2003年3月6日

 1960年代に青春を送った団塊の世代にとって、宇野亜喜良(うの・あきら)という名前は、格別の意味がある。当時われわれのバイブルだった「平凡パンチ」誌の常連イラストレーターだったからだ。この雑誌の表紙のイラストを書いていた大橋歩(おおはし・あゆみ)さんや、伊坂芳太郎、横尾忠則氏(当時は全員がイラストレーターだった)などの名前とともに、今でも、鮮烈に記憶に残っている。
 その宇野氏から、去年の秋に電話があった。
「こんど青山で我々の合同展があるんですが、もしよろしければ、芳賀さんもご参加いただけませんか‥‥」
とのことだ。
「え? 私なんかが、参加しても、よろしいんでしょうか?」
彼の名前を聞いたとたんに、びっくりしてしまい、なんと答えたのかは、よく覚えていない。
 いずれにしても
「大変光栄なことなので、ぜひ参加させていただきます」
みたいな返事をした。

 以前より当エキシビジョンのコーナーには掲示してあったが、その合同展は、下のような日程で開催される。

タイトル: 「私の劇場」
場所: 「ギャラリー北村」
     東京都港区南青山5-1-25 北村ビル102
     TEL 03(3499)0867
日程: 2003年3月10日(月)~4月12日(土)
時間: 11:00am.~5:00pm.
パーティー: 3月10日(月)の午後6時よりオープニング・パーティーがあります。(どなたが参加しても構いません。芳賀も参加の予定です。)

参加するアーチストは以下の方々です。

  船橋全二
  芳賀一洋
  石塚公昭
  石山裕記
  串田和美
  野村直子
  下谷二助
  和田 誠
 ――以上、案内状の掲載順

 上の方々の名前のなかに宇野氏の名前がありませんが、彼はこの展の「キュレーター」とのことで、今回は作品を陳列しません。また、最下段に名前のある和田誠氏は「週刊文春」表紙を書いている人物として有名だ。そして和田氏は、日本では有数のムービー・ラバー(映画愛好家)としても有名で、映画に関する著書は、かなりの量にのぼると思う。氏は以前映画の監督もやったこともあり、「麻雀放浪記」という彼の映画は、マイ・フェイバリットムービーだ。それどころか、私は、日本映画「ベスト3」の一本に入れてもいいんじゃないかと、真剣に、そう思っている。
 いまのところの予定では、私は、「ザ・メモリー・オブ・マイ・ファーザー」と題するストラクチャー作品のほか数点しか展示いたしませんが、お時間があれば、是非のぞいてみてください。

上が案内状


2003年3月6日

2003年2月28日

 前年9月9日と、今年2月16日の二回にわたって昔の知人・小島素治(こじま・もとはる)氏について、このコーナーに書き込んだ。これに関して、先日「愚すん」という方から、当「BBS」に宛てて多大なリアションをいただいた。そんな関係から、もう一回だけ、彼からの便りを紹介することにする。
 今回はハガキ一枚が到着。
 消印は2003年2月26日。

以下文面――。
時間が無くなってしまった。
敗訴です。
頼んでいた図書の件、間に合うように送ってくれると助かるのです。
今後の通信は親族だけとなります。これが最後になるかも知れません。
A・ヘミングウェイも頼む!
2/28日までに!
――小島素治

 ハガキの現物は下段に添付した。
 官製はがきのアドレス面にのみ、上の書き込みがあり、記入面には「失敗した葉書で失礼する、ゴメン!」とのことで、別人宛ての「失敗文面」だけなので、今回のコンテンツは事実上うえの文面だけである。
 かなりあわただしい雰囲気が伝わってくる。
 スデに数日前、宅急便で5~6冊の書籍は送ってある。所内の手続きに若干の時間が掛かるだろうが、間違いなく彼の手元には届くはずである。しかし懲役となると相部屋であろうし、過酷な労働もあるのだろうから、のんびりと読書もしてられまい。
 生還を祈る!

2003年2月28日

2003年2月24日

 先年の暮れ、12月の3日に発売された「週刊アスキー」対談コーナーに、不肖・芳賀一洋が登場したということは以前に一回書いた。お話しをさせていただいたのは、元TBSの女史アナ・進藤晶子さんだった。進藤さんは、もちろん美人で、しかも非常に背が高かった。もしかしたら藤原紀香さんよりも、ずっとチャーミングかもしれない。(藤原紀香さん、ごめんなさい)。
 そんな関係から対談中はろくなことがしゃべれず、あとではひどく落ち込んだ。しかし当日一緒にみえたライターの田中里津子さんが、すごくスッキリとした記事に仕上げてくださり、さすがプロだと心から感心した。だが写真は、かなりかなり見苦しいものとなった。当日は、写真のことなどあんまり考えておらず、下半身は写らないものとの勝手に判断したのが大きな災いを招いたのだ。お陰でこちとらの履いていた450円のサンダルがバッチリ写ってしまい、これが大きな汚点となった。
 まだお読みでない方もおられると考え、本日はそのときの対談の様子を紹介することにする。
 以下がその全文だが、お話しをしたのは2002年の10月の上旬だったと記憶する。

 進籐晶子の「え、それってどういうこと?」

 「いちばん最初の作品は、
  マッチ棒やコンビニ弁当のパッケージなど、身近な素材で作ったんです」

進籐 芳賀さんの作品には、鉄道や昔の駅をモチーフにした模型のシリーズ(ストラクチャーアート)と、パリのお店を表現したシリーズ(アートインボックス)がありますが、このふたつのシリーズがメインになるわけですよね。
芳賀 最初は模型のほうだけつくってたんです。そしたらおじさんたちには人気があったんですが、女性にはどうも受けが良くなくて。周りからももうちょっとパッとしたものを作ったらどうなのって言われて、作ったのがアートインボックスなんです。
進藤 そもそも、芳賀さんがこの道に入られたきっかけはなんだったんですか?
芳賀 それは、本当にたまたまですね。そのころやっていた商売が、何しろ不景気で。暇で手持ち無沙汰でね。そういうときって、頭を切り替えて気分転換してみるといいじゃないですか。もともと何かを作るのは好きだったし、そのときは他のことなんて何も考えずにただ作って。今から7年くらい前ですかね。できあがったものを見たら、自分でも「これ、いいんじゃないかな」って(笑)。だったらこういう仕事できないかと、商売やってて目が利く友人に見せてみたら、これはいけるんじゃないかって話しになったんです。
進藤 よくピンチにはチャンスなんていいますが、その最初の作品は、どんなものだったんですか。
芳賀 機関庫でした。(*芳賀・注 機関庫ではなく「小屋」でした)それもそのへんに転がってたもので作ってね。マッチ棒を柱にしたり、コンビニ弁当のパッケージをガラスに見立てたり、こういう窓枠とかもね‥‥(引出しをもってくる)。
進藤 うわぁ~ これ全部窓枠ですか?! 小さくて可愛らしいですねえ。
芳賀 この窓枠はね、洋服の値札ってあるじゃない、厚紙の。あれを切り抜いて作ったの。ほら、隅のほう、よく見ると柄が入っているでしょ。
進藤 本当! でもなぜ値札で?
芳賀 商売で洋服屋をやっていたから、店にいっぱいあったんですよ。
進藤 なるほどぉ。確かに身近にあるものですよね。
芳賀 最初は本当にただの暇つぶしでしたね。店番の子が夏休みで、かわりにレジカウンターに座ってたわけなんだけど、お盆だからお客なんてそんなにこないんですよ。週刊誌読むのも飽きちゃって、それで作ってみようかと。
進藤 その記念すべき第一作は、今も残っているんですか?
芳賀 ありますよ! かなりいい作品だったんです。クオリティーとしては、今作っているものとそんなに変わらないかもしれない(笑)。
進藤 見てみた~い(笑)。
芳賀 それで自分でもびっくりして、しかも案外気に入っちゃって、これはもしかしたらいいかもしれないなーと思って。
進藤 年を重ねるにつれて、自分がしたことに驚くなんてこと、どんどんなくなりますよね。芳賀さん、うらやましいです(笑)。
芳賀 僕も、生まれてはじめてって感じでした(笑)。

 「それまで見たことがない物だから
  珍しいんだと思う」

進藤 それから本格的に活動をはじめられたんですね。
芳賀 ええ。最初は小さいのをポツポツ作ってただけだったんだけどね。でも、その次の年の4月には渋谷で展覧会やって。
進藤 あら、ずいぶん早くないですか? トントン拍子だ!!
芳賀 そのときはね(笑)。顔のきく友人がいたおかげです。
進藤 初個展ということは、作品作りは大変だったでしょうね。
芳賀 そうです、そのころは自分で全部作るしか方法がなかったし。だからかなり熱心にやりましたね。
進藤 その展覧会はどんなだったんですか?
芳賀 そのときは‥‥(うしろの引き出しから写真を出してくる)。
進藤 あちこちの引出しから続々出てきますね(笑)。
芳賀 アートインボックスのシリーズは、このときに試しにひとつ作ってみたものだったんです。
進藤 では、このシリーズはここから火がついたんですね。
芳賀 そう、ひとつだけ作って試しに並べてみたんですね。そしたら、たまたまそれが、100万円で売れちゃった(笑)。
進藤 ひぇ~っ、すっごーい!!
芳賀 僕もびっくりしちゃって。
進藤 ご本人も予想されてなかったんだ(笑)。
芳賀 それで、その年末にも個展があったんですが、模型のシリーズだけじゃ地味だからアートインボックスのほうもたくさん作ってほしいって言われて、急遽たくさん作って。
進藤 そうするとすべて、流れに乗っていくうちに気がつけば今、という感じなのかしら。
芳賀 そうですね。
進藤 ”立体絵画”っていうのは、芳賀さんが作られた言葉ですよね。
芳賀 まあ、どこかで聞いたような気がしないでもないけど(笑)。
進藤 つまり、この立体絵画の歴史は、芳賀さんからはじまった。
芳賀 う~ん、そうですね、激しい言い方をすればね(笑)。でもホント、ただみんな珍しがってくれるだけだと思うんですよね。今までこういうの見たことがなかったから。
進藤 どんどん道が開けていったその当時、ご本人としてはどんなお気持ちだったんですか。
芳賀 いや、なにかを考えるとかそういう感じじゃなかったですね。とにかくひとつの展覧会が終われば、またすぐ次がくるので、何しろ僕の作品の場合は、作るのにものすごく時間がかかるので、もう、この狭い家の中を駆けずり回ってる感じでした(笑)。ずーっと仕事して、そのままパタッと寝ちゃって、起きたら歯も磨かずにまたそのまま作り始めて。
進藤 寸暇を惜しんで。つまり、起きてる間はずっと作品を作ってらっしゃる生活だったんですか。
芳賀 そうでしたね。
進藤 今も変わらず?
芳賀 今はね、そのころよりはもうちょっとだらけてますね(笑)。

 「トキワ荘の模型の依頼、
  実は最初、断ったんです」

進藤 芳賀さんは、あの石ノ森章太郎氏や手塚治虫氏が住んでいた”トキワ荘”の模型制作も手がけられましたよね。
芳賀 そうですね。それは石ノ森章太郎氏のミュージアム”石ノ森萬画館”に展示するための作品だったんですが(再び引出しから写真を出してくる)
進藤 うわーっ。これ、”トキワ荘”を上から撮った写真ですね。覗き見しているみたいで‥‥楽しい(笑)。もしかしたらこういう感覚も、みなさんに興味を湧かせるポイントのひとつなのかも(笑)。
芳賀 これがアパートの裏から見たところ。表と裏があって、真ん中に廊下があって。こっちが石ノ森章太郎さんの部屋ですよね。
進藤 それにしてもリアルですねえ。
芳賀 屋根にのってる、この瓦はね、こうやって作るんですよ(瓦を作るための型を披露)。
進藤 あ、なるほど。お千菓子作りと同じ手法なんですね。なんだか和菓子職人にもなれちゃいそうですねえ(笑)。
芳賀 あはは。そもそもはね、水野英子さんっていう、トキワ荘に住んでらした少女漫画家の先生が、僕の展覧会場を偶然通りかかって、すごく作品を気に入ってくれてね。
進藤 それがご縁で、ですか。
芳賀 ええ、それでミュージアムを作る話しがあったとき、水野先生のところに監修してくださいって話しがいったみたいで、水野先生が僕を製作者として紹介してくれて。でも最初はね、自分の作りたいような図面じゃなかったもんで、実はお断りしたんですよ。でもその後、僕が考えているようなもの作っていいってことになって、それならやりましょうとお引き受けしたんです。だって最初は模型っていっても、かなり説明的な模型を考えていたみたいなんですよ。ホラよく、ニュースで殺人事件の現場を説明するときに使うようなのあるでしょ。
進藤 位置関係を伝えるための、極めてシンプルな模型ですよね。
芳賀 上から見てここが手塚治虫の部屋とわかるように、屋根がなくて天井がパッカリ開いてて。でもそういうのは僕作ったことがないから(笑)。自分が作りたいようなトキワ荘だったら、一度作ってみたいと思っているんですけどって言ったら、結局作らせてもらえることになって。
進藤 人が実際に住んでそうな雰囲気がする作品として、作らせてくれたんですね。ほんと、部屋の中にマンガの原稿があったりして生活感ありますよね。
芳賀 部屋に積んであった本とかは、助っ人が製作してくれて(笑)。紙ものを作るのがとてもうまい女性でね。作ってくれた本1000冊。タイトルとか大きさとか、厚み、色なんかが全部違っているんですよ。他にもガスメーターとか墨汁の缶とかの金属ものが得意な方とか、いろんな助っ人が助けてくれました。もう僕、電話をかけまくりでねぇ(笑)。
進藤 それは芳賀さんの人柄に違いない。
芳賀 いやいや、そんなことはないんですが。そうそう最近はね、グラウンドゼロを作ってくれっていう話しもありましたよ。
進藤 もちろん、ニューヨークの、ですよね。
芳賀 断りましたけどね。僕の作品って廃墟みたいな作風でしょ。だから、これを作るのはあなたしかいないって。でもとにかくもとが巨大なものだから、もし200分の1のサイズで作ったとしても、大きすぎてニューヨークまで運べないし。仮に3年かかって作ったって、それが世の中のためになるんだったらいいですけどね。
進藤 グラウンドゼロということだから、崩壊した現場を模型にするということですね。
芳賀 そう。倒れた惨状をってこと。だけど焼け野原を作ったからといっても、作品として作るのなら、さらに隣りの倒壊しかかったビルも2つ3つあるなかでの風景ってことになってしまうし。
進藤 それはたしかに超大作になってしまうし、それ以上に、製作者としては複雑な心境ですよね。
芳賀 だからとても手におえないと。

 「模型の中で布や水を表現するのは
  結構難しいんです」

進藤 パリの作品は、今までにどのくらい作られたんですか。
芳賀 まあ、30作品くらいですかね。
進藤 必ずこういうふうに、というのはあるんですか?
芳賀 いろいろあるけど。まあ、やっぱり商店じゃないと面白くないっていうのはありますね。あと、ボロボロで汚い感じが喜ばれるみたいだね。壁がボロッとしてたりとか。
進藤 年季がはいっている感じですか。そう言われると、みんな老舗っぽい(笑)。わざと古く見せるのは難しいんでしょうね。
芳賀 難しいといえばすごく難しいし、めんどうくさいって言いだすとすごくめんどくさい作業なんです(笑)。
進藤 私といたしましては、ディティールにも惹き付けられますね。ショーウィンドーに並べられた品物のうえに、ひょいと帽子がかかっている作品とか。あれ、私、好きなんです。
芳賀 あの店は”チャーリー”っていって、あのチャップリンからきてるんです。チャップリンを好きな年配の方って、結構多いんですよ。それで、前に2つくらい売れたことがあったんで、味をしめて作品の中にチャップリンのポスター貼ってみたりして(笑)。
進藤 お客さんへのサービスだったんですね(笑)。そういう、物語が見えてくるようなところに、人はくすぐられるのかもしれませんね。人物を登場させないのも、芳賀作品の特徴のひとつでしょうか?
芳賀 やっぱり人物は動かないとちょっとヘンじゃないかと思っちゃうんで。あと、布ものも難しいですね。布はね、たとえば80分の1という縮尺で作ってたとしたら、どんなに厚みの薄い布を探したとしても、80分の1の薄さの布って存在しないでしょ。そうすると別のもので代用したりしなきゃいけなくなるんです。
進藤 なるほど。素材そのものもミニチュアサイズで存在しないと。
芳賀 そうそう、ヘンなんだよね。あと、水も難しい。模型では、固まると透明になるものを流し込んで池みたいなものを作る場合もあるんだけど、固まるときにちょっと収縮して端と中心で高さが違ってきたりするから、どうもねえ。それとか、展示してたらホコリがたまったりしちゃうじゃないですか。水面がまったいらっていうのもなんだかヘンだし。
進藤 ご本人としては、布や水は難関だとされていても、全体的なリアルさは高く評価されていて。そのポイントというと。
芳賀 だいたい、素材そのものを使うのがいいんですよね。金属の部分は金属で作るし、壁は壁材で作る。絵の具で着色したりっていうのは、なるべくしないようにしていますね。たとえば、この屋根の部分とかは本当に錆びている金属の板を使っています。こういうのは道で落ちているのを拾ってくるんですよ(笑)。
進藤 思わぬところに素材が(笑)。
芳賀 この間も八百屋の前で一斗缶でゴミ燃やしているのを見つけて。それがね、すごいいい色に錆びてたの。
進藤 アハハ! 一斗缶にひと目惚れしちゃったんですか(笑)。
芳賀 それでさっそくバイクに乗って、きれいな缶、しかも上の部分をちゃんと切り抜いたものをもっていって「おばさん、すいません、これと取り替えてもらえませんか」って。
進藤 アッハハ! いいですね~。
芳賀 帰るとき振り返って見たら「あの人なんだったんだろう?」って、かなり不思議そうな顔してましたよ(笑)。いきなりだったですしね。
進藤 でも、お互いにありがたいですものね。いつもセンサーをはりめぐらせて、物色しながら歩いていらっしゃるんですね(笑)。
芳賀 散歩行っても結構いろいろ拾ってくるんです。あ、いいのが落ちてる! って(笑)。この間も教室の生徒がね、わざわざ遊びに来てくれて、「いい感じで錆びたのが見つかりました!」って。
進藤 うれしいおみやげ(笑)。
芳賀 ああ、これはよく錆びてる!って(笑)。だってもう、都会では錆びたものってないんですよ、最近は。ありそうで、なかなかない。
進藤 錆びたものを見つけるたびに、芳賀さんのことを思い出しそう。お届けにあがらなきゃ!って(笑)。
芳賀 ぜひ持ってきてください(笑)。
進藤 これから作ってみたいもの、挑戦したいことはなんでしょう?
芳賀 いろいろあるなあ。ただ、僕はあんまり豊なものは作りたくないんですよ。だから夏目漱石の家とかそういうのじゃなくて、個人の、庶民の家のようなものを作りたい。
進藤 生活のにおいがするような。
芳賀 そうそう。あとは労働現場ね。今は廃墟のようになっているけれど、昔はここでお父さんたちが働いていたんだよ、みたいなものですね。

「追伸 From 晶子」

「ウチ、わかりにくいんじゃないかと思って‥‥」と、ご自宅前で我々取材スタッフを待ち受けてくださった芳賀一洋さん。隣接するアトリエの出入り口は、捨てずに保管していた扉を、ご自身で取り付けられたのだとか。お仕事場も、模型も、芳賀さんにとってはさしたる違いはないのでしょうね。話題が変わるたびにクルリと後ろを振り返り、ギッシリ詰まった書棚から作品の写真や材料をご披露くださり、お話しがおわるや否やさっさとお方付け。その手さばきたるや、作品同様、見事なことこの上なし、なのでした。

サンダルがバッドでした。


2003年2月24日

2003年2月18日

 去年の11月ごろ、当サイト「walks」のコーナーには、新たに「TOKIWA-SOU」、「Plastic models」、「Accessories」の、3つの項目を新設した。それぞれの項目にはそれぞれの写真を掲載し、また、既存のコーナーにも新作を掲示したり、ページを追加したりと、新しい写真をかなり増やしている。まだチェックしていない方もおられるかと思い、本日は、まずそのリストから‥。

  ①Art In A Box の項目に新作「LE CALVET」を追加(2ページにて)
  ②Art In A Box の項目に新作「HYGIENA BAINS」を追加(2ページにて)
  ③Art In A Box の項目に旧作「La Charrette de Pierre」を追加
  ④Art In A Box の項目に旧作「Isabella」を追加
  ⑤Structures の項目に旧作「A Dull Windless Day」を追加
  ⑥Structures の項目に旧作「Snow in the Morning Light」を追加
  ⑦作品「Nihon Karuishi Kogyo Co.,Ltd」を、計2ページに追加
  ⑧作品「Blowing in the Wind」を、計2ページに追加
  ⑨作品「STATION」を、計2ページに追加
  ⑩「TOKIWA-SOU」の項目にメイキングシーンを追加(2ページにて)

 そして少し前には、当サイトのフロントページを多少変更した。以前は英文のみの掲示だったが、日本語のキーをクリックした場合には、ほんの少々の和文があらわれるようにしたのだ。
 その方がわかりやすいと考えたからだ。
 しかしどんな一文を掲載したらよいのかについてはずいぶんと考え、揚げ句につくったのが下の一文だった。だが、いかんせん長すぎると考え、結局最後の部分のみを掲載することにした。まあ、そんなわけで、ボツにしちゃった前段をも含めて、ここではその全文を掲載することにする。

――私は、いわゆる団塊の世代と呼ばれているグループの一員だ。学生時代はかなり落ちこぼれていた。やっと入った大学はすぐにやめ、一時はイラストレーターなんてことをやったこともある。
 そのあとは、ポリウレタンフォームの製造業に従事したが、これも28歳の年に挫折して、屋台のラーメンを引いた。しかしあんまりにも寒いので長くは続かず、半年でやめた。その後、今度は銀行から金を借りてファッションブティックの店をはじめた。当時はバブル全盛の時代だったので、銀行はいくらでも金を貸した。そうして7~8店舗の店を広げたまではよかったが、やがて大不況が訪れ、これもやっぱり挫折した。
 当時48歳の私は困り果てた。
 もうこの年齢となると、他に転職のあてはなかったからだ。悩みに悩んでいたある日のこと、ほんの気分転換のつもりで非常に小さな模型の小屋をつくってみた。するとどういう訳か非常に良い出来で、自分でも驚いた。そしてふと気が付くと、ある種の造形作家への道を歩み始めている自分を発見したのだった――

 以上がトータルな文章だった。しかしいま読むと、やっぱり後半だけの掲載で正解だったような気がする。いずれにしても最初は、非常に小さな模型の小屋を作ったのだ。そして、そのことについては、ある雑誌にも短い一文を掲載したことがある。ついでなので本日は、そっちの一文も掲載することにする。以下は1999年の春、SMH誌(ホビージャパン刊)第14号に掲載した記事である。

――だいたいからして、不景気だ不景気だって毎日騒ぐから、ますます不景気になるんで、テレビも新聞も報道しなけりゃあ、誰もそんなことわからないんだから、こんなに深刻にはならなかったと思うんだよな。
 オジさんだって、以前は洋服屋だったから大変だったよ。だんだん売れなくなってきて、そのうち取引先への支払いもできなくなるし、銀行からはニラまれるしで、もう散々。そいでしょうがないから5~6軒あった店をみ~んなタタンじまって、アタマにハチマキをしめて、いまは真夜中に模型を作ってるってわけだ。そうじゃなかったら今ごろ背広着てハローワークに並んでいて、絶対まだ失業中だったと思うよ。なにしろ50を過ぎているんだから‥‥。
 あれは3年前の夏だった。
 店のギャルたちに夏休みを取らせなきゃなんないってんで、4~5日の間、オジさんが店番をすることになったんだよ。
 景気がよけりゃあ、店の外に「ただいま夏休み中!」なんてカンバンを出しとけば、そいでいいんだけど、ちょっとでも売り上げがほしいもんだから、そーゆーセコいことをやったのよね。だけど、これがよかったんだね。
 その前の晩のこと。
 資金繰りのことを考えてたら眠れなくなっちゃって、ふと大昔に買ってあったモケイの雑誌をめくっちまったのが、運のツキ。
 「よし、これ、あした店で読もう!」
 なんて‥‥。
 夏休み中の店番は、とにかくヒマなんだよ。
 そいでオジさんは、イヤイヤ店番をしながらもその雑誌を読んだんだ。そしたら急になにかを作りたくなっちゃって、そばにあった洋服の値札とかマッチの棒とかで、ちょっとしたモケイの小屋を作ってみたんだよ。そしたらそれが、いきなりカッコよく出来ちゃって「オレって天才なのかな~」なんて、ビックリしちゃったの。なにかの加減で、ふとF1を運転してみたら、どういうわけかものすごく速く走れちゃって「あっ、これじゃあシューマッハよりも速い!」って、自分で自分にビックリしちゃったみたいなもんだよ、そのときはね‥‥。
 本当にわからないもんだと思ったね。誰だって当人が気づいていない能力って、どっかにあるんじゃないのかなぁ~。
 と、いうわけで、夏休みにイヤイヤ店番をしたおかげで、オジさんはモケイの作家になっちゃったのね。そうこうするうちに真岡(栃木県)の市役所から「むかしの真岡駅を作ってほしい‥」なんて、メジャーな注文も舞い込むようになり、だんだんと忙しくなっちゃったの‥‥。
 まあ、このへんの事情については拙著「模型のはなし①しぶ~い木造機関庫をつくる」(電子書籍/お問い合わせは10daysbook: http://www.10daysbook.com/)って本に詳しいから、真剣にそっちも読んでほしいんだよな。この本には「マル秘」製作技法も満載だから「SMH」の読者なら絶対役に立つよ。
 あと、それからね、渋谷のパルコ・PART-2の6階に「毎日新聞カルチャーシティ」ってのがあってね、そこで「楽しい工作教室」ってのもやってんから、ヒマなひとはぜひ一度遊びに来てほしいのね。見学は無料だし、生徒にはちゃんと「SMH」のファンもいるんだから――

 以上が、SMH誌14号の記事だった。
 文中「あれは3年前の夏だった‥‥」とあるが、今から考えればもう7年も前のことになってしまった。

上がSMH誌14号
左が私のページで右が山田卓司さんですが
山田卓司ってひと、知ってますか?


2003年2月18日

2003年2月16日

 以前、拘置所に収監されている昔の知人から届いた手紙を紹介したことがあった。
 先日ある方から
「あの人、まだ生きているんですか?」
と、心配そうな様子で尋ねられ、たまには気に掛けてくださる人もいるんだと、少し嬉しかった。
 詳しくは2002年9月9日付けのトークスをご覧いただくとして、その男の名は小島素冶(こじま・もとはる)。当年とって62歳ぐらいのはずだ。天涯孤独の身のうえで、最近になって顔面に癌の腫瘍が発見され、生命の危機に瀕しているらしい。いっときぱったりと便りが途絶えたので、さては獄中死したのでは、と心配したが、その後また頻繁に便りが届くようになった。
 実は、去年の暮れに、彼からは文中でカネの無心を受け(これは再々のことではあるが)キッパリと断ったところだ。先方は、拘置所暮らしのうえ、身寄りのない身となれば、ヘタをすりゃあ、こっちが死ぬまでの面倒を見なきゃならなくなる。だがあんまりにもお気の毒だったのでカネ以外のもの、つまり衣類や書籍などの物品や食物ならば、いくらでもお送りできると手紙に書いた。
 ま、そんなことがあったもので、最近では、書籍をおねだりするための手紙が届くのだ。と、いうことは、彼がまだ元気でいるってことの証明でもある。
 しかし良く書けた手紙で、電子メール全盛の今日では一種の文化遺産とも思うので再び紹介することにする。
 以下は、今年の1月18日に、大阪拘置所から届いた最新の手紙である。

 前略。一月十七日。神戸の方に向かって手を合わせる。
 あなた変わりはないですか
 日ごとに寒さが募ります――――
 ――はるみ節だとこう成ります。
 その後、調子はどうですか。個展は盛況でしたか、次なる作品のテーマは何ですか。
 「わたくし」此方は相変わらずの日常です。
 深作欣二監督がお亡くなりになりましたね。深作欣二さんは世間で言うほどの巨匠ではありませんでしたが、映画界にひとつの疾風迅電(エンターテイメント)を興した存在であったと私は思います。彼が求めたものは、アーサー・ペンとサム・ペキンパーについて、だった筈です。
 先の便りでは写真家ロバート・メイプルソープの伝記を書いているパトリシア・モリズロー嬢の文章の一部を書き送りました。突然に「何だコリャッ!」と思ったでしょ。あの中で「歩道には麻薬中毒者が‥‥ わたしは男をまたがねばならなかった‥‥」といった個所がありました。「跨ぐ」の言葉(単語)には以前から凝っていました。こうです。【edge(n)エッジ・境界】。「跨ぐ」は step over (across) で、境界はboundaryか borderですが、わたしは「edge」と書き、視覚的な意味も含めて(記号感覚で)私流に訳しています。即ち私流の感性の源である哲学・美学の「跨ぐ」の翻訳用語で、「エッジ」は「境界」となるのです。言葉や思想の発端にも、日常性の中にも「殺気」は含まれているということです。理屈っぽくなりました。
 外界から遮断され、閉ざされた独居房にながく居座っていると、閃きとか瞬発力が衰えて、反応も鈍くなったりします。困ったものです。シャーロック・ホームズの天才的閃きを失ってはいけません。Haga’s ライブラリーにアーサー・コナンドイルの小説があるようでしたら送って下さい。先にお願いした書籍の諸々を含めて、こちらの追加注文のほうも宜しく頼みます。
 追伸、
 君の葉書にもありましたが、この癌という病は、確かに痛みが伴います。短い槍を持った小さな悪魔が左顔面を暴れ回って夜も眠れないことが繁々です。コノ野郎!です。痛み止めにモルヒネ同様に効くという強力な投薬で我慢もしていますが、上唇は腫れ爛れた状態で、味覚障害と耳の難聴も始まり、不快な日々が続いております。味覚の障害から食欲は殆ど無く、最近では小倉あん(あづき)とか飴ダマやチョコレートでやっと甘味が判るくらいのもので、年より臭くて色気もなく、何ともイケネーや。と、いったところです。
 越冬をサヴァイバルかよチョコレート
 こころ静かに春陽を待つ

 以上が、この日に届いた手紙の全文である。内容は、毎回だいたい似たようなもので、導入部では文学や芸術を論じ、中盤では何かのおねだりと続き、最後はグチで終わるといった毎度のパターンだ。
 しかし彼は、もう三年も収監されているのである。

2003年2月16日

2003年1月6日

 またひとつ年が改まったので、トキワ荘の模型を作ったのは、もうおととしのことになってしまった。現物は宮城県石巻市の「石ノ森萬画館」(故・石ノ森章太郎氏のミュージアム)に置いてある。私はまだ行ってないが、わざわざ見物に出かける人もいて、帰ってから「置き場所が良くなかった」などとよく報告を受ける。本作の監修をお願いした漫画家の水野英子先生や、そのグループの方々も展示の方法が良くないと言って、館側にクレームをつけたそうだ。
 これには少し訳がある。
 最初萬画館側は、壁がボール紙で出来ていて、屋根がなく、石ノ森章太郎氏の部屋の内部や、赤塚不二夫・手塚治虫氏など、各室の様子を上から眺められるような、小さなトキワ荘を設置する計画で図面を書いた。やがて建設工事が始まって、数ヶ月がたったころ、私のところにその制作依頼が来た。
 そこで私が
「もっとちゃんとした模型でなければお受けできない」
 などと面倒なことを言ったために、あんな大きなトキワ荘になってしまった。しかもこの時点では、展示のための方法や、そのためのスペースもすっかり決まってたところへ、そこに無理やり私がでっかい模型を割り込ませてしまったので、置き場所が若干ヘンになったのは、しょうがないことだと思う。
 ま、この辺のいきさつについては、拙著「メイキング・モデル・オブ・ザ・トキワ荘」に詳しいので、きょうは、これ以上書かないことにするが、お陰でこのときには、まあまあの模型を作ることができた。まあまあと書いたのは、それでもまだ十分とは考えなかったから。
 と、いうのは、展示スペースに余裕がなかったため、地面を非常に小さく作らざる得なかった。従って庭に立っていた洗濯物を干すための柱や、玄関脇の樹木など、重要ないくつかの物品を省略せざる得なかった。また、このアパートには、先ほど上に挙げた諸氏の他にも、藤子不二雄・寺田ヒロオ・鈴木伸一・長谷邦夫・森安直哉・よこたとくお・水野英子氏など、後のマンガ界をしょって立つリーダーたちが、ほぼ同時期にお住まいになっていたのだが、マトモな室内造作を作ったのは石ノ森章太郎氏の部屋だけである。名物だった共同炊事場や、共同便所も作れなかった。
 私は、もちろん全部の方々の室内造作物も、すべて史実のとおりに、詳細に作りたかったし、持っている力を全部出し切ってでも、完全完璧なトキワ荘を、将来、是非一度作ってみたいと思っている。しかしそこまでの仕事となると、残念ながら、まず依頼されることはないだろう。
 予算の問題があるからだ。
 ここではなしが急に大げさになるが、あのミケランジェロが、シスチナ礼拝堂の天井壁画を描いたときには、たったの一人で、四年かかったそうだ。描かせた法王(依頼主は、確かローマ法王だった)は、一体彼にいくらのギャラを払ったのか?しかもその前段階として先に礼拝堂を作らにゃならん訳だから、ハンパな国の国家予算に匹敵するほどのカネをかけて、超一流の造形物を作ろうとした法王がいた。
 そのように、ひとりの人間が何年もかかってつくりあげるような造形作品を、21世紀の現代で、誰かにたのもうとするひとが、どこかにいるだろうか。
 完全完璧なトキワ荘を作ろうとするならばおそらく数年はかかるだろう。
 しかしこんにちの社会では、作ってもそれに見合うだけの経済的効果が見込めなければカネを出す人がいない。トキワ荘に限らず、先年取り壊された同潤会アパートについても、模型として残したらどうかと、たまに提案されることがある。だがそれを、私が自分で作っても、保管の方法や、展示場所の見当がつかない。だからそういったものは区なり市なり、行政からの依頼がなければ作れない類いの作品だ。だが行政は、税の使途については常に監視を受ける身なので、造形作品や展示物といった必要性が薄く、かつ意見のわかれそうな物品に対しては、おそらく非常に慎重な姿勢であろう。
 私は、このごろよく考える。今日の作家が、現代のハイテク技術や新素材を駆使して、しかも十分な予算と歳月を費やせば、かなりのものが出来ると思う。ひょっとするとミケランジェロに匹敵するような造形物でも作れると思うのだが、だが現代では、そんな仕事を発注する人がまずいない。従って本当にスゴイ造形作品や美術品の類いは、すべて博物館か、ただ遺跡の中にだけ存在している。法隆寺の仏像や、奈良の大仏や、日光の東照宮など、名だたる文化遺跡に出かければ本当に素晴らしいものたちがゴロゴロしているが、それらは朝廷だったり、幕府だったり、あるいは大名や法王といった、独断で、どんなものでも作ることの出来る権力者たちが作らせたものばっかりだ。
 彼らは
「カネは、いくらでも払う。ただし最高のものを作れ!」
 おそらくはそんな文言で、多くの作家に、最高の作品をつくらせたのだろう。

 私はきょう、西暦2003年の年頭にあたって「民主主義は良い造形作品を残さない」という、大げさなテーマについてのはなしをしている。
 残念ながら民主主義の社会では、スゴイ建造物も、絢爛たる美術品も、びっくりするような造形作品も、不要なのだ。それらは、例えばキムジョンイルのような独裁者が、自分の力を誇示するために作らせたり、あるいは単に特権階級の贅沢品だったりと、われわれの社会には到底馴染まない無用の長物だ。
 現代の依頼主は
「出来るだけ早く、安く、簡単に作ってほしい」
たいがいはそんな風にわれわれに何かを注文する。
しかし、われわれは
「いやぁ、多少時間がかかっても、もっとちゃんとしたものを作りましょうよ‥‥」
なんて、逆に依頼主をムリに説得し、やっとこ大きな「トキワ荘」がつくれたりする。が、元々そんなものはほしくなかった依頼主が、置き場所に困っちゃった、なんてこともあるだろう。石巻のトキワ荘はややそんな風でもある。
 造形物も造形作家も、民主主義という名の現代ではあんまり人気がない。

写真はトキワ荘(本物)の裏側
1950年代


2003年1月6日