「チョキギャラリークラフト」

 以前にも一度か二度ご紹介したことがあったが、関西のハサミメーカーがインスタグラム上に運営している「チョキギャラリークラフト(chokigallery_craft)というウェブページがあって、チョキチョキとハサミを使って仕事をしているクラフトマンやクラフトウーマンたちを次々とフューチャーしている。
 4〜5年前にわたしも一度か二度取り上げられたことがあり、そのときはハサミで洋白のシートを切って、バケツをつくるパフォーマンスを披露した。
 https://www.instagram.com/p/B96LHOTHsMv/?hl=ja
 この映像を気に入ったわたしは、その後「ギャラリーICHIYOH」の宣伝映像
 https://vimeo.com/901382085/c2813321d0?share=copy
 や、2月の有楽町展のときにも、宣伝動画の撮影を依頼するなど、ハサミとは関係ないところでも、チョキさんには色々とお世話になっている。チョキのカメラマンは関東在住の吉川(きっかわ)という人で、吉川さんはつい先日も、ぼくの教室を取材してくれ、短い映像をつくってくれた。
 https://www.instagram.com/p/C7jA1ouvk-C/?hl=ja

 上の動画は本日6月4日現在「チョキギャラリークラフト」のトップページに掲載されているのでインスタをやっている方はぜひチェッくしてみてください。そしてわたしの動画から少し下方にスクロールすると、ドールハウスギャラリーの「ミシール」さんや、「ノエカフェ」の一色さんなど、ミニチュア界の有名人が続々登場します。
 ちなみに下は、取材当日に吉川さんがサービスで撮ってくれた「第5次ブーランジェリー制作教室」のみなさんの写真です。

左から: ヤマザキ・アキコさん、フクダ・アヤさん(川越から)、カネコ・マリさん、ユグチ・マリナさん(飛行機で松山から)、イシハラ・アキコ(世田谷の奥沢から)さん、スズキ・ケンジさん、タカハシ・トシアキさん、と HAGAの面々。(当日欠席者一名)。

「伊勢丹展の写真」

 元生徒Sさんは毎回これを読んでいるらしい。訳あって彼とは定期的に会う機会があるが、会うと必ず当欄のはなしになる。
 先日は、前々前回ここに書いた新宿伊勢丹でのはが展に「キャフェ・ル・マルソワン」が初出演したという記事が話題になり「伊勢丹展の写真は見れないの?」と聞いてきた。
 ぜひお答えしたかったが、なにしろ当時は銀塩カメラの時代だ。データとしては保管しておらず、その場でスマホで見せらなかった。帰宅後にゴソゴソ探したら案外あっさり紙焼きの写真が見つかった。下が1996年、新宿伊勢新館8階のファインアートサロンで開かれた「芳賀一洋展」の様子である。
 伊勢丹からの要望で、このときはじめて「立体画」(アートインボックス)を制作し、展示した。しかし絵の周囲にはまだフレームはなく、イーゼルもないので、作品がふた回りほど小さく見える。とはいっても普通の絵と比べりゃ遥かに重いので画廊の壁に吊るすのが大変だった。まずはじっくりと順番を考え、吊るしたあとも、微調整のため、ちょっとずつ、上下左右に動かさねばならない。その苦労たるや尋常ではなく、深夜からはじめたディスブレーの作業が朝までかかったことを思い出す。これに懲りて、以後立体画の展示はすべてイーゼルを用いるようになった。
 下段の写真の、左から2番目に吊るされている作品が、初代「キャフェ・ル・マルソワン」である。
 Sさんは、これら立体画をわずか95日でつくったことにも興味を示してくれたが、実はそのことについては、拙著「続・木造機関庫制作記」(私製本)の中で詳しく述べた。ところがその本は、売り切れて、手元には一冊もなく、お読みいただけないのが誠に残念。
 今度印刷したら必ずお知らせいたします。


【上段の写真】壁の左から: 「ジャニンの洗濯屋①」、「ビクトルユーゴ通りのブーランジェリー」、「ジャニンの洗濯屋②」、「BAINS/2月のパリ」、「ベランダの情景」、「セーヌフルール」、「シェルタリングスカイ」、「チャーリーの散髪屋」。【下段の写真】壁の左から: 「パラプリエ」、「キャフェ・ル・マルソワン」、「ジャニンの洗濯屋①」、「ビクトルユーゴ通りのブーランジェリー」、「ジャニンの洗濯屋②」、「BAINS/2月のパリ」。(2枚の写真が若干ダブっています)。

「デザフェス終了」

 デザインフェスタvol.59が無事終了した。
 このたびは5年ぶりの出場だった。
 以前は午前11時がオープンで、午後7時までだったが、現在は午前10時オープンの6時クローズに変わっていた。コロナ禍を境にして全体的に一時間時間が早まったらしい。そのことが非常にキビシかった。
 搬入にはいつも大きなトラックを使っているが、以前は24時間営業のレンタカー屋が結構あって、4時、5時といった早朝からでも車が借りられた。しかしコロナ禍以降そういった店はなくなり、どこのレンタカー屋もおおむね朝7時がオープンとなっている。
 したがって初日の朝は、午前7時に池袋で2トン車を借りて、7時半わたしの駒込スタジオ着。それから荷物を積み込んで、午前8時にお台場に向けて出発し、9時ちょっちょっと前に東京ビックサイト着。大混雑の中を西館4階の荷下ろし場まで車を進めて荷下ろしし、降ろした作品や什器やイーゼルといった物品をわれわれのブースまで運ぶと同時にトラックを返却し、すべての作品を箱から出して、キレイにならべ、照明を当てて、ひとつひとつに題名のプレートをつける。そういったすべての仕事を午前10時までにヤリ終えねばならない。これが、時間的に、非常にキビシかった。
 必死になってそれらの仕事に取り組んでいた午前9時半ごろ。突如館内に場内アナウンスが響いた。
「ピンポンパンポーン、おはようございます。お知らせです。ただいま正面玄関では入場待ちのお客様の行列が溢れてまいりました。ですので本日は10分間だけオープンを前倒しして、午前9時50分からオープンすることにいたします。どうかご準備をお急ぎください…」
 ガーン‼︎である。でもヤルっきゃないわけで、どうにか9時50分までにブースを完成させた。
 当日お手伝いいただいた以下4名のみなさんに深く感謝いたします。

 元生徒: ナカコ・ユキコさん
 現生徒: オウ・コクさん
 元生徒: ヤマシタ・ヒロシさん
 元生徒: キシモト・ユウジさん

 そしてご来場いただいた全てのみなさまに心より御礼を申し上げます。

当日会場に置いた生徒募集の用紙に御記名いただいた方々には、後日当方よりご連絡いたします。

「今週末はデザフェスです‼︎」

 てっきりデザフェス(正式名称:デザイン・フェスタ)と、静岡ホビーショーは同じ日程でやるものと思っていた。毎年そうだった。だからこのふたつのショーは一括で宣伝すりゃいいとタカを括っていたところ、すでにホビーショーは先週終わったという。
 「えーっ!? そうなの‥」
  ——それは悪かった。
 静岡へは行きもせず、宣伝もせず、誠に申し訳ありませんでした、(ホビーショーには「全国モデラーズクラブ合同作品展」という名物コーナーがあって、うちは、2011年から、「はがいちようと渋谷クラフト倶楽部」という名称で、毎回この合同展に参加しているのです)。
 今回はうっかりそのことの告知もせず、本当にごめんなさい。
 まあ、詫びはこのへんにして、さて「デザフェス」ですが、こちらは間違いなく今週末に開催されます。

 タイトル: デザイン・フェスタvol.59
 日時: 2024年5月18日(土)~19日(日) 10:00~18:00
 場所: 東京ビックサイト 西&南ホール全館
 入場料: 1000円

 われわれのブースは西館4Fの、西3ホールという「暗いエリア」にあります。ブースNo.は、J-162からJ-165までの4ブロック。
 2008年から当イベントには毎年出場してきたのですが、コロナ禍で何回か間が空いてしまい、今回がコロナ明け後初出場です。わたしはだいたい会場に詰めるつもりですので、よかったら声がけしてください、

デザフェス会場のはがブース(2019年5月)

「キャフェ・ル・マルソワン」

 「壁掛け式の、立体的な、絵のような作品をつくれませんか、遠くからでも目を引く、なにかパッとした作品を…」
 1996年9月の下旬、新宿伊勢丹の美術部担当者から、だいたいは上のような趣旨の提案を受け「わかりました。なにか考えます‥」と答えた。が、その場ではなんのアイデアも持っていなかった。実はその年の暮れの12月25日から30日までの6日間、新宿伊勢丹で「はが展」開催が決まっていた。冒頭の言葉は、その打ち合わせの場で飛び出した伊勢丹側の発言だ。
 当時わたしがつくっていた作品は、SLを収納するための木造の機関庫や、線路の保線事務所や給水塔など、鉄道関連のジオラマ作品ばかり。そういった作品は通常台の上に乗せて展示するものなので、それだとギャラリーの壁がガランと空いてしまう。
 「12月の繁忙期にガラ空きの壁はマズイんです…」
 と、担当者から懇願され、仕方なくわたしは「立体的な絵」を追加で20点つくることをその場でお約束し、その日の会合はお開きに。
 お開きのあと、電卓を叩いて愕然とした。9月の下旬から搬入日までは95日。95日を作品点数の20で割ると、なんと4.75日。立体画一点を4日半強でつくらねばならぬ計算なのだ。
 翌日からは、そうか、壁が空くのか、壁があく…と、丸一日ぶつぶつギャラリーの壁ばっかりを考えた。壁。壁。壁。すると突然「壁と言ったらユトリロだ !」と閃いた。もうグダグタ言っている猶予はない。この際はユトリロのような、パリの壁を中心とした作品ばっかりを大至急つくるっきゃないと腹を決めた。
 で、結局、約束の20点には及ばなかったものの、拙展当日のギャラリーの壁には、小作品も含めて計16点もの立体画を並べることができた。その16点の中には本日のお題である「キャフェ・ル・マルソワン」の姿(?)もあった。
 5月9日発売の「トーキングヘッズ叢書No.98号」(アトリエサード刊)における「はがいちようの世界《第44回》」では、その「キャフェ・ル・マルソワン」を紹介させていただきました。

「午後の鹿骨」完成!

 2023年7月20日付の小欄に、教室課題として再び「午後の鹿骨」(ボロい工場の作品)をつくりはじめたと書いた。その工場が今週やっと完成した。下の写真。縮尺1/80。
 そのときの記事でも触れたが、これをつくるのは、これで4回目である。仕事とはいえ、おなじものを4回もつくるのはかなり苦痛だ。しかも、これは超ややっこしいムズカシモノなので、はじめるのが億劫で仕方がなかった。だが完成が近づくにつれて徐々に苦痛はやわらぎ、少しは制作を楽しめるようにもなっていた。そして最後はルンルン気分で一気にゴールイン。
 バンザーイ! バンザーイ!! バンザーイ!!! である。
 残念ながら、(幸いにも、と言うべきか)、過去の3作品はすでに手元になく、比べることはできないが、今作が、間違いなくベストワンの出来であると自負している。というのは、このシリーズではじめて、本作では少しばかりの電飾を試み、事務所の内部と工場の内部とにLED照明を点けたことによって、それが絶妙なエンタメ効果を発揮していると思うからだ。(どうせならもっと多くの照明があった方が良いという声もあったが、こんなボロ建造物に多くの明かりがピカピカ光っているのもどうかと思い、わたしは2個で充分と考えている。)
 以前だったら作品が完成した場合はただちにイエサブへ持っていき、ちょっと手が出ないくらいの値段をつけて、自分の棚に並べたものだが、「イエサブの棚」は、今はもうない。
 すると「さかつう」さんかなあ。
 もし、さかつうの若(ワカ)がOKしてくれたら、近日中にさかつうへ持って行き、はがコーナーに陳列する予定だ。よかったら、見てやってください。

ブツが上がったら「さあ写真だ!」とばかりに、むかしは必死になって写真を撮った。しかし小生のカメラはスデにバッテリーがダメになり、低性能レンズのスマホぐらいしか、今は持っていない。それよりも何よりも、自作の写真を撮ること自体にすっかり飽きてしまい、つゆとも意欲が湧いてこないのだ。どこかに「よし、オレが撮ってやる!」ってひと、いませんかねぇ、ポランティアで‥。

「フェリー旅」

 以前「東家(あづまや)海を渡る」という見出しの記事を書いたことがあったが、このたび4月20日に、本当に東家(旧東屋)が、はるばる海を渡り、北海道は滝川市の「杉山アトリエ」へと辿り着いた。(写真は杉山アトリエ。後方はスギちゃん)。
 夏の「ドールハウスショウショウin札幌」への出演のため持ち込んだ本作だったが、どうやってそれを運ぶのかが今回の一番の問題だった。宅急便じゃ壊れるし、現地まで車で届けるのはチトつらい。で、結局フェリーを使うことに。
 元生徒ユウさんの協力で19日の午後、ブツ(旧東屋)を彼のメルセデスへ積み込み、そのまま水戸大洗の埠頭まで走り、車ごとフェリー「サンフラワー号」の船内へ。やがて午後7時半、出航するやいなや、船は真っ暗な太平洋をグイグイ進み、やがて日付が変わり、20日の朝となり、昼となり、午後となり、結局午後の1時半、北海道南部の港町苫小牧港に到着。
 ここから目的地滝川まで高速で約2時間の距離だが、実は旭川に、私用で一件立ち寄らねばならぬ先があり、そっちを先に回ったため「杉山アトリエ」への到着が夕方の5時になってしまった。
 ユウさんにとってそのアトリエは、初めて目にする夢のパラダイス。
 作品を降ろしたあとはスタジオの内外や、2階の監禁(?)部屋や、人気のHものフィギュアが並んだショールームなど、などを、目を皿のようにして見物したあと、近所のイタメシ屋へと移動。
 そしてワインとイタメシで大いに酔っ払い、そのまま美人ママのいるスナックへとなだれ込んだ…と、書きたかった、が、しかし実際はそうならなかった。
 というのは、実はこの日の深夜、21日未明に、われわれは再び東京方面行きのフェリーに乗らねばならず、後ろ髪を引かれる思いでイタメシ屋を引き上げ、わたしとユウさんは再びまた苫小牧港へ向かって走り出した。
 ちなみに駒込を出たのは19日午後3時で、帰宅は21日午後10時だった。
 カモメやトビウオはまったく見なかったが、なぜかサンダル履きのトラックドライバーたちがヤケに目に付く、いたって地味な船旅だった。

スギちゃん(杉山武司氏)は2000年代のはじめに一時期東京に住んでいたことがあって、そのころはぼくの教室に通っていた。しかし2008年ごろに、彼は郷里の滝川に戻り、現地での制作の拠点となる「杉山アトリエ」を建設。現在「男のドオルハウス」の作者として多方面で活躍している。