2003年9月26日

 昨日9月25日に、ニューヨークから帰ってきたところである。(ニューヨーク行きの内容に付いては8月26日付けのトークスを参照のこと。)
 現地は東京以上に蒸し暑く、かなりまいったが、全体的には非常に有意義な出張だった。もともと当サイトを現地で少しでも宣伝できれば‥との思いからの出発だったが、米国のミニチュア系マガジーン2誌に拙作が紹介されることが決まったことなど、そのほかにもいくつかの思わぬ収穫が得られた。しかし最後は、私ひとりがリッチモンド・ヒルの邸宅に取り残されるという孤独な結末を迎えた。というのは、最初は、私を含めて計9名の大所帯だったのだが、途中から次々と、そのうちとうとう全員が帰国してしまい、また、この家の主である石橋上人も現在は東京の実家に帰っている最中なので、いまは完全な無人家。そこに私ひとりが取り残された。
 帰国の前日、暇つぶしに以下の手紙を書いた。

 ただいま米国時間の9月23日(火)。わたしはまだ寺(邸宅)にいて、1階の白いソファーの上でこの手紙を書き始めたところです。
 現在、午前3時45分。
 もうこの寺には、わたし以外には誰も居ません。
 ニューヨークに来てからは、ずっとショーのことや、ジェーンさんからのインタビューのことなどを考えていて、まったく観光らしき行動をする気が起きませんでした。とりわけ最大の心配ごとはショーの搬出でした。場合によっては、私ひとりで搬出せねばならぬ可能性もあり、最悪の場合は、シティーのレンタカー屋からライトバンを借りて来て、自分で運搬することも視野に入れて、覚悟しておりました。しかし幸い、高木淳子さんが居てくれたお陰で、搬出は、おとといの日曜日に、難なく終了。そして会場から戻ってきたぜんぶの物品の整理整頓や再梱包の仕事まで、すべて片付いたのが、きのう(月曜)の昼1時でした。これでやっと今回の私の任務はほとんどおわり、昨日の午後は、心からホッとした気分に浸ったものでした。それでやっとメトロポリタン美術館などを見物する気になり、午後の2時ごろに出かけたところ見事に休館! それからは歩いて歩いて歩いて、マディソン通りから、グリニッジビレツジから、バワリーへ‥‥。足がへとへとになるまで歩き回り、当初は「養老の滝」でメシでも食って帰ろうかと考えていました。そしたら途中で日本の食材屋を見つけ、思わず、大量に買い込んでしまったものです。

  * いいちこ(焼酎)下町のナポレオン
  * 納豆(おた福なっとう)3パック
  * 明太子(辛子明太子)4切れ
  * 生卵(6個)
  * 永谷園の「たらこ茶づけ」
  * 伊藤園の緑茶
  * キリンの一番搾り(2本)
  * もめん豆腐(1丁)
  * 日清のこだわり「麺の達人」
  * 赤いきつね・デカ盛り
  * 読売新聞・国際版(9月22日付)

 以上ぜんぶで、確か60ドルぐらいでしたが「養老」をやめにすればおんなじような値段。従って昨晩は寺でメシを炊き、いいちこを飲みながらスルメ(池田さんからのプレゼント!)and 豆腐 and 納豆という、グッドな組み合わせを堪能することができました。
――ところで、今回この寺で御一緒させていただきましたのは以下の方々です。

*石橋行受上人(いしばし・ぎょうじゅ・しょうにん)
(石橋上人の本名は石橋君康・きみやす・ですが出家してからは行受となりました。)
Nipponzan Myohoji New York Dojo
Mr. Kimiyasu Ishibashi 00th Street Richmond Hill NY. 00000 USA
Tel 000-0-000-000-0000
000-0000 東京都北区○○ TEL 0000-0000

若手の三羽ガラス
 *田中香織(たなか・かおり)
 000-0000 東京都世田谷区 ○○○ TEL 0000-0000
 *金子智太郎(かねこ・ともたろう)
 000-0000 東京都台東区谷 ○○○ TEL 0000-0000
 *井田陽子(いだ・ようこ)
 000-0000 千葉県柏市○○○ TEL 000-0000

ミドル・グループ
 *稲葉美智子(いなば・みちこ)
 000-0000 東京都渋谷区○○○ TEL 0000-0000
 *坂井恵理(さかい・えり)
 000-0000 東京都豊島区○○○ TEL 0000-0000
 *及川麻紀(おいかわ・まき)
 000-0000 千葉県船橋市○○○ TEL 000-0000

池田親子とその友人
 *池田邦子(いけだ・くにこ)
 000-0000 千葉県千葉市○○○ TEL 000-0000
 *池田 聖(いけだ・きよし――池田邦子さんの次男)
 *高木淳子(たかぎ・じゅんこ――池田邦子さんの友人)
 000 church Rd. Apt. 0-0 North Wales PA 0000-0000 tel. 000-000-000
 000-0000 東京都小金井市○○○ TEL 000-0000

ダライ・ラマ見物グループ
 *Michelle Monagas(ミシェール・モナガス)
 000 Cranberry Meadow Rd East Calais, VT 00000
 *赤嶺辰次(あかみね・たつじ)
 Tsukazan 0000-0000 Haebarn OKINAWA 000-0000 Japan

――以上の方々でした。
 と、ここまで書いたら朝の6時近くになりました。
 ここリッチモンド・ヒルでは午前の5時ごろから、突然雨が激しく降りだしていて、いくらか風も出てまいりました。実は、きょうは、トレインに乗って「BAYSIDE」というところまで出かけねばなりません。そこに「Tee Ridder」という名前のミニチュア・ミュージアムがあるのです。もしかするとそこに拙作を展示して戴けるかも知れません。知り合いはもう誰も居ないので、この際は、私ひとりが(決死の覚悟で)出かけてゆき、先方の館長と会わねばなりません。それが、ここでの最後の仕事になるはずです。
 ペン・ステイション(マディソン・スクェアーガーデン)からロングアイランド鉄道に乗って、約1時間で「BAYSIDE駅」に着くそうです。それからはタクシーでミュージアムに向かうつもりです。
 うまく行きますかどうか‥‥。
 いずれにしましても明日(24日)には帰国いたします。

 HAGA in Richmond Hill
 2003.9.23
 6:50 am.

 以上が、先おとといの朝、書いた手紙だった。
 この手紙を書いたあと、私は風雨の中をミュージアムまで出かけて行った。そしてミュージアム関係者のご夫妻と、郊外の素晴らしい英国風レストランで昼食を取った。昼食のあと、表に出ると、幸いいつの間にか雨は上がっていて、いくらか日も差していた。
 結局、拙作を展示するというはなしは実現し、一点だけ(Numero 118という作品)を、そこに置いて帰ることになった。と、いっても永久展示ではなく、10~11月と約2か月間、期限を切っての短期展示だ。

TEE RIDDER MINIATURES MUSEUM


2003年9月26日

2003年8月26日

 お陰さまで銀座展(詳細は前回のトークス参照)は先日無事終了致しました。ご来場いただいた皆様方には厚く御礼申しあげます。
 次回展は、10月に有楽町交通会館で開催される「渋谷クラフトクラブとの合同展」(詳細はエキシビジョンの項目をご覧下さい)だが、その前に、ニューヨークで、ちょっとした展示がある。このことに付いても、以前より当サイト・エキシビジョンの項目に掲載してあった。
 ――以下、掲載文。

 ■今年の9月、ニューヨークで開催されるミニチュアのショーに、数点の拙作を展示する予定です。同行を受け付けておりますので、ご興味のおありの方は申し出て下さい。また、このショーに関しての詳細は、以下のサイトに詳しく掲示してあります。
http://www.bishopshow.com/

名称――「ニューヨーク・インターナショナル」
場所――マリオット・マーケス 1535 ブロードウェイ・タイムススクェアー
2003年9月19日――午後 5:30~午後9:30 (オープニング・プレビュー)
2003年9月20日――午前10:00~午後5:00
2003年9月21日――午前11:00~午後4:00

 上の内容にもあるように、現地への同行者を募ったところ、なんと8名もの参加希望者があらわれたため、私を含めて総勢9名での現地行きの予定となった。
 上のショーは、トム・ビショップ(米国人)という人が、世界各国で開催しているミニチュア・ショーの一環で、それが9月には、ニューヨークで開催されるのだ。(詳しくは上の、ビショップ氏のサイトをご覧下さい。)
 今年の6月に、私は浜松町で開催された「東京インターナショナル・ミニチュアショー」に参加したが、これもトム・ビショップ氏のショーだった。また3年前には「シカゴ・インターナショナル」という彼のショーにも参加したことがあるので、幸いビショップ氏は私の名前を知っている。そこで今年の7月初め「あなたが開催するニューヨークでのショーに私も参加したいが‥」と、メールを打ったところ、直後に
「来てくれ」
との返事が、直接ビショップ氏から届いた。
 いまのところアートインボックス作品3点と、プラス2~3点のストラクチャー作品を持っていくつもりで、一応販売が目的だが、高いので、まず売れないと思う。そういうことよりも、私の作品や、このサイトのことを少しでも宣伝できればと考えての海外出張だ。幸い先日、米国のあるミニチュア雑誌の記者から、「ニューヨークで、貴方にインタビューしたい‥」というEメールでの申し出があった。もしお受けできれば、それだけでも十分宣伝になると考えている。
 以前、この項に、ニューヨーク在住の私の友人(石橋きみやす上人)のことを書いたことがある。(2002年9月12日付けのトークスを参照のこと。)彼の家は、マンハッタンから車で約30分の位置にあり、我々一行は、石橋上人のご好意により、彼の家に滞在する予定だ。出発は9月14日。

2003年8月26日

2003年7月31日

 以前より当サイト「エキシビジョン」のコーナーには掲示してありましたが、8月に下記日程で拙展が開催されます。
場所は、銀座の「ステップス・ギャラリー」という小さな会場です。
 ここでは過去二回の拙展を開催した経験があり、そのときの様子は「Scenes FromExhibition」のセクションに多数の写真を掲載してあります。今回も、だいたいは似たような展示になるハズです。

  名称――芳賀一洋展
  場所――「ステップス・ギャラリー」
  住所――東京都中央区銀座7-8-1
  電話――03-3571-0424
  会期――2003年8月5日(火)~8月17日(日)
  時間――午前11時~午後7時

 今回、特に目新しい作品は展示いたしませんが、お時間がありましたら是非のぞいてみて下さい。芳賀は、原則毎日会場に詰める予定です。
 どうぞよろしく。

2003年7月31日

2003年7月15日

 当サイト「プラスチックモデル」のコーナーでは、プラモデルのオートバイを色々と掲載している。ここに最近、「BMW・R69S」、「HONDA・CR110」、「ハーレーダビッドソン・アーミーモデル」、「陸王」の4車種を新たに追加し、これで計8種類のバイクが並び、お陰様で、かなり充実してきた。
 ほとんど全部がグンゼ産業の「ハイテクモデル」というプラモデルのキットを組んだものだ。これはプラモデルとしては割に高く、ひとつ7~8千円ぐらいする。しかし最終ページに掲載したハーレーだけは安物のキット(発売元ハセガワ・定価1500程度)を組んで作った。
 私は過去、たくさんのアートインボックス作品を作った。
 それらの製作過程で、毎回頭を悩まされるのが路上に置くための物品だ。すべての作品は1945年のパリという設定なのだが、いっくら当時の写真を眺めてみても、路上に物など置いてないからだ。しかし作品として見ると、画面の手前(路上)には、何かがないとヘンなのだ。しょうがないので、お掃除の道具類をならべてみたり、ガラクタの木箱類を並べてみたり、またある作品ではゴミの類を並べてみたりと、ない知恵をしぼり、いろいろ工夫をこらしてきた。できるだけワンパターンは避けたいので、毎回新しいアイデアを探してきたのだ。しかしだんだんと種が尽きてくる。そんなとき、突然バイクを置くことを思いついた。バイクならば、路上にあっても何ら違和感はない。しかもプラモデルを加工すれば済むので、作るのもカンタンそうである。だから最初に考え付いたときには、大喜びしたものだ。そうして出来上がった作品の題名は「モンパルナス19」。(以前より当サイト、アートインボックスのコーナーに掲載してある。)
 と、いうわけで、アイデアはよかったのだが、非常に困ったのは、古いバイクのキットがみつからないことだった。本当なら、1940年ごろの、フランス製のバイクが望ましいところ。しかも縮尺は12分の1でなければならない。私は、次から次へと東京中のプラモデルショップを探し回った。だがそんなものはどこの店にも置いていなかった。それでしょうがなく、この作品には、ハーレーダビッドソンのアーミーモデルを置くことでお茶を濁した。なにしろ私がつくっているパリものは、ノルマンジー上陸作戦によって連合軍が進駐してきた直後という設定なので、道端に米軍バイクがころがっていたとしても別段不思議ではない。が、車種としてはかなり新しいものだったので、時代考証的には大いに不満足ではあった。しかしそんなことまでわかる客はまずいないだろうと考え、そのまま作って作品の手前に置いてしまった。
 それは、それでよかった。
 だが、じゃあ、「他の作品にフィットするバイクは?」となると、相変わらず適当なものは見つからない。仕方なく、ある人に
「なにか、いいバイクって、ないですか‥?」
と、尋ねてみた。この方は、かなりのドールハウスをつくる女性で、どういうわけかバイクにも非常に詳しいという変わったお方。
 それから数ヶ月が経って
 「もし、よかったら、これを使ってください‥」
 なんとプラモデルのバイクのキットをタダでプレゼントしてくれたのだ。それがグンゼのハイテクキットとの出会いだった。このときいただいたキットは「BMW・R69S」と「トーハツ・ランペット・CR50」のふたつで、いずれも店頭では入手不可能という貴重品だった。もったいなくてしばらくは封を切る気になれず、実際に作ったのはそれから一年ぐらいたってからのことだった。しかし残念ながら、二台ともパリの街角には不似合の車種だったため、ただ単にバイクだけの作品となってしまった。以後その数は、だんだん増えてゆき、同時に、バイクを作ることにはまってしまった私は、町のプラモデル屋でグンゼのキットを見つけるたびに買いあさっている。

 本文の文末には、2000年の11月に発売された「月刊モデルグラフィクス」の誌面から、私のバイクが取り上げられたときの様子を掲載した。写真はトーハツ・ランペットと、ホンダのCR110である。このときは同時にカンタンな制作記事も併載された。(記事の内容は、当コーナー・2002年11月15日付けにて全文掲載してあります。)その後再度、同誌別の号に、こんどは「陸王」を取り上げて下さるという話があり、私は、はやばやと記事だけを書いてしまった。が、結局「陸王」の記事はボツになり、使われることはなかった。もったいないので、本日は、その、日の目を見なかった駄文を下に掲載することにした。

 ――これは陸王ってバイクだが、むかし三軒隣りのおっちゃんが乗っていた。当時、うちのオヤジは「アサヒ号」なんて地味なバイクで通勤していたから、こども心に「負けた!」なんて思ったもんだ。
 前回、11月号で記事にしたトーハツ・ランペットは、絶版の貴重品というキットを組んだものだったが、今回の陸王は、幸いいま市販されている。
 例によってグンゼ産業のハイテクモデルというキットを使ったので、主要部品のほとんどがホワイトメタル製というやっかいなもの。やってみりゃあわかるけど、ちょいとヘマすりゃポキッと折れちゃうのがホワイトメタルの特徴だ。だから折れちゃったパーツはすべて金属で作り直した。サイドスタンドや、マフラーの根元や、リヤブレーキのテコや、訳のわからないパイピングの類や、その他かなりの部品を真鍮で作り直した。また、フロントとリヤのフェインダーや、イグニッションキーや、リヤのナンバープレートなども、薄い洋白材を材料に、すべてを作り直した。というのは、キットにふくまれているステンレスのエッチング板はメチャクチャ硬いので、うまく曲がらない。その上ステンレスだとハンダが流れにくいし、腐蝕液にも反応しない。等々を考慮して、ぜんぶを洋白でつくりなおさざる得なかったのだ。
 今回の自慢はサドルなんじゃよ。むかしのバイクのサドルって、だいたいこんなもの。しわくちゃのボロボロだった。そのへんをムキになってつくろうとするとこんな風になる。まずツルッとしたプラスチック製のサドルにゴムのり系のスプレーを吹き、それから東京都23区推奨の白いゴミ袋をおっかぶせ、くるりと裏側に巻きつけた。そいで裏側にはピッタリの大きさのガムテープをはりつけて、ギュッと固定する。着色は、オイルステインの原液(黒)を、シンナーでパシャパシャに薄めて筆でサッと塗った。もっともこれは表側(サドルの表側)だけのことで、裏もおんなじようにやったらシンナーが染みてガムテープがはがれてしまう。だから裏側はスプレーでの着色となった。(――表側だけは、どうしてもキタナラしく塗りたかったので、筆ぬりにしたって訳だ。)
 これで、かなり実感がでる。
 だがここまでやっちゃうと、どうしてもサドルのアンダーが気になってくる。キットだと、そのままサドル受けに接着しておしまいだが、それじゃせっかくの雰囲気が台ナシしだ。むかしのバイクなら、コイルスプリングが丸出しって構造でなきゃ、ね。
 おかげでコイルスプリングも自作することになった。
 太さ0.5ミリ程度の真ちゅう腺を少量準備し、まずはそれをガスで真っ赤にあぶって焼きなます。あとはそれを太さ2ミリの丸棒に巻きつければ出来上がり。ここまでは、いたってカンタン。しかしそのあと、そのスプリングを、どうやってサドルの裏側に取り付けるのかが、非常にやっかいだった。シートの裏側は、さっきガムテープを張ってしまったし、スデに着色もしてあるので、加工は、かなり面倒だ。
 以下、少し説明すると、まず真ちゅうでT字型の金具をあらかじめ作って、それをサドルの裏側にピンで突き刺して固定する。次はT字金具のおのおのの先っぽに細いシャフトをハンダ付けし、そこに、さっき作ったコイルスプリングを通して、それからサドル受けに接着するという手順だった。やったら案外うまくゆき、しわくちゃのサドルの下には原始的なコイルスプリングがキラリと光って、そうとういい雰囲気になってきた。すっかり気に入った私は、ついでに(フロントの)ハンドルの根元にもスプリングを入れたくなり、こうしてだんだんと余計な仕事が増えていった。
 いまでも慙愧(ざんき)の念にかられるのはヘッドライトの角度のこと。もつと下に向けるべきだったのだ。残念ながらこの部分は特に厳重に真ちゅう線を植え込んで止めてあったので、あとでは直しようがなかった。しかし、よく良く考えると、むかしの単車のライトなんて、結構ぐらぐらしていて、よくおっちゃんが、走らす前に、ちょっと下を向けたりして調整していたものだ。それを考えれば、多少上を向いていても、そんなにメゲることはないのかも知れないと、いまはそう思い、自分をなぐさめている。

 陸王がはやっていた時代は、力道山や、月光仮面が大活躍していたころのこと。だから陸王っていうと、どうしても力道山の顔をおもいだす。力道山のようなムキムキマンがよくこの単車にまたがっていた。

月刊「モデルグラフィク」誌
大日本絵画/刊・2000年11月号より


2003年7月15日

2003年6月18日

 またまた「トキワ荘・ネタ」で申し訳ない。
 最近、当サイト「トキワ荘」のセクションを大幅にリフォームしたために再度の登場となってしまった。写真を増やし、かなり多くの英文も追加して「トキワ荘物語」とでもいったセクションにつくりなおした。
 最近は宮崎アニメなど、世界中に日本のマンガが知れわたるようになり、「トキワ荘がそれらのルーツなのですよ‥」ということを、諸外国の方々にもかってもらいたいと考えてのことだ。そういうわけで今回改装した「トキワ荘物語」は、今のところ英語オンリーなので、下に翻訳した和文を掲載することにした。
 本編のページに配置した英文は、主に米国人に向けて書いた文章だったが、今回はそれをできるだけ忠実に日本語になおしたため(日本語としては)すこしヘンな部分もある。

 「トキワ荘」
 ――ページでは画面左側にガスメーターの写真1枚を添付。(このガスメーターは、私の工作教室のグレート・パーソン「佐野匡司郎」という御仁の作だ。)

 鉄腕アトムや怪傑ハリマオなど、子供の頃にはよくマンガを読んだ。アトムはもちろん手塚治虫だし怪傑ハリマオは石ノ森章太郎の作だ。この両者はかって「トキワ荘」と呼ばれる小さなアパート(豊島区椎名町・現南長崎にあった)に暮らしていたことがある。
 2001年、私は石ノ森章太郎氏のミュージアムに展示するための模型展示物「トキワ荘」を制作する機会を得、この年の春に制作した。それは私にとって大きな仕事だった。

 「マンガのルーツ・トキワ荘」
 ――ページでは画面左側にアパート裏側の写真1枚を添付。

 東南アジアやフランス、米国など、日本のマンガやアニメーションは、今日、世界中に知れわたっている。ポケモン、ピカチュー、ドラゴンボールなど、きっとあなたの身近にいるはずだ。それら日本のマンガのルーツがこの小さなアパートだった。
 1950年代のこと、ここには約10名のマンガ家たちが暮らしていた。その10名は、すべてがマンガ界における偉大なパイオニアとなった。今日では「巨匠」と呼ばれる方々ばっかりである。中でも手塚治虫、赤塚不二夫、藤子フジオ、水野英子、石ノ森章太郎の各氏は、依然としてわが国では非常に名高い存在だ。

 「棟上は昭和28年」
 ――ページでは画面左側にアパート正面の写真を1枚掲載。

 トキワ荘は昭和28年、天野喜乃氏によって建設された。外観は何の変哲もないただのアパートだったが、やがて日本のマンガ界にとっては「記念碑的建造物」と呼ばれるようになった。しかし残念なことに、昭和57年(1982年)に取り壊されてしまった。
 写真の二階左側が石ノ森章太郎氏の部屋で、その右隣の部屋が、赤塚不二夫氏の部屋だった。

 「玄関」
 ――ページでは画面左側に玄関の写真1枚を掲載。

 玄関は幅約一間(1820ミリ)で、入ると右に二階へ昇るための階段があり、左側が廊下になっていた。入り口の扉はいつも開いていて、カギは掛かっていなかった。
 ところで昔の日本では、たいがい入口が引き戸だったものだが、このアパートにはスイングドアーが使われていので、かなりモダンだったことがわかる。

「石ノ森章太郎の部屋」
 ――ページでは画面左側に石ノ森部屋の写真1枚掲載。

 今回の仕事は、石ノ森章太郎氏のミュージアムに納入するためのものだったので、石ノ森部屋の室内だけは完璧につくる必要があった。右の写真がその内部だ。一辺が一間半(約2.7メートル)四方という小さな部屋で、奥にはふすまが見える。中央には丸いお膳が見え、手前にはライティングディスクが見えるが、石ノ森氏はこの小さな机で数々の名作を描き上げていた。
 あいにく写真がないのでお見せすることが出来ないが、今回私は、石ノ森部屋以外にも九つの部屋の内部造作をつくった。

 「四畳半の部屋」
 ――ページでは画面右側に上から見た石ノ森部屋の写真1枚掲載。

 この写真も石ノ森部屋の内部を写したものだ。普通サイズの畳が四枚と、その半分の大きさの畳が一枚、床に敷いてある。わが国では部屋の広さを言い表すときに、いつも畳の枚数を数えて表現する。つまりこの部屋は四畳半である。それは我が国では、よくある広さであった。
 石ノ森氏は、ジャズやクラシック音楽と、読書が大好物だったので、畳の上にはたくさんの本と、LPレコードのジャケットが置いてある。それらは私の生徒「田山まゆみ」さんが作ってくれ、その数は1000点にも及んだ。

 「二階の廊下」
 ――ページでは画面左側に廊下の写真1枚掲載。

 二階には約10部屋があったが、どの部屋もみんなおんなじ大きさだった。室内にトイレや台所はなく、それらは廊下にあった。また、アパートには風呂がなかったので、彼らはいつも銭湯を利用していた。廊下はたいがいホコリっぽく、薄暗かった。
 写真の手前右側が石ノ森氏の部屋で、その向かいが水野英子氏の部屋だった。そして写真奥の左側がトイレと台所だった。

 「水野部屋から見た石ノ森部屋」
 ――ページでは画面左側に水野部屋の窓から内部を覗いた写真を1枚掲載。

 この眺めは水野部屋の窓の外から内部を覗き、廊下の方向を見たものだ。しかし彼女の部屋の入口と石ノ森部屋の入口の両方が開いているために、石ノ森部屋の内部までが見通すことができる。ほんの少しだけ石ノ森部屋のステレオが見えるが、これは彼ご愛用の品で、非常に大切にしていた。彼はベートーベンやモーツァルト、マイルス・デビスやソニーロリンズといった音楽を、いつもボリューム一杯に鳴らしながら仕事をしていた。

 「田山まゆみ」
 ――ページでは画面左側に田山まゆみさんの写真1枚を掲載。

 2001年の五月後半になると、おおかたトキワ荘は出来上がっていた。大きな作品がひとつ、私の作業場にデーンとそびえていた。たくさんの方々がお見えになった。このアパートのオーナーだった天野ご夫妻や朝日・読売新聞、雑誌社や、友人や、私の生徒などがほとんど毎日のように見にきた。写真の中で作品を真剣に覗き込んでいる若い女性は、私の教室の生徒「田山まゆみ」さんだ。彼女がこの作品のために千点にも及ぶミニチュア・パーツ(書籍類)をつくってくれた。作品の後ろにほんの少しだけ見えるのは、彼女のご主人だ。
 この写真から間もなく、5月の末日に、この巨大な作品は私の作業場から去っていった。

 「小学館にて」
 ――ページでは画面左側に小学館での写真1枚を掲載。

 小学館は大手の出版社である。その本社ビルは、よく「藤子フジオによって建てられた」などと言われる。それほど彼らは藤子フジオのマンガ(オバQやドラエモン)を大量に販売したのだ。その藤子フジオも、かってはトキワ荘の住人だった。だから作品の完成後いったん小学館のロビーで展示されることになった。
 写真の中で、私のとなりの女性がマンガ家の水野英子先生だ。彼女もかってはこのアパートに暮らしていたことがある。当時彼女はまだ18才だったが、すでにマンガ家としてはよく知られた存在だった。そんな彼女が、ある日偶然私のエキシビジョン会場を訪れ、作品を気に入ってくれた。それから数年がたち、彼女が私を、この仕事の製作者として推薦してくれたため、このような作品を作る機会を得ることができた。

 「萬画館にて」
 ――ページでは左側に「萬画館」内部の写真1枚掲載。

 石ノ森章太郎は、わが国では偉大なマンガ家として知られている。1998年に惜しくも世を去ったが、生涯に700タイトル以上のマンガを残した。
 彼の死後、西暦2001年の夏に、氏のふるさと(宮城県登米市中田町石森)にほど近い石巻市が「石ノ森萬画館」という巨大なミュージアムを作った。左の写真はその内部である。私の作品は「トキワ荘の青春」というコーナーに展示してある。

 「実物の玄関」
 ――ページでは画面左側に汚れたドアーの写真1枚を掲載。

 トキワ荘の実物写真は少ない。左の写真はそのうちの一枚だ。このアパート玄関の、実物のドアーの写真である。
 昭和57年(1982年)のこと、まもなくこのアパートが取り壊されることを知った水野英子氏は、長男「春暁」(はるあき)さんを連れてここにやってきた。そして彼女はこれら36枚ものカラー写真を撮ったが、それは正に取り壊される寸前のことだった。従って写真はどれも非常に貴重なものである。

 「階段」
 ――ページでは画面下段に写真3枚掲載。

 玄関の中に少年がいるが、水野英子氏の長男春暁さんである。別の写真では階段が見えるが、階段の上に小さな部屋が見える。それはトイレである。

 「石ノ森部屋」
 ――ページでは画面下段に写真3枚掲載。

 写真には本物の石ノ森部屋(左の写真)や、散らかった廊下や、建物の外側が写っている。

 「台所」
 ――ページでは画面左側に台所の写真を1枚掲載。

 二階には台所がひとつしかなかったので共同で使っていた。石ノ森氏がここに来た当時、彼はまだ18才(石ノ森氏と水野氏は同年)だったので炊事洗濯はできなかった。だから、たまに彼の母親が国からやってきて彼を助けた。そんなとき彼女は、この台所で洗濯し、料理を作った。写真の奥に流しが見えるが、当時彼らは貧乏で、ときには風呂銭にも困ることがよくあった。だから夏場になると、この流しを使って体を洗ったそうだ。
 「青春のトキワ荘」という映画があって、映画にはこの流しも登場していた。しかし、残念ながら「ジャパニーズ・オンリー」なので、みなさんの国では見ることができない。
――映画は、市川準の監督作品で、昭和30年代のムードがじわ~っと漂ってくるような、実に良い映画だった。ただトキワ荘の玄関や階段など、実物とは若干違った形のセットを組んで撮影されている。(レンタルビデオ屋にあります。)

――以上です。ぜひ「スライド・ショー」の写真とあわせてご覧になって下さい。「非常に面白かった」というメールが、米国からも届いております。
 また拙著「トキワ荘制作記」(メイキング・モデル・オブ・ザ・トキワ荘)では、この作品の制作過程における苦労話や、トキワ荘にまつわる物語や、裏話の類も、盛りだくさん執筆いたしましたので、あわせてお読みになってください。当サイト「インフォメーション」のコーナーに掲示してあります。

トキワ荘で仕事中の石ノ森章太郎
昭和31年ごろ
写真提供・石森プロ


2003年6月18日

2003年6月9日

 下記日程で「第五回・東京インターナショナルミニチュアショー」が開催されます。 今回は、急遽拙作も数点展示することになりました。是非お出かけください。

名称――第五回・東京インターナショナルミニチュアショー
場所――浜松町・都立産業貿易センター5F・第二展示室
      東京都港区海岸1-7-8
      (JR浜松町駅北口より右に歩き徒歩5分)
会期――6月14日(土)10:00~17:00
      6月15日(日)11:00~16:00
入場料―前売券(税込): 1日券¥1200 2日共通券¥2000
      当日券(税込): 1日券¥1500 2日共通券¥2500
協賛――日本テディベア協会・日本ドールハウス協会・財団法人東京善意銀行

2003年6月9日

2003年5月27日

 前回のトークスでは、ロゴスギャラリーで開催された私の最初のエキシビジョンについてお話しし(2003年5月19日付け)このとき一点だけアートインボックス作品をつくったと書いた。
 それはパリの街角ではなく、白い壁の「ベランダの情景」だった。
 当日の展を手配した友人がそれを作ったらどうかと、私に提案したからだ。彼は、その少し前に仕事でイタリアに出かけ、ミラノの露天で売っていたという絵はがき3枚をわたしの自宅に送ってよこした。見るとはがきには、ベランダの情景が造形作品として作りこまれた写真が印刷してあって、下段には「ART IN BOX」と書いてあった。あんまりたいした作品ではないと思い、気にもとめないでいると
 「ハガキ見た? あれ、作ったら売れると思うんだ‥‥」
 数日後に当人から電話があった。
 「へえ~ こんなものが売れるのかねぇ~」
 と、私は、半信半疑だったが、せっかくの提案だからと、さっそく似たものを一点だけ作ってみることにした。
 それがこのときの「ベランダの情景」である。

 最近当サイトのスライドショー・アートインボックスのページに、その白いベランダを掲載したので、ぜひご覧になって下さい。フランス語のタイトルは「L’atomosphere dans la veranda」(ベランダのムード)とし、作品の横に配した英文は、本日ここに書いたことの要約だ。
 当時わたしは、模型をつくり始めてまもなくのころだったので、まだ80分の1の作品しか作ったことがなく、ドールハウスというものの存在すら知らなかった。従って、最初のベランダ作品を作り始める前にはいろいろとリサーチをして回り、そういった作品はドールハウスと同一サイズ(縮尺12分の1)で作るべきだと、始めてわかった。だが作品は、友人の予言どおりこのときの展で売れてしまい、気をよくした私は、その直後にまったくおなじ作品をまた作った。それが今回サイトに掲示した「「L’atomosphere dans la veranda」である。(だからこの作品は、私がいちばん最初に作ったアートインボックス作品とおんなじ、ということである。)なぜ直後に、同一の作品をまた作ったのかというと、この年の年末に、こんどと新宿伊勢丹での個展開催予定があったからだ。

 そのとき私は伊勢丹の担当者に対して、急遽20点ほどのアートインボックス作品を制作し、陳列することを約束し、この年の秋、大慌てで大量のアートインボックス制作に着手していた。当時は「パリものをつくる」といったアイデアはまだなく、とりあえず売れてしまった作品のコピーをもう一点だけ作ってみたのだ。また、絵ハガキに写っていた作品は白い壁ではなく、赤い、レンガ色とでもいった色調だったため、他にももう一点、そんな作品も同時に作った。――この作品も、以前より当サイトに掲示中で、「LA VERANDA AUX MURS ROSE」(壁がピンク色のベランダ)という仏題で、白いベランダ作品の直後のページに掲示してある。

 こうして私はまずふたつのアートインボックス作品を作った。
 その後更に追加で2点の小さなベランダを作り、これで計4点のアートインボックス作品が出来あがった。しかし20点制作すると言ったのだから、またまだ数が足りなかった。が、目の前に4点のベランダが出来てしまうと、なんとも趣向にとぼしく、会場ぜんぶをベランダ作品で埋めるのは到底無理と判断した。そうして私はやむ終えず、このときに始めて「パリの情景」を作りはじめることになった。
 そのあとは言語に絶する大奮闘が約二ヶ月間続き、毎日毎日「パリもの」ばっかりを作りつづけた。が、結局20点は作りきれなかった。しかし、お陰様で大小合わせて15点ほどのアートインボックス作品が完成し、曲がりなりにも伊勢丹への約束を果たすことができた。

 もう、なくなってしまったが、当時、新宿伊勢丹・新館8階には「伊勢丹美術館」という大型ギャラリーがあって、ダリやシャガールなど国宝級の美術品を意欲的に開催していることで有名だった。このフロアーには、他にもふたつのギャラリーがあって、8階全体が「伊勢丹・美術フロアー」と呼ばれていた。そのうちのひとつ「ファイン・アートサロン」という会場を使わせていただき、1996年の12月25日~30日という日取りで「模型は美術・芳賀一洋の世界展」という拙展が開催された。
 1996年という年は、新宿駅南側が再開発され、新たに「高島屋・タイムズスクエアー」がオープンした年だ。伊勢丹対高島屋の激烈な商戦がスタートしたばかりのころだった。客足が高島屋に向いてしまうのを少しでも食い止めようとした伊勢丹は「伊勢丹創業110周年記念」と銘打って「コーン・コレクション展」という催しを、かなりのロングランで開催した。
 もちろん「伊勢丹美術館」を使って、である。
 あまり詳しく知らないが、コーン氏(米国人)とは、個人としては世界でも有数の美術コレクターだそうで、会場にはマチス・ピカソ・ゴーギャン・ゴッホ・セザンヌなど、そうそうたる画家たちの、どれもが本邦初公開といった名画美術品がずらっと並んだ。この催しが、確かこの年の夏から始まっていて、最終日が年末だった。だから拙展がスタートした12月25日とは
 「二度と再び見られません、この機会を絶対にお見逃しなく!」
 ということで、ものすごい数の客が、8階の隅々にまであふれていた。拡声器では「一列にお並び下さーい!」が連呼され、延々長蛇の列が遥か3階あたりにまで連なり、「どうか押さないで‥‥」という係員の声が私の会場まで聞こえていた。
 「東京に、こんなに多くの美術愛好家がいたとは‥‥」
 と、私は、ただただ驚くばかりだったが、フロアー全体がまるでラッシュ時刻の駅ホームのような状態なのだ。そして美術館から吐き出された客の群れが、津波のように私の会場を襲い、まるで身動きがつかないほどの大盛況(と言ってよいのか?)という、まれにみる、非常に恐ろしい展覧会状況におちいってしまった。だからこのときの拙展に一体何人の客が詰め掛けたのかは、いまだにわかっていない。
 その翌年、私は調布パルコの特設会場を使わせていただき、「箱の中のパリ」という拙展を開催したが、こちらは入口で入場者数をカウントしていた。それによると、6日間で約7000人の客が訪れた計算だった。だが伊勢丹は、それをも上回っていたと思うので、多分「万」の数を超えていたんじゃないかと思う。
 まあとにかくスゴイ展覧会だった。

 当日の様子は、当サイト「Scenes From Exhibitions」のセクションに最近掲載した。だが撮影は開店直前に行われたため、人は誰も写っていない。また、このときの展に間に合わせるため、いっぺんに大量のアートインボックス作品を制作したことの奮闘は、拙著「続・木造機関庫制作記/雲の上から届いた便り」(これも当サイトに掲示中!)に詳しく記述したので、ぜひ一度お読みになってください。

伊勢丹の「美術催事ご案内」より


2003年5月27日