Get back, SUB!

 1970年代の初頭、わずか6号で日本の雑誌史上に燦然と輝く
伝説の名雑誌「SUB」をルポルタージュすべく、
元編集長・小島素治氏の行方を追いかけていた本誌は、
小島氏の旧友・芳賀一洋氏から、小島氏が01年に京都で逮捕・拘留され、
無罪を主張し二審まで争うも敗訴、
しかも拘留所で癌告知を受け、現在入院中であることを告げられる。
逮捕理由は一切不明のまま、03年9月11日、
大阪京橋の明生病院302号室にて、ついに小島氏との面会が叶う。
インタビューは「SUB」の前身「ぶっく・れびゅう」の創刊前夜までさかのぼり、
いよいよ「SUB」創刊の経緯にさしかかっていく―――。

 このコーナーではもうおなじみの小島素治氏――氏については2003年11月19日付トークス等を参照のこと――に関しての記述満載のクイック・ジャパン誌・53号(大田出版・刊)が、先日発売された。上がそのキャッチコピーだが、今回で連載三回目である。だんだんとマニアックな内容になってゆき、どれだけの読者がついてゆけるのかと、ちょっと心配になるが、相変わらず熱のこもった記事に仕上がっている。
―――是非お読みになってください。

「クイック・ジャパン誌・第53号」


2004年3月22日

アムロの人形

 最近工作教室に入った生徒に、渡邊 格(わたなべ・いたる)という若手がいる。すごいロングヘアーなので、われわれは「ロンゲのいたるちゃん」と呼んでいて、つのだ・じろう氏描くところの「空手バカ一代」に出てくる主人公(大山益達)に、ちょっとだけ似ている。また彼は、パソコンが得意なので、たまに私の工房まで教えに来てくれるという親切なキャラの持ち主でもある。先日もやって来たので、少しご指導をいただいたあと、家の前にある焼き肉屋へと出かけた。
「ところで、いたるちゃんって、プラモとかの模型って、結構やってたの?」
ホルモン焼きを突っつきながら尋ねると
「僕らは、もろガンダム世代だから、ガンプラばっかりを、夢中になって作りましたね」
「へえ~」
そうしてしばらくは「ガンダム・ネタ」の話題が続いた。そこで私はふと、むかし作ったアムロ人形のことを思い出した。
「そういえばおじちゃんは、むかし仕事で、アムロが持っていたというピノキオの人形を作ったことがあるんだけど‥」
「え、本当ですか?」
彼は、少し驚いた様子であった。
 あんまり詳しくは知らないが、機動戦士ガンダムの主人公であるアムロという少年は、子供の頃、ピノキオのかたちをした木の人形をたいそう愛していて、それが彼の人間形成の上で重要なポイントになったのだそうだ。ある日、それとそっくりの人形を作ってくれという依頼主が現れ、どういう訳か(カネのため?) 作ることになった。ガンダム系の雑誌(アスキー刊・G20/vol.5)に掲載するためである。ざっと以上のことを説明すると、彼は、是非一度見たいと言う。
「写真って、まだ、どっかにあったか、な?」
私は自信なさそうに答え、一応探して見ることを約束した。
 そのあとは探して、探して、探して、そのうちいたるちゃんもパソコンを使って約一週間、毎日探しまくり、だんだんと大捜索の様相を呈していった。

 で、結局、ありました。
 下の写真が、それです。
 当時、資料として送られてきたビデオを何回も、何回も、重ねて見ながらアムロ少年の手の大きさや、彼の身長に対して、人形の大きさを推定しながら作ったもので、アニメに出てくる人形とおんなじかたちで、なおかつアニメ映像に対して1対1の大きさである。つまり人形の身長は約30センチぐらいで、手足はぶらぶらと可動する構造になっているというスグレもの。いずれにしても、これは芳賀一洋の作としては最珍品の部類だと思うので、私が死んだあと「なんでも鑑定団」にでも持っていくと、5万円ぐらいには、なるのかも‥知れない。

芳賀一洋作・アムロのピノキオ人形


2004年3月3日

作品「A Tiny House」に付いて

 去年の秋に、「A Tiny House」(ア・タイニー・ハウス)という作品の写真を、かなり増やしたのですが、もうご覧になりましたか?
 そもそもこの作品は、トキワ荘を制作したあとで大量の瓦があまり、それらを有効利用するために作ったものだった。だから以前から「トキワ荘」の項目の後ろのほうに掲載されていて、以前は佐藤紀幸カメラマンによる写真が3枚だけ載っていた。しかし後では8枚の写真を、新たに追加している。
 実は私は、この作品をふたつ作った。
 最初に作ったのは2002年、年明け早々の頃で、「庚申塚の借家」という邦題をつけ、完成直後には佐藤くんに撮影してもらったのだが、売れたので、再び作ることになり、今度は同年の春から約一年間、私が講師をつとめている工作教室の制作課題として取り上げ、生徒のみなさんと一緒になって作った。あとで作ったほうには「ある漫画家の住居」という題をつけ、伊藤誠一くんに撮影してもらった。(掲載ページで、撮影者Seiich Itoとなっているのが「ある漫画家の住居」で、同じく撮影者SATO Noriyukiとなっているのが「庚申塚の借家」である。)ふたつの作品は非常に似ているが、微妙な違いかあるので、あとでじっくりと見比べてほしい。両方とも貧乏な漫画家(つげ義春氏的な漫画家を想定)が、いま現在居住しているという設定の小さな一軒屋で、英題名は「A Tiny House」ということで統一し、スライドショーでは同一作品として掲載している。
 そういう訳で、昨秋追加したのは伊藤くんが撮影した、あとで作ったほうの作品、「A Tiny House」の写真8枚である。
 伊藤くんは、以前、少しだけ私の工作教室に在籍していたことがあり、プロではないが写真を撮るのがうまいので、当サイトでも数回彼の写真を使わせていただいたことがあった。また彼は模型の天才で、鉄道模型の分野では「名人」と謳われるほどの人物である。そんな彼が、昨夏開催した拙展(ステップス・ギャラリー展)の会場に顔を出したので、入口に飾ってあった後作(ニ作目)を撮影してもらったというわけだ。私が特に気に入っているのは最終ページに掲載した勝手口(実はこの家の玄関だが‥)を写した一枚で、写真としてムードがあるばかりか、壁の右上、「この家は絶対に売りません!」という張り紙が、かなり効いている。この文言は、後作にだけ採用したもので 初作では「ひったくりに御用心――肩掛け、前カゴ、暗い道――池袋警察署」という、あんまりぱっとしないものを使っていた。このフレーズは、近所を散歩しているときに見つけた。それをワープロで打って、ちょっと汚してから安易な気分で作品の壁にのりで貼り付けた。そしたらある日のこと、あるうるさがた(龐統ひろし)氏が訪れ
「芳賀さん、こんなところにワープロで書いた張り紙を貼ったらダメですよ、ちゃんと手書しなきゃ」
と、ピシャリと指摘された。しかし一度貼ってしまったものを到底はがす気にはならず、それは、そのままの作品としたが、後作を作る段では氏の意見を取り入れて、改良することにし、ついでに文言も変えることにしたのだ。また、そのために作品の題名までをも変更せざる得ないことになったという、いわくつきの張り紙である。一作目の題名である「借家」という定義のままでは、後作の張り紙である「家を売らない」というセリフが、どうしてもマッチしないからである。正しくは、「この土地と家屋は絶対に売りません」と、右に大きく殴り書きがあって、その横に小さく「賃貸しもお断りです」と、両方とも実にへたくそな字で書かれた、誠に味のある張り紙だ。しかし、それを貼ったのはこの家の持ち主であろうから、ここは借家ではない。

 制作にまつわる苦労話の一端として、以下、少しだけこの張り紙についてを述べてみる。
 張り紙や、各種看板の類いに関しては、私は過去たまにはワープロで済ますことがあった。しかしダメだとハッキリ指摘されたのではしょうがない。よって後作では他の方法を検討することにした。最初に考えたのは図書館で古い写真を当たり、その中から適当な張り紙を見つけて、そのまま拡大(あるいは縮小)コピーして、作品の壁に貼りつけてしまおうというものだった。私はさっそく近所の図書館に出掛けて、片っ端から「昭和の写真集」をめくり、丸一日かけて、よい張り紙を探したが、結局、適当なものは見つからなかった。
 次の日は、池袋のジュンクドウ書店に出掛けた。
 この店の9階、写真集の売り場には、フロアーの横に椅子とテーブルが置いてあり、調べものをするにはちょうどよいと思ったからだ。そしてやっぱり5~6時間、片っぱしから次々と昭和の記録写真をめくっていった。そうしてやっとある本の中に、件の文言を見つけることができた。しかしこのときにはその本を買わずに帰宅。「家は売りません」というセリフがいまいち作品にフィットしないと思ったからだ。なぜなら作品の家は小さくて、非情にボロい。そんな家の住人が「家を売らない」と主張するのは、少しヘンに感じたのだ。仕方がないので翌日またジュンクドウに出掛け、モアベターを求めて再びまた多くの真集を当たってみた。だがそれ以上のものは結局見つからず、多少不満が残るものの、この文言を採用することにし、やっと本を買うことにした。「東京・都市の変貌の物語」から、下に写真を一枚掲載したが、これは多分「地上げ屋」によって立ち退きを迫られた住人が抵抗している姿を写したものだと思う。ちゃんと読み取れるかどうかが心配だが、写真左下の立て看板には、件の文言が力強く記されている。
 書体がグッドなので、さっき述べたように、最初はカンバン部分のみをハサミでちょん切って拡大コピーをかけ、そのまま使おうと考えた。そのままといっても、カンバンの下段部分は手前の障害物によって見えないので、そこは、破れてなくなってしまった状態の張り紙にするなど、ある程度の修正や、十分な汚しを加えてから、作品の壁に貼ろうと考えた。そして、その通りにやってみたが、どうも、あんまり良くなかった。元の写真がかなりボケていたので、それをコピーし、拡大したのでは益々ボケてしまい、この文言の持っている「強さ」がでないのだ。しょうがないので同じ文面を、今度は筆で自筆することにした。むしろヘタな字のほうが良いと思い、自分で書いてみた。午後中をつぶして何度も何回も書いてみた。が、やっぱりダメ。今度は、確かに字はクッキリしたのだが、書体が違うので、オリジナルのカンバンから立ち昇る「怒気」が、どうしても伝わってこないのである。散々考えた揚げ句、最終的には、写真の毛筆書体を、今度は鉛筆でなぞり、中味を黒く塗りつぶして、まるでそっくりの字を作ってみて、やっと満足のいく張り紙を仕上げることができた。
 と、いうわけで、こんなものひとつにも丸4日が掛かってしまった。
 しかし張り紙というものは、なかなかである。文字というものはインパクトが強いので、作品全体を左右してしまう力があるということは、龐統ひろし氏ご指摘の通りであった。そして「作品に対しての文言が若干ヘンではないか」という懸念は、さいわい杞憂に終わったようである。やっぱりこの場所には、この張り紙がピッタリだったと、自画自賛している次第であるが‥‥いかがだろうか。

 以上、今回「A Tiny House」の写真を8枚、新たに追加してから約3か月以上が経つが、当サイトでは新しい写真でも後ろのほうに掲載されるシステムなので、まだご覧になっていない方もいらっしゃると思い、本日はこの作品にまつわる話題を取り上げてみた。

 ほかにも、ここ数ヶ月のうちに‥‥
 *「La Charrette de Pierre」(アートインボックス作品「ピエールの荷馬車」)
 *「Rene le Serrurier est l’ami de la Resistance」(アートインボックス作品「錠前屋のルネはレジスタンスの仲間」)
 *「YAMAHA YDS-1 CLUBMAM RACER」(「Plastic Models」の項へ掲載)
 *「Small structures」(「Small works」の項へ掲載)
 *「Montparnasse 19—-Small version」(「Small works」の項へ掲載)
 *「October 2003 at Kotsu-Kaikan Hall in Yurakucho」(交通会館での生徒展風景「Scenes from exhibition」の項へ掲載)
等々、それぞれのページに、それぞれの写真を取り換えたり、増やしたりしているので、まだご覧になっていない方は、あとで是非チェックして下さい。

写真集
「東京/都市の変貌の物語」より


2004年2月12日

クイック・ジャパン誌・52号のこと

 去年の暮れ、クイック・ジャパン誌・51号に、私の知人である編集者・小島素治(こじまもとはる)氏に関する事柄が掲載されていて、このサイトからの引用も多いので、是非ご覧になって下さいとお伝えした。(2003年11月19日付けトークスを参照のこと。)さっき、その続編号・クイック・ジャパン誌・第52号(大田出版/刊)が届き、いま目を通したところである。今回は、写真家・浅井慎平氏による回想トークがメインだが、あいかわらず私の話しも多く取り上げられている。記事のタイトルは「Get back, SUB/あるリトルマガジンの魂に捧ぐ」というものなので、ぜひ雑誌を買って、お読みになって下さい。
 去年の夏、かかる雑誌の編集者から電話があり、小島素治氏についてお伺いしたいと言われ、近所の喫茶店で約2時間いろいろとお話し、彼が現在大阪の病院に収容されていることを伝えた。それから約1ヵ月後に、彼らは大阪まで出向き、氏との面会を果たした。そのへんのいきさつが今号の内容だ。記事をお読みになればわかるが、小島氏は私に対して実に頻繁に手紙を書いてよこした。しかし彼ら編集者が大阪に出向いた直後からパッタリと便りが途絶え、いったいどうしたのかと気をもんでいた。なにしろ非情に手紙好きのひとである。もしかしたら取材の内容が当人の気にさわり、彼等を差し向けた私に対して怒っているのでは、と考えたりもした。
「なにか当人の気に触ることでも言ったのではないか?」
とうとう私は、取材を敢行したライター氏に対して若干の苦言を呈した。すると彼らは「調べてみます」と答え、帰ってきた返事を聞き、私は絶句した。
「手紙が届かない理由が、やっとわかりました。2003年の10月5日に、小島氏は亡くなったそうなのです‥」
 この雑誌のライターである北沢夏音(きたざわ・なつお)氏は、上の重大ニュースを携えて、拙展(渋谷クラフトクラブ&芳賀一洋展)の会場に駆けつけてくれたのだった。
――改めて合掌。
 そして、今号の紙面には闘病中の氏の写真が使われていたが、一瞥し、わたしは胸が一杯になってしまった。やせ細り、それは、あまりにも変わり果てた姿だったからだ。

クイック・ジヤパン誌・第52号
書店にて発売中!


2004年1月21日

伊東屋の内部

 前回のトークスでは、かなり集中して「むかしの伊東屋」(創業時の店舗)を作っていると書いた。今は、店の内部(100年前の内部)に取り組んでいて、とりあえずは下の写真のようになっている。これは、もちろん途中段階での「絵」だ。このあとも色々なパーツを付加するつもりではあるが、先週デジカメを持った生徒氏が工房に訪れたので、この段階で、パチリとやってもらった。後日プロ・カメラマンに来てもらっての「ファースト・メイキング・シーン・オブ・ザ・ITO-YA」の撮影も予定していて、そちらは将来「works」のコーナーに掲載しようと考えている。前回「芳賀には趣味がない」と書いたが、もちろん写真もやらぬ。従って拙者は一台のカメラも持っていないのだ。だから写真は、すべて他人まかせである。
 実は、この店の「inside」(店内)に関しては、まったく何の資料もなかったので、仕方がないので、すべて想像(創造)で作った。ただ金銭登録機(レジ)に関してだけは、昨年末に往年の写真を頂戴していたので、その通りに作ってみた。大きな置時計にはアメリカ製のミニチュアを使ったが、利用したのは外枠のみで、中身は全部入れ換えてある。その他、ガラスケースやキャビネットや、壁にある大きな鏡や、細かい文房具など、ほとんどすべてを自作した。写真右上の壁に掛かっている絵も自分で描いた。(ただしフレームはアメリカ製。)
 さいわい私は、以前に洋品店(洋服屋)を経営していたので、店の内部については普通の人よりは若干詳しい。たくさんの店を作ったり壊したりを繰り返してきたからだ。細かいものまでを含めると、その数は、30や50にも及ぶはずである。そしてその都度、店内レイアウトを考えてきたので、今回はそんな経験を生かし、理にかなった店内造作・店内レイアウトを創ったつもりである。

撮影・三宅隆雄


2004年1月13日

あけましておめでとうございます

 クリスマスにテキサスの農場が爆破されることもなかったし、元旦にミサイルが皇居に突っ込むこともなく、意外とおだやかな正月だった。てっきり大事件が勃発するとばかり思っていたが、アルカイダの諸君は一体どうしちゃったのだ。ま、それはともかく、ずっと昔から私はこの時期、特に変わった行動はせず、いたって普段どおりに過ごしている。
 今年の場合は以下のような具合だった。

「2003年12月31日」
 朝の7時からいつもの通り机の前に座り、作りかけ「伊東屋の模型展示物の制作」に取りかかった。そのままわき目も振らず午後8時まで続行。途中一度も外出せず、一度も電話せず、朝から晩まで、ひと言も誰ともしゃべらなかった。作業中はずっとラジオ(NHK第一)を掛けっぱなしにしていたが、特に集中力を要する場面では音を切った。しかし作業を終えた午後の8時以降は、若干のアルコールを補給したり、紅白歌合戦や、曙戦にもひと通り目を通すなど、人並みの行動パターンのあと、深夜の12時ごろに就眠。もちろん大掃除など、一切やっていない。

「2004年1月1日」
 早朝6時から作業を開始し、この日もNHK第一を聴きながらの作業となった。やはり一日中外出はせず、仕事中は、ひとことも誰ともしゃべらなかった。やがて午後5時に妹の一家三人(妹夫婦と彼らの長女絢子さん23歳の3人)が、年始の挨拶に訪れたために、その時点で作業を中断し、我が家のファミリー5人(家内と私と、私の母上82歳と、長男貴行26歳、長女千尋20歳の計5名)と、妹ファミリーの合計8名は、たらちねの母上お手製のおせち料理をつつきながら約3時間歓談した。
――(このときの集合写真は下に掲載した。)
 そして彼らが帰った直後のPM9時ごろ、私は床につき、そのまま寝てしまった。もちろんどこの神社にも行かなかったし、テレビも、ほとんど見なかった。

「2004年1月2日」
 この日は早朝4時から作業を開始し、そのまま午後8時過ぎまで続行し、午後10時に就眠した。日中一回東急ハンズ(池袋店)まで買物に出掛けたが、バイクでサッと行き、ただちに戻って来たので、所要時間は30分ぐらいだったはず。この日もテレビはまったく見ていない。

「2004年1月3日」
 早朝6時から作業を開始し、午後4時まで続ける。4時にはクラフト教室の生徒・田山まゆみさんが打ち合わせのため訪れたので、作業場で約一時間話し合った。彼女には伊東屋の作品に使う「紙もの」(ノートや絵ハガキなど)の制作を依頼しているので、そのための打ち合わせだ。彼女が帰ったあと、ひとりでアルコールを補給しているとヤル気がうせ、午後の7時ごろ、はやばやと就眠してしまう。しかし直後の8時半には目覚めてしまい、仕方なく、再びまた作業を開始する。そのまま深夜の1時まで続行し、午前2時ごろに再度就眠。この日もテレビはまったく見ていない。

 そしてきょう1月4日は、先ほど、朝の5時半から、ずっとパソコンの前に座っている。私のはノート型パソコンだが、それが作業用テーブルのすぐ横に置いてある。本当は一刻も早く伊東屋の続きを始めたいのだが、次は、どうしても丸ノコによる切断が必要で、いま待機しているところなのだ。丸ノコは騒音が伴うので、あんまり早朝だと使えないからである。仕方がないので、いまこのトークスを書いている‥。

 以上までの記述を見ると、たいへん早起きのようにも見えるが、これは、たまたまである。あるとき一回でも早朝まで仕事を続けたりすると、翌日起きるのが遅くなり、その日を境にして一転夜型に転じることもある。要は体力の続く限り仕事をし、眠くなったら寝るというのが就労パターンで、起きる時間は特に定まっていない。そして正月といえども、通常どおりの仕事をこなしていることがおわかりいただけたと思う。私には趣味というものがなく、普段本は読まないし、スポーツをやるという習慣もない。家族でどこかに出掛けることもないので、仕事以外のことは常に一切やらぬのだ。これはずっとそうで、以前商売をやっていたときにも365日、一日たりとも休んだことがなかった。日・祭日も営業したし、12月も、31日まで営業し、そして正月の2日が、たいがい初売りだった。福袋が良く売れた。元旦はそのための準備だから、もちろん休まない。大体からしてその頃は、店を閉めるのが午後の7時や9時といったありさまで、私は9時より早く帰宅することがなかった。だから家族そろっての食卓もなく、そんなことが約20年間続いた。考えれば私のオヤジも商売をやっていたので、元旦の朝以外には家族と一緒の食卓についたことがなかった。その元旦も、夕方にはひとりでどこかへ出掛けていたので、私の父が家族と供に、家で夕飯を取ったことは多分一回もなかったはずである。お陰で代々芳賀家には、家族そろっての食卓や、一家でどこかへ出掛けるといった伝統(習慣)がなく、正月も右へ習え、なのだ。
 と、まあ、本日は、はが・いちようの「いやし系」(どこが?)正月の行動パターンをお伝えしましたが、みなさんの場合はいかがでしたか‥‥。
――本年も、どうぞよろしくお願い申しあげます。

2004年元日の集合写真
I’m wearing a hat in the picture.
撮影・丹羽伸一郎


2004年1月4日

三宅作品のこと

 再放送していたので、ご覧になった方も多いと思う。主演の黒板五郎には田中邦衛が扮していて、彼は北海道・富良野(ふらの)の原野に、都合五つの家を建てるというのが、ドラマの設定だ。
 実は私は、ほんの数ヶ月前まで、この番組については、まったくと言ってよいほど無知だった。しかし事情があって、最近このビデオを大量に見ると同時に、9月には番組の製作スタッフと現地まで視察に出向いた。このとき一緒に私の工作教室の生徒・三宅隆雄氏も同行した。彼はこの番組の熱烈なファンで、以前よりフジテレビの方と懇意にしているからだ。現地には撮影に使ったという幾つかの「黒板家」が、幸いそのまま残っていて、中でも五郎さんが三番目に建てたという家に、三宅氏は異常な興味を持ち、撮影や採寸に長時間取り組んでいた。そうして出来上がったの作品が「黒板家Ⅲ」(下の写真)である。だからこれは私の作品ではなく、三宅隆雄氏の作品である。
 しかし、あんまりにも素晴らしい出来栄えだったので、フジテレビの人がビックリし、うちの社内に展示させてほしいとの申し出があり、いま展示されている。

 場所: ㈱フジテレビ(東京都港区台場2-4-8)24階コリドール
 日時: 2003年12月13日(土) ~ 2004年1月4日(日)
 時間: 通常は10:00~20:00ですが、12月24日(水)は10:00~23:00、12月31(水)は10:00~25:00です。

 下の写真の他にもあとひとつ、五郎さんが最初に作ったという「黒板家Ⅰ」という作品も同時に陳列されているので、お台場方面に出掛ける用事があったら、是非ご覧になってください。

三宅隆雄氏・作品「黒板家Ⅲ」


2003年12月24日