直した。サイドスタンドや、マフラーの根元や、リヤブレーキのテコや、訳のわからないパイピングの類や、その他かなりの部品を真鍮で作り直した。また、フロントとリヤのフェインダーや、イグニッションキーや、リヤのナンバープレートなども、薄い洋白材を材料に、すべてを作り直した。というのは、キットにふくまれているステンレスのエッチング板はメチャクチャ硬いので、うまく曲がらない。その上ステンレスだとハンダが流れにくいし、腐蝕液にも反応しない。等々を考慮して、ぜんぶを洋白でつくりなおさざる得なかったのだ。
 今回の自慢はサドルなんじゃよ。むかしのバイクのサドルって、だいたいこんなもの。しわくちゃのボロボロだった。そのへんをムキになってつくろうとするとこんな風になる。まずツルッとしたプラスチック製のサドルにゴムのり系のスプレーを吹き、それから東京都23区推奨の白いゴミ袋をおっかぶせ、くるりと裏側に巻きつけた。そいで裏側にはピッタリの大きさのガムテープをはりつけて、ギュッと固定する。着色は、オイルステインの原液(黒)を、シンナーでパシャパシャに薄めて筆でサッと塗った。もっともこれは表側(サドルの表側)だけのことで、裏もおんなじようにやったらシンナーが染みてガムテープがはがれてしまう。だから裏側はスプレーでの着色となった。(――表側だけは、どうしてもキタナラしく塗りたかったので、筆ぬりにしたって訳だ。)
 これで、かなり実感がでる。
 だがここまでやっちゃうと、どうしてもサドルのアンダーが気になってくる。キットだと、そのままサドル受けに接着しておしまいだが、それじゃせっかくの雰囲気が台ナシしだ。むかしのバイクなら、コイルスプリングが丸出しって構造でなきゃ、ね。
 おかげでコイルスプリングも自作することになった。
 太さ0.5ミリ程度の真ちゅう腺を少量準備し、まずはそれをガスで真っ赤にあぶって焼きなます。あとはそれを太さ2ミリの丸棒に巻きつければ出来上がり。ここまでは、いたってカンタン。しかしそのあと、そのスプリングを、どうやってサドルの裏側に取り付けるのかが、非常にやっかいだった。シートの裏側は、さっきガムテープを張ってしまったし、スデに着色もしてあるので、加工は、かなり面倒だ。
 以下、少し説明すると、まず真ちゅうでT字型の金具をあらかじめ作って、それをサドルの裏側にピンで突き刺して固定する。次はT字金具のおのおのの先っぽに細いシャフトをハンダ付けし、そこに、さっき作ったコイルスプリングを通して、それからサドル受けに接着するという手順だった。やったら案外うまくゆき、しわくちゃのサドルの下には原始的なコイルスプリングがキラリと光って、そうとういい雰囲気になってきた。すっかり気に入った私は、ついでに(フロントの)ハンドルの根元にもスプリングを入れたくなり、こうしてだんだんと余計な仕事が増えていった。
 いまでも慙愧(ざんき)の念にかられるのはヘッドライトの角度のこと。もつと下に向けるべきだったのだ。残念ながらこの部分は特に厳重に真ちゅう線を植え込んで止めてあったので、あとでは直しようがなかった。しかし、よく良く考えると、むかしの単車のライトなんて、結構ぐらぐらしていて、よくおっちゃんが、走らす前に、ちょっと下を向けたりして調整していたものだ。それを考えれば、多少上を向いていても、そんなにメゲることはないのかも知れないと、いまはそう思い、自分をなぐさめている。

 陸王がはやっていた時代は、力道山や、月光仮面が大活躍していたころのこと。だから陸王っていうと、どうしても力道山の顔をおもいだす。力道山のようなムキムキマンがよくこの単車にまたがっていた。

月刊「モデルグラフィク」誌
大日本絵画/刊・2000年11月号より


2003年7月15日

2003年6月18日

 またまた「トキワ荘・ネタ」で申し訳ない。
 最近、当サイト「トキワ荘」のセクションを大幅にリフォームしたために再度の登場となってしまった。写真を増やし、かなり多くの英文も追加して「トキワ荘物語」とでもいったセクションにつくりなおした。
 最近は宮崎アニメなど、世界中に日本のマンガが知れわたるようになり、「トキワ荘がそれらのルーツなのですよ‥」ということを、諸外国の方々にもかってもらいたいと考えてのことだ。そういうわけで今回改装した「トキワ荘物語」は、今のところ英語オンリーなので、下に翻訳した和文を掲載することにした。
 本編のページに配置した英文は、主に米国人に向けて書いた文章だったが、今回はそれをできるだけ忠実に日本語になおしたため(日本語としては)すこしヘンな部分もある。

 「トキワ荘」
 ――ページでは画面左側にガスメーターの写真1枚を添付。(このガスメーターは、私の工作教室のグレート・パーソン「佐野匡司郎」という御仁の作だ。)

 鉄腕アトムや怪傑ハリマオなど、子供の頃にはよくマンガを読んだ。アトムはもちろん手塚治虫だし怪傑ハリマオは石ノ森章太郎の作だ。この両者はかって「トキワ荘」と呼ばれる小さなアパート(豊島区椎名町・現南長崎にあった)に暮らしていたことがある。
 2001年、私は石ノ森章太郎氏のミュージアムに展示するための模型展示物「トキワ荘」を制作する機会を得、この年の春に制作した。それは私にとって大きな仕事だった。

 「マンガのルーツ・トキワ荘」
 ――ページでは画面左側にアパート裏側の写真1枚を添付。

 東南アジアやフランス、米国など、日本のマンガやアニメーションは、今日、世界中に知れわたっている。ポケモン、ピカチュー、ドラゴンボールなど、きっとあなたの身近にいるはずだ。それら日本のマンガのルーツがこの小さなアパートだった。
 1950年代のこと、ここには約10名のマンガ家たちが暮らしていた。その10名は、すべてがマンガ界における偉大なパイオニアとなった。今日では「巨匠」と呼ばれる方々ばっかりである。中でも手塚治虫、赤塚不二夫、藤子フジオ、水野英子、石ノ森章太郎の各氏は、依然としてわが国では非常に名高い存在だ。

 「棟上は昭和28年」
 ――ページでは画面左側にアパート正面の写真を1枚掲載。

 トキワ荘は昭和28年、天野喜乃氏によって建設された。外観は何の変哲もないただのアパートだったが、やがて日本のマンガ界にとっては「記念碑的建造物」と呼ばれるようになった。しかし残念なことに、昭和57年(1982年)に取り壊されてしまった。
 写真の二階左側が石ノ森章太郎氏の部屋で、その右隣の部屋が、赤塚不二夫氏の部屋だった。

 「玄関」
 ――ページでは画面左側に玄関の写真1枚を掲載。

 玄関は幅約一間(1820ミリ)で、入ると右に二階へ昇るための階段があり、左側が廊下になっていた。入り口の扉はいつも開いていて、カギは掛かっていなかった。
 ところで昔の日本では、たいがい入口が引き戸だったものだが、このアパートにはスイングドアーが使われていので、かなりモダンだったことがわかる。

「石ノ森章太郎の部屋」
 ――ページでは画面左側に石ノ森部屋の写真1枚掲載。

 今回の仕事は、石ノ森章太郎氏のミュージアムに納入するためのものだったので、石ノ森部屋の室内だけは完璧につくる必要があった。右の写真がその内部だ。一辺が一間半(約2.7メートル)四方という小さな部屋で、奥にはふすまが見える。中央には丸いお膳が見え、手前にはライティングディスクが見えるが、石ノ森氏はこの小さな机で数々の名作を描き上げていた。
 あいにく写真がないのでお見せすることが出来ないが、今回私は、石ノ森部屋以外にも九つの部屋の内部造作をつくった。

 「四畳半の部屋」
 ――ページでは画面右側に上から見た石ノ森部屋の写真1枚掲載。

 この写真も石ノ森部屋の内部を写したものだ。普通サイズの畳が四枚と、その半分の大きさの畳が一枚、床に敷いてある。わが国では部屋の広さを言い表すときに、いつも畳の枚数を数えて表現する。つまりこの部屋は四畳半である。それは我が国では、よくある広さであった。
 石ノ森氏は、ジャズやクラシック音楽と、読書が大好物だったので、畳の上にはたくさんの本と、LPレコードのジャケットが置いてある。それらは私の生徒「田山まゆみ」さんが作ってくれ、その数は1000点にも及んだ。

 「二階の廊下」
 ――ページでは画面左側に廊下の写真1枚掲載。

 二階には約10部屋があったが、どの部屋もみんなおんなじ大きさだった。室内にトイレや台所はなく、それらは廊下にあった。また、アパートには風呂がなかったので、彼らはいつも銭湯を利用していた。廊下はたいがいホコリっぽく、薄暗かった。
 写真の手前右側が石ノ森氏の部屋で、その向かいが水野英子氏の部屋だった。そして写真奥の左側がトイレと台所だった。

 「水野部屋から見た石ノ森部屋」
 ――ページでは画面左側に水野部屋の窓から内部を覗いた写真を1枚掲載。

 この眺めは水野部屋の窓の外から内部を覗き、廊下の方向を見たものだ。しかし彼女の部屋の入口と石ノ森部屋の入口の両方が開いているために、石ノ森部屋の内部までが見通すことができる。ほんの少しだけ石ノ森部屋のステレオが見えるが、これは彼ご愛用の品で、非常に大切にしていた。彼はベートーベンやモーツァルト、マイルス・デビスやソニーロリンズといった音楽を、いつもボリューム一杯に鳴らしながら仕事をしていた。

 「田山まゆみ」
 ――ページでは画面左側に田山まゆみさんの写真1枚を掲載。

 2001年の五月後半になると、おおかたトキワ荘は出来上がっていた。大きな作品がひとつ、私の作業場にデーンとそびえていた。たくさんの方々がお見えになった。このアパートのオーナーだった天野ご夫妻や朝日・読売新聞、雑誌社や、友人や、私の生徒などがほとんど毎日のように見にきた。写真の中で作品を真剣に覗き込んでいる若い女性は、私の教室の生徒「田山まゆみ」さんだ。彼女がこの作品のために千点にも及ぶミニチュア・パーツ(書籍類)をつくってくれた。作品の後ろにほんの少しだけ見えるのは、彼女のご主人だ。
 この写真から間もなく、5月の末日に、この巨大な作品は私の作業場から去っていった。

 「小学館にて」
 ――ページでは画面左側に小学館での写真1枚を掲載。

 小学館は大手の出版社である。その本社ビルは、よく「藤子フジオによって建てられた」などと言われる。それほど彼らは藤子フジオのマンガ(オバQやドラエモン)を大量に販売したのだ。その藤子フジオも、かってはトキワ荘の住人だった。だから作品の完成後いったん小学館のロビーで展示されることになった。
 写真の中で、私のとなりの女性がマンガ家の水野英子先生だ。彼女もかってはこのアパートに暮らしていたことがある。当時彼女はまだ18才だったが、すでにマンガ家としてはよく知られた存在だった。そんな彼女が、ある日偶然私のエキシビジョン会場を訪れ、作品を気に入ってくれた。それから数年がたち、彼女が私を、この仕事の製作者として推薦してくれたため、このような作品を作る機会を得ることができた。

 「萬画館にて」
 ――ページでは左側に「萬画館」内部の写真1枚掲載。

 石ノ森章太郎は、わが国では偉大なマンガ家として知られている。1998年に惜しくも世を去ったが、生涯に700タイトル以上のマンガを残した。
 彼の死後、西暦2001年の夏に、氏のふるさと(宮城県登米市中田町石森)にほど近い石巻市が「石ノ森萬画館」という巨大なミュージアムを作った。左の写真はその内部である。私の作品は「トキワ荘の青春」というコーナーに展示してある。

 「実物の玄関」
 ――ページでは画面左側に汚れたドアーの写真1枚を掲載。

 トキワ荘の実物写真は少ない。左の写真はそのうちの一枚だ。このアパート玄関の、実物のドアーの写真である。
 昭和57年(1982年)のこと、まもなくこのアパートが取り壊されることを知った水野英子氏は、長男「春暁」(はるあき)さんを連れてここにやってきた。そして彼女はこれら36枚ものカラー写真を撮ったが、それは正に取り壊される寸前のことだった。従って写真はどれも非常に貴重なものである。

 「階段」
 ――ページでは画面下段に写真3枚掲載。

 玄関の中に少年がいるが、水野英子氏の長男春暁さんである。別の写真では階段が見えるが、階段の上に小さな部屋が見える。それはトイレである。

 「石ノ森部屋」
 ――ページでは画面下段に写真3枚掲載。

 写真には本物の石ノ森部屋(左の写真)や、散らかった廊下や、建物の外側が写っている。

 「台所」
 ――ページでは画面左側に台所の写真を1枚掲載。

 二階には台所がひとつしかなかったので共同で使っていた。石ノ森氏がここに来た当時、彼はまだ18才(石ノ森氏と水野氏は同年)だったので炊事洗濯はできなかった。だから、たまに彼の母親が国からやってきて彼を助けた。そんなとき彼女は、この台所で洗濯し、料理を作った。写真の奥に流しが見えるが、当時彼らは貧乏で、ときには風呂銭にも困ることがよくあった。だから夏場になると、この流しを使って体を洗ったそうだ。
 「青春のトキワ荘」という映画があって、映画にはこの流しも登場していた。しかし、残念ながら「ジャパニーズ・オンリー」なので、みなさんの国では見ることができない。
――映画は、市川準の監督作品で、昭和30年代のムードがじわ~っと漂ってくるような、実に良い映画だった。ただトキワ荘の玄関や階段など、実物とは若干違った形のセットを組んで撮影されている。(レンタルビデオ屋にあります。)

――以上です。ぜひ「スライド・ショー」の写真とあわせてご覧になって下さい。「非常に面白かった」というメールが、米国からも届いております。
 また拙著「トキワ荘制作記」(メイキング・モデル・オブ・ザ・トキワ荘)では、この作品の制作過程における苦労話や、トキワ荘にまつわる物語や、裏話の類も、盛りだくさん執筆いたしましたので、あわせてお読みになってください。当サイト「インフォメーション」のコーナーに掲示してあります。

トキワ荘で仕事中の石ノ森章太郎
昭和31年ごろ
写真提供・石森プロ


2003年6月18日

2003年6月9日

 下記日程で「第五回・東京インターナショナルミニチュアショー」が開催されます。 今回は、急遽拙作も数点展示することになりました。是非お出かけください。

名称――第五回・東京インターナショナルミニチュアショー
場所――浜松町・都立産業貿易センター5F・第二展示室
      東京都港区海岸1-7-8
      (JR浜松町駅北口より右に歩き徒歩5分)
会期――6月14日(土)10:00~17:00
      6月15日(日)11:00~16:00
入場料―前売券(税込): 1日券¥1200 2日共通券¥2000
      当日券(税込): 1日券¥1500 2日共通券¥2500
協賛――日本テディベア協会・日本ドールハウス協会・財団法人東京善意銀行

2003年6月9日

2003年5月27日

 前回のトークスでは、ロゴスギャラリーで開催された私の最初のエキシビジョンについてお話しし(2003年5月19日付け)このとき一点だけアートインボックス作品をつくったと書いた。
 それはパリの街角ではなく、白い壁の「ベランダの情景」だった。
 当日の展を手配した友人がそれを作ったらどうかと、私に提案したからだ。彼は、その少し前に仕事でイタリアに出かけ、ミラノの露天で売っていたという絵はがき3枚をわたしの自宅に送ってよこした。見るとはがきには、ベランダの情景が造形作品として作りこまれた写真が印刷してあって、下段には「ART IN BOX」と書いてあった。あんまりたいした作品ではないと思い、気にもとめないでいると
 「ハガキ見た? あれ、作ったら売れると思うんだ‥‥」
 数日後に当人から電話があった。
 「へえ~ こんなものが売れるのかねぇ~」
 と、私は、半信半疑だったが、せっかくの提案だからと、さっそく似たものを一点だけ作ってみることにした。
 それがこのときの「ベランダの情景」である。

 最近当サイトのスライドショー・アートインボックスのページに、その白いベランダを掲載したので、ぜひご覧になって下さい。フランス語のタイトルは「L’atomosphere dans la veranda」(ベランダのムード)とし、作品の横に配した英文は、本日ここに書いたことの要約だ。
 当時わたしは、模型をつくり始めてまもなくのころだったので、まだ80分の1の作品しか作ったことがなく、ドールハウスというものの存在すら知らなかった。従って、最初のベランダ作品を作り始める前にはいろいろとリサーチをして回り、そういった作品はドールハウスと同一サイズ(縮尺12分の1)で作るべきだと、始めてわかった。だが作品は、友人の予言どおりこのときの展で売れてしまい、気をよくした私は、その直後にまったくおなじ作品をまた作った。それが今回サイトに掲示した「「L’atomosphere dans la veranda」である。(だからこの作品は、私がいちばん最初に作ったアートインボックス作品とおんなじ、ということである。)なぜ直後に、同一の作品をまた作ったのかというと、この年の年末に、こんどと新宿伊勢丹での個展開催予定があったからだ。

 そのとき私は伊勢丹の担当者に対して、急遽20点ほどのアートインボックス作品を制作し、陳列することを約束し、この年の秋、大慌てで大量のアートインボックス制作に着手していた。当時は「パリものをつくる」といったアイデアはまだなく、とりあえず売れてしまった作品のコピーをもう一点だけ作ってみたのだ。また、絵ハガキに写っていた作品は白い壁ではなく、赤い、レンガ色とでもいった色調だったため、他にももう一点、そんな作品も同時に作った。――この作品も、以前より当サイトに掲示中で、「LA VERANDA AUX MURS ROSE」(壁がピンク色のベランダ)という仏題で、白いベランダ作品の直後のページに掲示してある。

 こうして私はまずふたつのアートインボックス作品を作った。
 その後更に追加で2点の小さなベランダを作り、これで計4点のアートインボックス作品が出来あがった。しかし20点制作すると言ったのだから、またまだ数が足りなかった。が、目の前に4点のベランダが出来てしまうと、なんとも趣向にとぼしく、会場ぜんぶをベランダ作品で埋めるのは到底無理と判断した。そうして私はやむ終えず、このときに始めて「パリの情景」を作りはじめることになった。
 そのあとは言語に絶する大奮闘が約二ヶ月間続き、毎日毎日「パリもの」ばっかりを作りつづけた。が、結局20点は作りきれなかった。しかし、お陰様で大小合わせて15点ほどのアートインボックス作品が完成し、曲がりなりにも伊勢丹への約束を果たすことができた。

 もう、なくなってしまったが、当時、新宿伊勢丹・新館8階には「伊勢丹美術館」という大型ギャラリーがあって、ダリやシャガールなど国宝級の美術品を意欲的に開催していることで有名だった。このフロアーには、他にもふたつのギャラリーがあって、8階全体が「伊勢丹・美術フロアー」と呼ばれていた。そのうちのひとつ「ファイン・アートサロン」という会場を使わせていただき、1996年の12月25日~30日という日取りで「模型は美術・芳賀一洋の世界展」という拙展が開催された。
 1996年という年は、新宿駅南側が再開発され、新たに「高島屋・タイムズスクエアー」がオープンした年だ。伊勢丹対高島屋の激烈な商戦がスタートしたばかりのころだった。客足が高島屋に向いてしまうのを少しでも食い止めようとした伊勢丹は「伊勢丹創業110周年記念」と銘打って「コーン・コレクション展」という催しを、かなりのロングランで開催した。
 もちろん「伊勢丹美術館」を使って、である。
 あまり詳しく知らないが、コーン氏(米国人)とは、個人としては世界でも有数の美術コレクターだそうで、会場にはマチス・ピカソ・ゴーギャン・ゴッホ・セザンヌなど、そうそうたる画家たちの、どれもが本邦初公開といった名画美術品がずらっと並んだ。この催しが、確かこの年の夏から始まっていて、最終日が年末だった。だから拙展がスタートした12月25日とは
 「二度と再び見られません、この機会を絶対にお見逃しなく!」
 ということで、ものすごい数の客が、8階の隅々にまであふれていた。拡声器では「一列にお並び下さーい!」が連呼され、延々長蛇の列が遥か3階あたりにまで連なり、「どうか押さないで‥‥」という係員の声が私の会場まで聞こえていた。
 「東京に、こんなに多くの美術愛好家がいたとは‥‥」
 と、私は、ただただ驚くばかりだったが、フロアー全体がまるでラッシュ時刻の駅ホームのような状態なのだ。そして美術館から吐き出された客の群れが、津波のように私の会場を襲い、まるで身動きがつかないほどの大盛況(と言ってよいのか?)という、まれにみる、非常に恐ろしい展覧会状況におちいってしまった。だからこのときの拙展に一体何人の客が詰め掛けたのかは、いまだにわかっていない。
 その翌年、私は調布パルコの特設会場を使わせていただき、「箱の中のパリ」という拙展を開催したが、こちらは入口で入場者数をカウントしていた。それによると、6日間で約7000人の客が訪れた計算だった。だが伊勢丹は、それをも上回っていたと思うので、多分「万」の数を超えていたんじゃないかと思う。
 まあとにかくスゴイ展覧会だった。

 当日の様子は、当サイト「Scenes From Exhibitions」のセクションに最近掲載した。だが撮影は開店直前に行われたため、人は誰も写っていない。また、このときの展に間に合わせるため、いっぺんに大量のアートインボックス作品を制作したことの奮闘は、拙著「続・木造機関庫制作記/雲の上から届いた便り」(これも当サイトに掲示中!)に詳しく記述したので、ぜひ一度お読みになってください。

伊勢丹の「美術催事ご案内」より


2003年5月27日

2003年5月19日

 わたしが最初に模型の小屋をつくったのは1995年、阪神淡路大震災があった年の夏だった。この年はまたオウムの地下鉄サリン事件も勃発した年で、国中がなにかと騒々しかった。当時わたしはまだ商売をやっていたので、上九一色村のサティアン二階でグル麻原が発見されたときの映像は、厚木パルコ従業員休憩所のテレビで見守っていたものだ。そこに自分の店(ブティック)があったからだ。
 確かこの年の前年、当時の橋本政権が消費税を5%に値上げし、そのため一気に消費が冷え込んでしまったのも、また1995年のことだった。だから麻原逮捕のニュースのあと、わたしは厚木の店をリストラし、同時に池袋の店もリストラした。そしてこの年の初夏にかけては、他にもひとつかふたつの店をリストラしてしまい、これから先どうやって生きていこうかと、かなり悩んでいた。そんな年の夏、ほんの気分転換のつもりで非常に小さな模型の小屋を作ってみた。そしたらそれがなかなか良いできで、いきなり熱中してしまった、というわけだ。
 このへんの事情については拙著「模型のはなし①しぶ~い木造機関庫をつくる」(お問い合わせは http://www.10daysbook.com/ )に詳しいので、ぜひ一度お読みになってください。
 ま、そんなことで、急に模型の制作に熱中してしまったわたしは、この年の年末までに約20個ほどの作品を作った。だが同時に、依然としてまだ数店舗の営業はつづけていたので、よくもそんなに沢山作れたものだと改めて感心する。火事場の馬鹿力というやつだ。明けて平成8年(1996年)の正月に、私の友人が、私がつくった木造機関庫を、渋谷パルコの奥山俊一という方のところに持ってゆき
「こんなものを作っている男がいるんですが、御店のどこかで展示できませんか?」 と、尋ねた。木造機関庫とは蒸気機関車を格納するための車庫である。そして奥山氏は、当時パルコの取締役副社長だったと記憶する。
 あとでその友人から聞いたはなしによると、パルコの応接室に通されてパッと機関庫のふたを開けたとたん、奥山副社長は「ウーン‥」と言ったきり、しばらく黙りこくってしまったそうだ。そして私の機関庫を、非常に気に入ってくれたとのことである。
 当時はぜんぜん知らなかったのだが、数年後に判明した情報によると、奥山氏は鉄道の大ファンで、JR各線全駅の切符を収集しているほどの「鉄道大オタク」なのだそうだ。多分そんなことが幸いしたのだろう、お陰様で1996年の春、渋谷パルコ・パート1の地下一階にある「ロゴス・ギャラリー」というところで、最初のエキシビジョンを開催することができた。
 パルコの地下には「ロゴス」という名前の書店があり、その脇にあるので「ロゴス・ギャラリー」という名称だ。そしてキャラリーのお向かいは、ちょうど洋書売り場になっていて、アートに関する洋書としては東京でも屈指の書籍数を誇ると思う。そんな関係から、渋谷の割にはインテリが多く集まる場所で、多種済々の方々との知遇をえることができた。なかでも田村豊幸(たむら・とよゆき)という日大名誉教授さまが新聞を見て会場を訪れ、拙作をたいへん気に入ってくださり、翌年(1997年)に「真岡駅・STATION」を作ることのきっかけ(4月22日付けトークス参照)となった。

 最近、当サイト「ウォークス」のコーナーに「Scenes from exhibitions」というスライドショーを新設し、その最初のページに、このときの展示の様子を掲載した。(写真の横にディスプレーした英文は、本日ここに書いたことの要約だ。)
 中心は木造機関庫の展示だったが、そればっかりでは変化に乏しいと考え「日本軽石興業株式会社」(以前より当サイト・スライドショーに掲載中!)という大型作品を急遽一点制作し、会場中央に陳列した。そしてこのときは、鉄道とはぜんぜん違う「ベランダの情景」も一点だけ制作し、会場の奥の壁に掲げてみた。これは、テスト的に制作した最初のアートインボックス作品だったのだが、どういうわけか売れてしまい、このあと雪崩(なだれ)のように制作することになっていった。
 展示タイトルは「80分の1の世界・木造機関庫たち」ということで約二週間開催され、朝日新聞をはじめとして雑誌サライや週刊文春や、FM放送など、いくつかのメディアでも取り上げていただいたため、予想をはるかに上回る多くの方々にご来場いただいた。
 当日、会場で始めてお会いした吉田政彦氏、坂田真一氏、山下浩氏、高谷俊昭氏の各氏4名は、現在では私の工作教室の中心メンバーとして、あるいは当クラフトクラブのメンバーとして、毎回親しくお付き合いさせていただいている。

雑誌サライ・1996年6月6日号


2003年5月19日

2003年5月7日

 3月に青山で「私の劇場」と題する合同展を開催した。(詳細は2003年3月6日・3月26日・4月1日の、計3回にわたってこの欄に掲載した。)
 この合同展のキュレーターを勤めていただいた宇野亜喜良(うの・あきら)氏は1960年代から70年代にかけて、天才・寺山修二氏と組んで実に多くの仕事をこなしていたハズである。寺山氏の手による戯曲のポスターを制作したり、ときには舞台デザインみたいなことも手掛けていたと記憶する。今年はその寺山修二没後20年に当たるそうで、先日「宇野亜喜良展・われに五月を」という、宇野展の案内状が届いた。その中で宇野氏は、以下のように語っている。

 ―――タイムトンネルシリーズに登場することになった。自分の作品保管能力の欠落がこの場合の恐怖だけれど、ギャラリー側の機動力に頼り、コンピューター出力に頼ればなんとかなるものと楽観している。
 もうひとつの現在形の仕事の方は、ぼくの活動の中の「演劇的なるもの」をテーマにすることが決定した。グラフッィクや舞台のデコール・デザインや、小道具や衣装などの造形物を展示するというところまでは良いのだけれど、10月に「ダンス・エレマン」というカンパニーが上演するものまで、実際に制作してしまおうという企画がちょっときつい。なにしろこのグループでは、このところテクストまで手掛けているから、そこから出発しなければならない。そのうえ人形劇団「かわせみ座」特別出演も決まったので、人形の制作もやらなければならない。
 今年は寺山修二没後20年なので、やっとタイトルだけは「われに五月を」に決まったという状態なのだけれど。(談・宇野亜喜良)―――

――タイムトンネルシリーズ Vol.17
タイトル: 宇野亜喜良展「われに五月を」
日程: 2003年5月6日(火)~5月30日(金)
時間: 11:00am ~7:00pm(土・日・祝祭日休館)入場無料
第一会場: ガーディアン・ガーデン
――銀座 7-3-5 リクルートGINZA 7 ビル B1F 03-5568-8818
第二会場: クリエイションギャラリー G8
――銀座 8-4-17 リクルートGINZA 8 ビル1F 03-3575-6918

 「われに五月を」というのは何ともグッとくる名題ではないか。たぶん寺山氏の作による戯曲のタイトルだと思うのだが、昨今の陽気には正にピッタリだ。
 実は、この五月には、拙展もひとつ控えていて、本当はそっちの宣伝をするつもりでパソコンの前にすわった。だが「われに五月を」の響きが、あんまりにも気に入ってしまったもので、つい宇野展を先に宣伝してしまったという次第である。くらべて拙展のタイトルは、「芳賀一洋&メッシュフラワー展」という何とも平凡なもので、まことに面目(めんぼく)ない。
 メッシュフラワーというものがどういうものなのかは知らないが、わたしのコーナーの横のスペースで展示するということなので、拙作とからめて展示するという意味ではない。そして、拙展の案内状には以下のように記してある。が、この文面もまことに平凡なもので、おはずかしい。

 ――立体画家として独自の世界を築いている芳賀一洋氏は、「箱の中のパリ」シリーズとしての一連の作品群を展開します。またメッシュクラフト協会のメンバーは、インテリアフラワーをメインとする作品を多数出品いたします。ぜひご高覧ください―――

タイトル: 芳賀一洋&メッシュフラワー展
会期: 2003年5月15日(木)~5月21日(水)
会場: 渋谷駅・東急東横店(南館)8階・工芸品エスパス
時間: 10:00am ~8:00pm(最終日は5時閉場)
電話: 03-3477-4550(会場直通)

 渋谷駅のすぐ上にある東急百貨店・東横店には東館・西館・南館とあるらしい。南館の8階には通路があって、私もたまに通ることがある。壁掛けや置物などの工芸品を常時陳列している。今回はそのスペースを使わせていただき、拙作を展示することになった。今のところアートインボックス作品を中心に、大小あわせて10数点ほどを展示する予定だ。
 先日担当者より、ディスプレーについての「案」を提出せよと言われ、描いたのが下のイラストだ。この通りになるかどうかわからぬが、まぁだいたいは下の絵のような具合になるハズである。
 ――お時間があれば、ぜひご来場ください。あわせて宇野展のほうもご覧いただければ、かなりの「五月気分」を満喫いただけることと存じます。
 なお私は常駐いたしませんが、ご連絡いただければ、出来る限りご説明にあがるつもりです。

会場の予想図


2003年5月7日

2003年4月22日

 今日は拙作「真岡駅」(STATION)に付いてのはなしをしたい。
 真岡は「もおか」と読む。ここには、むかし芳賀という殿様が住んでいたそうで、私がその直系の子孫だという説がある。だから真岡市は、栃木県の「芳賀群」というところに位置し、真岡線というローカル鉄道がかよっている。
 真岡駅がその中心だ。
 私がこの駅の模型展示物を作った1997年の当時、市長は菊地恒三郎(きくち・こうざぶろう)という方で、蒸気機関車が大変にお好きな方だった。だから菊地氏が市長に当選してからは、真岡線にSLを走らせることに奔走し、1994年に、それは実現した。
 昨今は、地方の村おこしの意味から、各地でSLが運行されていて、静岡県の大井川鉄道などが有名だ。だから真岡市も、観光の目玉のひとつとしてSLの誘致を試みたのだ。というのは、隣りに位置する益子(ましこ)町は、人口が少ない割りには「焼き物の町」(益子焼)として全国的に有名で、それに比べて真岡は、これといった名物がなく「ならばSLで‥」ということになったようだ。
 そうしてSLが誘致され、現在は第三セクターの「真岡鉄道㈱」によって毎週末には運行されている。しかしそれから数年がたち、やがて中心駅である真岡を新築の近代駅舎に作り変えるというはなしが持ち上がり、ふるい駅舎を取り壊さねばならぬことになった。(現在はビル型の新築駅舎が建っているが、50年の昔には拙作のようなレトロな建造物だったそうだ。)そこで、新しい駅の入り口に、旧駅舎の模型展示物を設置して、蒸気機関車が走っていた当時の様子を後世に伝えようということになった。
 ま、そんな事情から出来上がった模型展示物の題名は「旧国鉄真岡駅」(STATION)。 作品の写真は、以前より当サイトのスライドショー「ストラクチャー」の最終ページに掲示してある。(写真の横に配した英文は、本日ここに書いたことの要約だ。)幅は70センチ程度だが、長さが3メートル近くもある作品で、過去につくった私の作品としては、最も大きい。
 1997年の春、製作に着手し、同年の夏には完成した。このときの製作の手順や詳しい経緯に付いては、拙著「国鉄真岡駅制作記」に詳しいので、興味のある方は是非一度お読みになって下さい。(本は、当サイトのインフォメーションのコーナーに掲示中)そして、完成時には新聞に、写真入りの記事として以下のように紹介された。

――昔の真岡駅の風景を後世に伝えようと市は、同駅一階のコンコースに昭和初期の駅舎の模型を設置した。模型は長さ3メートル幅約1メートルで、縮尺80分の1。美術工芸師の芳賀一洋氏が約3ヶ月かけて制作。
 跨線橋が架けられた昭和20年ごろの真岡駅を再現。市のシンボルともいえるSL列車をはじめ、貨車や電柱など、昔懐かしい風景をよみがえらせた。建物は、木材や樹脂加工のプラスチックで、柱の一本一本にわたり精巧に作られ、ドラム缶の錆びた様子など、古色の雰囲気も見事に伝えている。
 同町を訪れた主婦大根田明子さん(58)は、30年前に真岡に来たので、当時の様子は知らなかった。模型とはいえ本当によく出来ている。若い人にも歴史を伝えることは良いことですね」と、熱心に見入っていた。市企画課は「真岡駅が心和む場所になるよう模型を設置した。年配の人には郷愁の心がわくのでは」と、話している。
   (下野新聞・平成9年10月9日付朝刊より)

 上の記事にもあるように、作品の実物は、現在、真岡線・真岡駅コンコース中央のガラスケースに入れて展示してある。私はもう何年も行っていないが、最近見に行った人の話によると、ケースがだいぶん汚れているとのことだ。

 我々の世代だと、真岡というと、つい連合赤軍事件のことを思い出してしまうひとがいるようだ。赤軍派が浅間山荘へ行く前に、真岡の銃砲店を襲い武器を調達したからだ。そのため当時のメディアは連日のように真岡、真岡を連発し、一躍その名を全国に轟かせたのだ。他には「真岡綿」という言葉があって、江戸時代のむかしから綿といえば真岡というような伝統的ブランドだった。だから、良質のコットンには、今でもこの言葉が使われている。しかし戦後この地で、綿はほとんど生産されなくなり、若いひとは多分知らないと思う。いかにも地方都市といった、のんびりとしたローカル色満点の土地柄だ。
 実は私は、この地のご出身で、現在は日大名誉教授という肩書きをお持ちの田村豊幸(たむら・とよゆき)という医学博士の先生と、以前より懇意にさせていただいている。(博士は数年前に「勲3等瑞宝賞」を授与されているほどの偉人である。)その田村博士より、製作者としての私を菊地市長にご紹介いただき、この大任を任せられることになったのだ。しかし当時市長だった菊地氏は、スデに数年前に退職され、現在は福田武隼(ふくだ・たけとし)という方が市長だそうだ。だが福田氏が鉄道や蒸気機関車好きかどうかは、わからない。しかし新市長が鉄道好きでなかった場合、真岡線のSLや、私の模型展示物にホコリがかかるのは仕方のないことだと思う。

上の写真は昭和45年当時の真岡駅。


2003年4月22日