2003年5月19日

 わたしが最初に模型の小屋をつくったのは1995年、阪神淡路大震災があった年の夏だった。この年はまたオウムの地下鉄サリン事件も勃発した年で、国中がなにかと騒々しかった。当時わたしはまだ商売をやっていたので、上九一色村のサティアン二階でグル麻原が発見されたときの映像は、厚木パルコ従業員休憩所のテレビで見守っていたものだ。そこに自分の店(ブティック)があったからだ。
 確かこの年の前年、当時の橋本政権が消費税を5%に値上げし、そのため一気に消費が冷え込んでしまったのも、また1995年のことだった。だから麻原逮捕のニュースのあと、わたしは厚木の店をリストラし、同時に池袋の店もリストラした。そしてこの年の初夏にかけては、他にもひとつかふたつの店をリストラしてしまい、これから先どうやって生きていこうかと、かなり悩んでいた。そんな年の夏、ほんの気分転換のつもりで非常に小さな模型の小屋を作ってみた。そしたらそれがなかなか良いできで、いきなり熱中してしまった、というわけだ。
 このへんの事情については拙著「模型のはなし①しぶ~い木造機関庫をつくる」(お問い合わせは http://www.10daysbook.com/ )に詳しいので、ぜひ一度お読みになってください。
 ま、そんなことで、急に模型の制作に熱中してしまったわたしは、この年の年末までに約20個ほどの作品を作った。だが同時に、依然としてまだ数店舗の営業はつづけていたので、よくもそんなに沢山作れたものだと改めて感心する。火事場の馬鹿力というやつだ。明けて平成8年(1996年)の正月に、私の友人が、私がつくった木造機関庫を、渋谷パルコの奥山俊一という方のところに持ってゆき
「こんなものを作っている男がいるんですが、御店のどこかで展示できませんか?」 と、尋ねた。木造機関庫とは蒸気機関車を格納するための車庫である。そして奥山氏は、当時パルコの取締役副社長だったと記憶する。
 あとでその友人から聞いたはなしによると、パルコの応接室に通されてパッと機関庫のふたを開けたとたん、奥山副社長は「ウーン‥」と言ったきり、しばらく黙りこくってしまったそうだ。そして私の機関庫を、非常に気に入ってくれたとのことである。
 当時はぜんぜん知らなかったのだが、数年後に判明した情報によると、奥山氏は鉄道の大ファンで、JR各線全駅の切符を収集しているほどの「鉄道大オタク」なのだそうだ。多分そんなことが幸いしたのだろう、お陰様で1996年の春、渋谷パルコ・パート1の地下一階にある「ロゴス・ギャラリー」というところで、最初のエキシビジョンを開催することができた。
 パルコの地下には「ロゴス」という名前の書店があり、その脇にあるので「ロゴス・ギャラリー」という名称だ。そしてキャラリーのお向かいは、ちょうど洋書売り場になっていて、アートに関する洋書としては東京でも屈指の書籍数を誇ると思う。そんな関係から、渋谷の割にはインテリが多く集まる場所で、多種済々の方々との知遇をえることができた。なかでも田村豊幸(たむら・とよゆき)という日大名誉教授さまが新聞を見て会場を訪れ、拙作をたいへん気に入ってくださり、翌年(1997年)に「真岡駅・STATION」を作ることのきっかけ(4月22日付けトークス参照)となった。

 最近、当サイト「ウォークス」のコーナーに「Scenes from exhibitions」というスライドショーを新設し、その最初のページに、このときの展示の様子を掲載した。(写真の横にディスプレーした英文は、本日ここに書いたことの要約だ。)
 中心は木造機関庫の展示だったが、そればっかりでは変化に乏しいと考え「日本軽石興業株式会社」(以前より当サイト・スライドショーに掲載中!)という大型作品を急遽一点制作し、会場中央に陳列した。そしてこのときは、鉄道とはぜんぜん違う「ベランダの情景」も一点だけ制作し、会場の奥の壁に掲げてみた。これは、テスト的に制作した最初のアートインボックス作品だったのだが、どういうわけか売れてしまい、このあと雪崩(なだれ)のように制作することになっていった。
 展示タイトルは「80分の1の世界・木造機関庫たち」ということで約二週間開催され、朝日新聞をはじめとして雑誌サライや週刊文春や、FM放送など、いくつかのメディアでも取り上げていただいたため、予想をはるかに上回る多くの方々にご来場いただいた。
 当日、会場で始めてお会いした吉田政彦氏、坂田真一氏、山下浩氏、高谷俊昭氏の各氏4名は、現在では私の工作教室の中心メンバーとして、あるいは当クラフトクラブのメンバーとして、毎回親しくお付き合いさせていただいている。

雑誌サライ・1996年6月6日号


2003年5月19日

2003年5月7日

 3月に青山で「私の劇場」と題する合同展を開催した。(詳細は2003年3月6日・3月26日・4月1日の、計3回にわたってこの欄に掲載した。)
 この合同展のキュレーターを勤めていただいた宇野亜喜良(うの・あきら)氏は1960年代から70年代にかけて、天才・寺山修二氏と組んで実に多くの仕事をこなしていたハズである。寺山氏の手による戯曲のポスターを制作したり、ときには舞台デザインみたいなことも手掛けていたと記憶する。今年はその寺山修二没後20年に当たるそうで、先日「宇野亜喜良展・われに五月を」という、宇野展の案内状が届いた。その中で宇野氏は、以下のように語っている。

 ―――タイムトンネルシリーズに登場することになった。自分の作品保管能力の欠落がこの場合の恐怖だけれど、ギャラリー側の機動力に頼り、コンピューター出力に頼ればなんとかなるものと楽観している。
 もうひとつの現在形の仕事の方は、ぼくの活動の中の「演劇的なるもの」をテーマにすることが決定した。グラフッィクや舞台のデコール・デザインや、小道具や衣装などの造形物を展示するというところまでは良いのだけれど、10月に「ダンス・エレマン」というカンパニーが上演するものまで、実際に制作してしまおうという企画がちょっときつい。なにしろこのグループでは、このところテクストまで手掛けているから、そこから出発しなければならない。そのうえ人形劇団「かわせみ座」特別出演も決まったので、人形の制作もやらなければならない。
 今年は寺山修二没後20年なので、やっとタイトルだけは「われに五月を」に決まったという状態なのだけれど。(談・宇野亜喜良)―――

――タイムトンネルシリーズ Vol.17
タイトル: 宇野亜喜良展「われに五月を」
日程: 2003年5月6日(火)~5月30日(金)
時間: 11:00am ~7:00pm(土・日・祝祭日休館)入場無料
第一会場: ガーディアン・ガーデン
――銀座 7-3-5 リクルートGINZA 7 ビル B1F 03-5568-8818
第二会場: クリエイションギャラリー G8
――銀座 8-4-17 リクルートGINZA 8 ビル1F 03-3575-6918

 「われに五月を」というのは何ともグッとくる名題ではないか。たぶん寺山氏の作による戯曲のタイトルだと思うのだが、昨今の陽気には正にピッタリだ。
 実は、この五月には、拙展もひとつ控えていて、本当はそっちの宣伝をするつもりでパソコンの前にすわった。だが「われに五月を」の響きが、あんまりにも気に入ってしまったもので、つい宇野展を先に宣伝してしまったという次第である。くらべて拙展のタイトルは、「芳賀一洋&メッシュフラワー展」という何とも平凡なもので、まことに面目(めんぼく)ない。
 メッシュフラワーというものがどういうものなのかは知らないが、わたしのコーナーの横のスペースで展示するということなので、拙作とからめて展示するという意味ではない。そして、拙展の案内状には以下のように記してある。が、この文面もまことに平凡なもので、おはずかしい。

 ――立体画家として独自の世界を築いている芳賀一洋氏は、「箱の中のパリ」シリーズとしての一連の作品群を展開します。またメッシュクラフト協会のメンバーは、インテリアフラワーをメインとする作品を多数出品いたします。ぜひご高覧ください―――

タイトル: 芳賀一洋&メッシュフラワー展
会期: 2003年5月15日(木)~5月21日(水)
会場: 渋谷駅・東急東横店(南館)8階・工芸品エスパス
時間: 10:00am ~8:00pm(最終日は5時閉場)
電話: 03-3477-4550(会場直通)

 渋谷駅のすぐ上にある東急百貨店・東横店には東館・西館・南館とあるらしい。南館の8階には通路があって、私もたまに通ることがある。壁掛けや置物などの工芸品を常時陳列している。今回はそのスペースを使わせていただき、拙作を展示することになった。今のところアートインボックス作品を中心に、大小あわせて10数点ほどを展示する予定だ。
 先日担当者より、ディスプレーについての「案」を提出せよと言われ、描いたのが下のイラストだ。この通りになるかどうかわからぬが、まぁだいたいは下の絵のような具合になるハズである。
 ――お時間があれば、ぜひご来場ください。あわせて宇野展のほうもご覧いただければ、かなりの「五月気分」を満喫いただけることと存じます。
 なお私は常駐いたしませんが、ご連絡いただければ、出来る限りご説明にあがるつもりです。

会場の予想図


2003年5月7日

2003年4月22日

 今日は拙作「真岡駅」(STATION)に付いてのはなしをしたい。
 真岡は「もおか」と読む。ここには、むかし芳賀という殿様が住んでいたそうで、私がその直系の子孫だという説がある。だから真岡市は、栃木県の「芳賀群」というところに位置し、真岡線というローカル鉄道がかよっている。
 真岡駅がその中心だ。
 私がこの駅の模型展示物を作った1997年の当時、市長は菊地恒三郎(きくち・こうざぶろう)という方で、蒸気機関車が大変にお好きな方だった。だから菊地氏が市長に当選してからは、真岡線にSLを走らせることに奔走し、1994年に、それは実現した。
 昨今は、地方の村おこしの意味から、各地でSLが運行されていて、静岡県の大井川鉄道などが有名だ。だから真岡市も、観光の目玉のひとつとしてSLの誘致を試みたのだ。というのは、隣りに位置する益子(ましこ)町は、人口が少ない割りには「焼き物の町」(益子焼)として全国的に有名で、それに比べて真岡は、これといった名物がなく「ならばSLで‥」ということになったようだ。
 そうしてSLが誘致され、現在は第三セクターの「真岡鉄道㈱」によって毎週末には運行されている。しかしそれから数年がたち、やがて中心駅である真岡を新築の近代駅舎に作り変えるというはなしが持ち上がり、ふるい駅舎を取り壊さねばならぬことになった。(現在はビル型の新築駅舎が建っているが、50年の昔には拙作のようなレトロな建造物だったそうだ。)そこで、新しい駅の入り口に、旧駅舎の模型展示物を設置して、蒸気機関車が走っていた当時の様子を後世に伝えようということになった。
 ま、そんな事情から出来上がった模型展示物の題名は「旧国鉄真岡駅」(STATION)。 作品の写真は、以前より当サイトのスライドショー「ストラクチャー」の最終ページに掲示してある。(写真の横に配した英文は、本日ここに書いたことの要約だ。)幅は70センチ程度だが、長さが3メートル近くもある作品で、過去につくった私の作品としては、最も大きい。
 1997年の春、製作に着手し、同年の夏には完成した。このときの製作の手順や詳しい経緯に付いては、拙著「国鉄真岡駅制作記」に詳しいので、興味のある方は是非一度お読みになって下さい。(本は、当サイトのインフォメーションのコーナーに掲示中)そして、完成時には新聞に、写真入りの記事として以下のように紹介された。

――昔の真岡駅の風景を後世に伝えようと市は、同駅一階のコンコースに昭和初期の駅舎の模型を設置した。模型は長さ3メートル幅約1メートルで、縮尺80分の1。美術工芸師の芳賀一洋氏が約3ヶ月かけて制作。
 跨線橋が架けられた昭和20年ごろの真岡駅を再現。市のシンボルともいえるSL列車をはじめ、貨車や電柱など、昔懐かしい風景をよみがえらせた。建物は、木材や樹脂加工のプラスチックで、柱の一本一本にわたり精巧に作られ、ドラム缶の錆びた様子など、古色の雰囲気も見事に伝えている。
 同町を訪れた主婦大根田明子さん(58)は、30年前に真岡に来たので、当時の様子は知らなかった。模型とはいえ本当によく出来ている。若い人にも歴史を伝えることは良いことですね」と、熱心に見入っていた。市企画課は「真岡駅が心和む場所になるよう模型を設置した。年配の人には郷愁の心がわくのでは」と、話している。
   (下野新聞・平成9年10月9日付朝刊より)

 上の記事にもあるように、作品の実物は、現在、真岡線・真岡駅コンコース中央のガラスケースに入れて展示してある。私はもう何年も行っていないが、最近見に行った人の話によると、ケースがだいぶん汚れているとのことだ。

 我々の世代だと、真岡というと、つい連合赤軍事件のことを思い出してしまうひとがいるようだ。赤軍派が浅間山荘へ行く前に、真岡の銃砲店を襲い武器を調達したからだ。そのため当時のメディアは連日のように真岡、真岡を連発し、一躍その名を全国に轟かせたのだ。他には「真岡綿」という言葉があって、江戸時代のむかしから綿といえば真岡というような伝統的ブランドだった。だから、良質のコットンには、今でもこの言葉が使われている。しかし戦後この地で、綿はほとんど生産されなくなり、若いひとは多分知らないと思う。いかにも地方都市といった、のんびりとしたローカル色満点の土地柄だ。
 実は私は、この地のご出身で、現在は日大名誉教授という肩書きをお持ちの田村豊幸(たむら・とよゆき)という医学博士の先生と、以前より懇意にさせていただいている。(博士は数年前に「勲3等瑞宝賞」を授与されているほどの偉人である。)その田村博士より、製作者としての私を菊地市長にご紹介いただき、この大任を任せられることになったのだ。しかし当時市長だった菊地氏は、スデに数年前に退職され、現在は福田武隼(ふくだ・たけとし)という方が市長だそうだ。だが福田氏が鉄道や蒸気機関車好きかどうかは、わからない。しかし新市長が鉄道好きでなかった場合、真岡線のSLや、私の模型展示物にホコリがかかるのは仕方のないことだと思う。

上の写真は昭和45年当時の真岡駅。


2003年4月22日

2003年4月8日

 「天上大風」(てんじょうたいふう)という名前の月刊誌が、この春創刊され、創刊号が先月(3月)26日に、全国で一斉に発売になった。初版が確か35万部(もしかすると45万部だったかも)印刷すると聞いたので、たいへんな数だと思う。表題の「天上台風」とは、むかし良寛和尚が、子供の凧にそんな字を書いたんだそうだ。ゆったりとした大きな風とでもいった意味があるのだろう、団塊の世代をターゲットに㈱立風書房が発刊した。
 中に「壺中の天地」という新・連載企画のコーナーがあって、その第一回目として拙作「トキワ荘」を取り上げていただいた。本日は紙面より、そのときの記事を紹介することにする。

――模型「トキワ荘」――

 この木造モルタル仕上げのアパートの15分の1模型の作者は「立体画家」芳賀一洋さんだ。モデルは、1952年から82年まで、東京都豊島区椎名町(現南長崎)にあった「トキワ荘」。
 マンガファンならばここがすごい場所であったことはだれでも知っている。なぜなら、「鉄腕アトム」「ブラックジャック」の手塚治虫、「オバケのQ太郎」「ドラえもん」の藤子不二雄、「おそ松くん」「天才バカボン」の赤塚不二夫、「サイボーグ009」の石ノ森章太郎ら、ぼくら元漫画少年にとっての英雄たち、「星のたてごと」で漫画少女をときめかせた水野英子らが若くて無名だった時代に、ここに同じ頃、住んでいたからだ。
 「トキワ荘」が保存されていれば、見に行きたい。そういうファンの要求に応えてつくられたが、展示されているのは、宮城県石巻市の石ノ森章太郎のミュージアム「石ノ森萬画館」東京のファンにはすこし遠い。
 そこで本誌に紹介するが、芳賀一洋さんの執念がどれほどのものかというと、たとえば22ミリ角の瓦の原型を、まず真鍮(しんちゅう)でつくり、それからシリコンの型をつくってレジンを流し込む。そうやってつくった瓦を3000枚、1枚1枚と貼っていったのである‥‥‥。
 瓦もそうだが、外壁のモルタル壁(ベニヤに漆喰の粉を水で練って塗り、やすりをかけた)にも、窓にはめこまれた古びた木枠のガラス(塩ビ・フィルムを使用)障子にも、試行錯誤をくりかえしてきたという。徹底してリアルさを追及している。
 窓から部屋の中を覗くと本箱に納められた本や「漫画少年」などの雑誌の背文字も読める。表紙の絵も再現されている。一冊づつページを開くこともできる。当時、その部屋にどんな本が置いてあったのかも調査して再現してある。
 ちゃぶ台も座布団も、アルミの傘の電気スタンドも、石ノ森氏愛用のピースの缶も、2ミリのフタがちゃんと開く「開明墨汁」の缶も、火鉢も、鋳物のガスコンロも、あらゆるものがマニエリスム的な克明さでつくられている。
 覗いていると、ここには若き日の手塚や藤子や石ノ森や赤塚や水野がいまもまだ寝起きしていて、自信に胸膨らませ、青春の野心に燃えて、制作に没頭したり、愛したり、憎んだり、議論したり、取っ組み合いのケンカをしたりしているように思えてくる。
 この窓の中には、もうひとつの世界、アナザー・ワールドが、確かに存在している。
 そう、こんな世界を古代中国の詩人は空想の中に思い描いたのだろう‥‥壺の中に入ってみたら、大廈高楼が立ち並び、登桜して酒をいくら酌んでもつきることがない‥‥壺は「トキワ荘」‥‥酌んでもつきることがないのは眩いばかりに煌めいていた青春‥‥手塚治虫25歳、藤子不二雄20歳と21歳、赤塚不二夫21歳、石ノ森章太郎18歳、水野英子19歳‥‥少しずつ時間はずれているのだが。

 以上、原文のままを掲載した。
 記事をお書きになったのは、倉持公一(くらもち・こういち)とおっしゃるフリーのライターの方だ。真っ白なあごひげをたくわえ、銀座の「トラヤ」で買ったというフランス製の粋な帽子をかぶった熟年紳士。約半日、私の工房で取材をされて、上のような丹念な文章をつくってくれた。
 お伺いしたところ、マンガには非常に詳しく、ごく最近までは、世間で発行されているマンガ誌(少年マンガ誌も含めて)のすべてを購入し、それをぜんぶお読みになっていたそうだ。
「仕事ですから‥‥」
と、かるくおっしゃったが、並大抵のことではない。
 それと、現在放映中のあらゆるトレンディードラマの類も、すべて録画して、その全部を見ているそうだ。優雅な風貌に似あわず「プロ魂ここにあり」とでもいった人物のようである。
 ま、そんなわけで「天上大風」という雑誌を買って下さいね。椎名誠さんの表紙で、まだいっくらでも書店にあるはずです。

「天上台風」誌・創刊号より


2003年4月8日

まずしかったころ

 子供のころ、商店街の裏手には原っぱがあり、小さな芝居小屋が建っていた。客席は、地面にゴザ敷きだったが、年数回そこに旅芸人の一座がやってきて、チャンバラの劇を演じた。奥には一応安物の舞台が付いていて、顔を真っ白に塗りたくった役者たちが、床にドスンドスンと音をたてて、おお立ち回りを演じていた。刀は竹製で、表面には銀紙がはってあり、裸電球の光を受けてギラギラ光り、めまぐるしく動き回った。ものすごい迫力だ。しかし役者たちの衣装も、背景も、劇場も、哀しいほどに貧しかった。
 私は、自分が貧しかったせいか、まずし~いものたちがたまらなく好きだ。しかし今日、まずしいものって、なくなっちゃったような気がする。確かにホームレスの人々は貧しいんだろうが、彼らは単にカネが無いだけで、真の「貧しさ」とは、少し違うような気がする。やっぱり、社会全体がまずしくないから、いかんのかなあ。
――芳賀一洋

いま青山で、私を含めた計8名の作家たちによって「私の劇場」と題する合同作品展が開催されている。
――そのことについては前々回、この欄でお知らせした。
 上の一文は、会場で私のコーナーに掲げられているキャプションだ。
 搬入の4~5日前のこと、主催者側より「自分にとっての劇場を説明し、同時に作品の説明にもなるような文章を、至急に作って提出せよ‥‥」との、非常にむずかしいご注文があり、ない知恵を搾って提出したのが上の一文だった。しかし会場では、ほんの少しだけ違った文章(多分ミスプリント)が掲示されているので、「正オリジナル」として、冒頭に掲げた次第だ。
 ところで案内にもあったように、展の初日、3月10日(月)の午後6時より、盛大なオープニング・パーティーが催された。これが大変な大盛況だったので、ついでに本日は、ほんの少しだけ、そのときの様子を説明することにする。
 当日は、午後5時半のころからポツポツと客人が現れはじめ、定刻6時になると、会場に入りきれない客たちが青山通りにまであふれるといった、異常な現象におちいってしまったのだ。もちろん、そのころギャラリーの中は、完全なる満員電車状態である。と言っても、そんなに広いスペースではなかったので、せいぜい100人とか200人といったレベルの人数だったと思う。が、とにかく身動きがとれない。だからのんびり酒を飲むとか、会話を楽しむといった通常の行動は、まったくとれなかった。代わりに、陳列中の作品が壊れるんじゃないかと心配したり、ご来場いただいた私の客人を識別できず、失礼になってはいけない、などと心配しながら、次々と繰り広げられるけったいなパフォーマンス耳をそばだてるといった、非常に、非日常的なひと時を過ごすことになった。
 当日は、フェーマス・ピープルも多数お見えになり、私が確認した範囲では、平野レミ(料理研究家)渡辺真里奈(タレント)市山貴章(俳優)さんなどの顔ぶれが、確かに人ごみに混ざっていた。もっとも、このたびの合同展のキュレーターである宇野亜喜良氏や、和田誠さんや、串田和美さんなど、私以外の作家さんたちは、すべてフェーマス・ピープルなのだから、まことにゴージャスなメンバーだ。
 当日主催者より、カメラマンを呼んできてくれと言われ、いつも拙作の撮影をお願いしている佐藤紀幸氏に声をかけ、その混雑ぶりをカメラに収めていただいた。こういった、なんでもないような群集写真が、実は一番むずかしいのだ。そして、どの写真も「さすがプロ」という仕事を残してくれた。とりあえずその中の一枚を下段に掲示したので、当日の異常な混雑ぶりを、しかとご確認いただきたい。
 パーティーの終了後は、この日にみえた客人とともに近所の飲み屋へと場所を変え、深夜の12時まで談笑した。
 しかし私にとっては、その前日にも、搬入後の「お疲れさん会」という名目の酒席が当然あったわけで、若干バテた。そしてパーティーの翌日には「ザ・メモリー・オブ・マイファーザー」(昭和33年・江戸川区鹿骨)と題する大型作品一点を、追加で陳列したのだから、近年まれにみるお「疲れさん体験」を実践したことになる。しかし今、ギャラリーへ足を運ぶと、つわものどもの夢の跡とでもいった風情で、なんともガラーンとしたものである。
 ま、そんな訳で、ただいま青山で、ちょっとした合同展を開催中ですので、お時間があれば、是非一度のぞいてみて下さい。
 4月12日(土)までです。

撮影・佐藤紀幸


2003年4月1日

2003年4月1日

 またまた合同展のはなしで、すいません。
 (詳細は2003年3月6日付けのトークスを参照のこと)
 先日、東京新聞にわれわれの合同展「私の劇場」の告知記事が載った。だからもう一回だけ、紹介させていただくことにする。
 下は、2003年3月29日付け東京新聞の朝刊、芸術欄の記事である。

「私の劇場=3」展
 ――コクトーの文学世界を表現した石塚――

 本展は宇野亜喜良の企画によるもので、「新鮮なオブジェとしての演劇空間」が大きなテーマである。イラストレーター、演出家、舞台演出家、フィギュア作家、人形・写真家など、多彩な顔ぶれがそろい、思い思いの劇場を演出している。
 下谷二助の「人間ポンプ」は、檻の中ではいつくばった塊状の人間が、実際に口から火を吐きだす様は、インパクトがありなんとも切ない。敗戦後の小学二年生の時に田舎で見た火を噴く人間の姿が、五十年以上も下谷の胸の中でくすぶり続け、それを形にしたのがこの作品。
 野村直子はエクレールという少女を主人公に設定し、来客を迎えるために羊の洋菓子職人が菓子を作ったり、ネズミと兎の頭部が歌ったりしている。丹念に作られたオブジェが、白い世界の中で、架空のストーリーを演じている。
 芳賀一洋は建物の精密なマケットかと見粉うばかりの建築群と、荒れた空間を創り出し、現代日本が失ってしまった文化としての貧しさと、郷愁を見事に表現している。
 コクトーの「オルフェの遺言」をテーマにした石塚公昭は、木の箱の中にコクトーや驢馬(ろば)の人形などを置き、蓋の部分には黄泉(よみ)の世界へと続く鏡の中に消えていくジャン・マレーの姿を描き、死を主題にしたコクトーの文学世界を象徴的に表現している。
 他に「マクベス」の和田誠、「山羊を被った僕」の石山裕記、「牛のいる広場」の船越全二が出品しているが、中でも興味深かったのは串田和美の「私の劇場」である。開閉する舞台の緞帳(どんちょう)や団子のような観客がくっついただけの極めてお粗末な作りだが、作者や他の人がそれを被り、語りや歌を披露すると何とも魅力的な劇場へと変身するから面白い。
 実人生と虚構が出会う場、哀愁と歓喜が出会う四つ辻、ユーモアとペーソス、そして見世物的なものから高尚なものまでが存在する場、それが劇場であり、私たちの生の場なのではないだろうか。ユニークな好企画であるとともに、本展そのものがひとつの大きな劇場でもある。
――(中村隆夫=美術評論家)
 ※ 私の劇場=3展は、港区青山5の1の25のギャラリー北村で、4月12日まで。日曜休廊。

 以上、当日の新聞記事を、原文のまま掲載した。
 今回の合同展で、ジャン・コクトーの人形を作って陳列した石塚公昭(いしづか・きみあき)さんの知人が、この記事を執筆した美術評論家の中村隆夫氏だそうだ。中村氏は(学校の名前は失念したが)有名美大の教授も努められているとのこと。
 しかし新聞記事というものは、文章にムダがなく、簡潔で、いつも、つくづく感心してしまう。

2003年3月29日・東京新聞
記事の左上が石塚氏の作品


2003年4月1日

2003年3月13日

 高名なフィギュア(人形)作家に矢沢俊吾(やざわ・しゅんご)という方がおられる。彼の造るフィギュアは、一流の造形雑誌あたりでは、ちょくちょくとその表紙を飾っているので、ご存知の読者も多いと思う。まことにナイスなキャラとグッドなテクの持ち主だ。
 ある日彼と、酒を(確か調布の居酒屋で)飲んでいるときだと思った。
「協同で‥なにか、ひとつの作品を作りませんか?」
いつのまにかそんな話しになった。
 どちらが先に言い出したのかは、いまひとつはっきりしない。が、多分矢沢氏だったと思う。と、いうのは、そのころ矢沢氏は「クイック&デッド」という、シャローン・ストーン主演の西部劇に凝っていて、腰にコルトのピースメーカーをぶら下げて、テンガロンハットにセクシーなコスチュームをまとったシャロン・ストーンを、酒場のカウンターに配置した作品をつくりたがっていたからだ。酒場とは、もちろん西部劇に出てくるような酒場のこと。そしていま正に、美女がGUNをぶっ放そうとしているところを造りたいと、常々そう言っていた。
「酒場って、つくれますか?」
だから、はじめは、そんな話しからスタートしたと思う。
 シャローン・ストーンとは、いかにも矢沢好みのボディの持ち主だし、彼の過去の作品を見ると、常にGUNが登場している。だから氏がそんな作品を造りたがっていた気持ちはよくわかる。
「そりゃあ作れるよ、オレは、こう見えても西部劇には詳しいんだから‥‥」
な~んて返事のあと数ヶ月がたって、結局この話しは実現しなかった。どうしてボツになったのかは、よく覚えていない。確か版権(映画の版権)が難しいとの理由から、計画自体が挫折したんだと記憶する。最初は気楽な話としてはじまったんだが、そのうち、できた作品を雑誌の表紙に発表するだとか、作ったフィギュアを量産して販売するとかの話にまで進展したために、映画の版権のことがネックになったんだと思う。(が、もしかすると、もっと別の理由だったかのもしれない。)
 いずれにしてもこの計画はボツになり、その後、こんどは私の方から
「鉄の扉の前に、ババアの娼婦をひとり配置して、タバコを吸いながら客待ちをしているような作品をつくりませんか?」
みたいな提案を述べてみた。
「いいですねえ」
すると矢沢氏は、あっさりと了承し、ここに我々のコラボレーションが成立した。

 完成した作品は「Isabella」(イザベラ)というタイトルで、ごく最近「アートインボックス」の最終ページに掲示した。写真の横に配した英文の内容は、本日ここに書いたことの要約である。まだチェックしておられない御仁は、あとでゆっくりとご覧いただきたい。(なお、12分の1というスケールではリアルな人形が作れないとの理由から、この作品のみ、6分の1という変則的なスケールになっている。)
 しかし、見たら
「え? これって、ぜんぜんババアじゃないじゃないか!」
って、ことになるだろう。
それは、そうなんです。
 芳賀は「やり手ババア」の熟年娼婦の製作を依頼したのだが、彼はついつい手元が狂ってしまい「セクシー美女」になってしまった、とのこと。
「しょーがないなー」
最初に見たときには唖然とした。しかし、もともとセクシー好みの矢沢氏に「ババア」を作れと依頼した、自分の不明を恥じ
「まあ、いいんじゃない‥‥」
なんてことで、あきらめた。

 製作に着手したのは1999年の夏だった。
 最初に壁やドアーなどの建造物を、私が自分の作業場でつくりはじめて、ちょうど半分ぐらいまで仕上がった頃に、それを矢沢氏のアトリエに運んだ。そして矢沢氏は、建物にあわせて、即座に「美女」を作ったのだ。その後、建物と美女は、もう一回芳賀のアトリエに運び、幾つかのフィニッシュワークを付け加え、この年の初秋には完成した。完成後この作品は、ある造形誌の表紙に、「ミステリアス・16」というタイトルで使っていただいた。以下はその雑誌「DDD」誌・秋号(㈱メデイアワークス・刊)に本作品が掲載されたときの記事である。

 「フィキュアモデラーと立体絵画師の幸福な出会い」

 モデル雑誌各誌で美麗なフィーメルフィギュアを精力的に発表している矢沢俊吾。一方「SMH」誌を足掛かりに一躍模型シーンに踊り出た立体絵画作家・芳賀一洋。この稀代の2名人が幸福な出会いを果たした。その結果はコラボレーションという形で昇華された。表紙とこのページに掲載した作品がそれである。
 そもそもの発端は、矢沢氏が芳賀氏の個展会場を訪問したことからだった。片やフィティッシュなフィギュア、片やお堅いアートインボックス、一見何の関わりも持ちそうにない両者だったが、お互い同じ雑誌に作品を発表していることから話しがはずみ、また、お互い密かにリスペクトし合っていたことも判明、今回の合作の話しがとんとんと進行したのである。
 作業のプロセスとしては、まず矢沢氏の希望する6分の1スケールに合わせて芳賀氏が自身の2大テーマのひとつ「額縁の中のパリ」シリーズの一点として作品を制作。扉の開閉、室内灯点灯などのギミックを仕込んだ末、矢沢氏宅に搬入。矢沢氏は戸口に立てられるように巧妙にポーズを設定してフィギュアを製作。再び芳賀氏の工房に持参し、二人で相談しながら微調整して固定。あとは本誌のカメラマンが参上してパチリといった具合である。  これは裏話だが、矢沢氏は錆びた鉄の扉から「アラビアンナイト」に出てくるような奴隷女を連想、半裸に金属のアクセサリーをまとったアラブ美女(?)を製作したが、芳賀氏の想定はあくまでもパリの街角。結果的に不思議なミスマッチが生まれた。そこで、杯を交わしながらの相談の末、パリ裏通りのアパルトマン16号は、実は会員制の秘密クラブだった‥と設定し、タイトルも「Mysterious 16」に決定した次第。
 しかし、どうしても「アリババと40人の盗賊」で扉にトリックの印を付ける聡明な奴隷美女マルギアナを連想してしまうのだけど‥‥。(編集部)

 上が、このときの記事の全文だ。
 執筆したのは、この雑誌の編集長・歌田敏明氏である。「稀代の2名人が‥」などと、大げさな表現を使われてしまい、お恥ずかしい限りだが、なかなかの名文だと思う。文中にあるように、このときには「ミステリアス・16」というタイトルだった。しかし今回、サイトに掲載するにあたり、矢沢氏の了解を得て「イザベラ」に改題した。しかし、いま改めて歌田文を読むと「マルギアナ」って線も、悪くないな‥と、若干感じた。

上が「DDD」誌1999年・秋号の表紙
フィギュアに巻き付いている白布は、芳賀が30年前パリ蚤の市で調達したシルクのスカーフ。


2003年3月13日