伊東屋の内部

 前回のトークスでは、かなり集中して「むかしの伊東屋」(創業時の店舗)を作っていると書いた。今は、店の内部(100年前の内部)に取り組んでいて、とりあえずは下の写真のようになっている。これは、もちろん途中段階での「絵」だ。このあとも色々なパーツを付加するつもりではあるが、先週デジカメを持った生徒氏が工房に訪れたので、この段階で、パチリとやってもらった。後日プロ・カメラマンに来てもらっての「ファースト・メイキング・シーン・オブ・ザ・ITO-YA」の撮影も予定していて、そちらは将来「works」のコーナーに掲載しようと考えている。前回「芳賀には趣味がない」と書いたが、もちろん写真もやらぬ。従って拙者は一台のカメラも持っていないのだ。だから写真は、すべて他人まかせである。
 実は、この店の「inside」(店内)に関しては、まったく何の資料もなかったので、仕方がないので、すべて想像(創造)で作った。ただ金銭登録機(レジ)に関してだけは、昨年末に往年の写真を頂戴していたので、その通りに作ってみた。大きな置時計にはアメリカ製のミニチュアを使ったが、利用したのは外枠のみで、中身は全部入れ換えてある。その他、ガラスケースやキャビネットや、壁にある大きな鏡や、細かい文房具など、ほとんどすべてを自作した。写真右上の壁に掛かっている絵も自分で描いた。(ただしフレームはアメリカ製。)
 さいわい私は、以前に洋品店(洋服屋)を経営していたので、店の内部については普通の人よりは若干詳しい。たくさんの店を作ったり壊したりを繰り返してきたからだ。細かいものまでを含めると、その数は、30や50にも及ぶはずである。そしてその都度、店内レイアウトを考えてきたので、今回はそんな経験を生かし、理にかなった店内造作・店内レイアウトを創ったつもりである。

撮影・三宅隆雄


2004年1月13日

あけましておめでとうございます

 クリスマスにテキサスの農場が爆破されることもなかったし、元旦にミサイルが皇居に突っ込むこともなく、意外とおだやかな正月だった。てっきり大事件が勃発するとばかり思っていたが、アルカイダの諸君は一体どうしちゃったのだ。ま、それはともかく、ずっと昔から私はこの時期、特に変わった行動はせず、いたって普段どおりに過ごしている。
 今年の場合は以下のような具合だった。

「2003年12月31日」
 朝の7時からいつもの通り机の前に座り、作りかけ「伊東屋の模型展示物の制作」に取りかかった。そのままわき目も振らず午後8時まで続行。途中一度も外出せず、一度も電話せず、朝から晩まで、ひと言も誰ともしゃべらなかった。作業中はずっとラジオ(NHK第一)を掛けっぱなしにしていたが、特に集中力を要する場面では音を切った。しかし作業を終えた午後の8時以降は、若干のアルコールを補給したり、紅白歌合戦や、曙戦にもひと通り目を通すなど、人並みの行動パターンのあと、深夜の12時ごろに就眠。もちろん大掃除など、一切やっていない。

「2004年1月1日」
 早朝6時から作業を開始し、この日もNHK第一を聴きながらの作業となった。やはり一日中外出はせず、仕事中は、ひとことも誰ともしゃべらなかった。やがて午後5時に妹の一家三人(妹夫婦と彼らの長女絢子さん23歳の3人)が、年始の挨拶に訪れたために、その時点で作業を中断し、我が家のファミリー5人(家内と私と、私の母上82歳と、長男貴行26歳、長女千尋20歳の計5名)と、妹ファミリーの合計8名は、たらちねの母上お手製のおせち料理をつつきながら約3時間歓談した。
――(このときの集合写真は下に掲載した。)
 そして彼らが帰った直後のPM9時ごろ、私は床につき、そのまま寝てしまった。もちろんどこの神社にも行かなかったし、テレビも、ほとんど見なかった。

「2004年1月2日」
 この日は早朝4時から作業を開始し、そのまま午後8時過ぎまで続行し、午後10時に就眠した。日中一回東急ハンズ(池袋店)まで買物に出掛けたが、バイクでサッと行き、ただちに戻って来たので、所要時間は30分ぐらいだったはず。この日もテレビはまったく見ていない。

「2004年1月3日」
 早朝6時から作業を開始し、午後4時まで続ける。4時にはクラフト教室の生徒・田山まゆみさんが打ち合わせのため訪れたので、作業場で約一時間話し合った。彼女には伊東屋の作品に使う「紙もの」(ノートや絵ハガキなど)の制作を依頼しているので、そのための打ち合わせだ。彼女が帰ったあと、ひとりでアルコールを補給しているとヤル気がうせ、午後の7時ごろ、はやばやと就眠してしまう。しかし直後の8時半には目覚めてしまい、仕方なく、再びまた作業を開始する。そのまま深夜の1時まで続行し、午前2時ごろに再度就眠。この日もテレビはまったく見ていない。

 そしてきょう1月4日は、先ほど、朝の5時半から、ずっとパソコンの前に座っている。私のはノート型パソコンだが、それが作業用テーブルのすぐ横に置いてある。本当は一刻も早く伊東屋の続きを始めたいのだが、次は、どうしても丸ノコによる切断が必要で、いま待機しているところなのだ。丸ノコは騒音が伴うので、あんまり早朝だと使えないからである。仕方がないので、いまこのトークスを書いている‥。

 以上までの記述を見ると、たいへん早起きのようにも見えるが、これは、たまたまである。あるとき一回でも早朝まで仕事を続けたりすると、翌日起きるのが遅くなり、その日を境にして一転夜型に転じることもある。要は体力の続く限り仕事をし、眠くなったら寝るというのが就労パターンで、起きる時間は特に定まっていない。そして正月といえども、通常どおりの仕事をこなしていることがおわかりいただけたと思う。私には趣味というものがなく、普段本は読まないし、スポーツをやるという習慣もない。家族でどこかに出掛けることもないので、仕事以外のことは常に一切やらぬのだ。これはずっとそうで、以前商売をやっていたときにも365日、一日たりとも休んだことがなかった。日・祭日も営業したし、12月も、31日まで営業し、そして正月の2日が、たいがい初売りだった。福袋が良く売れた。元旦はそのための準備だから、もちろん休まない。大体からしてその頃は、店を閉めるのが午後の7時や9時といったありさまで、私は9時より早く帰宅することがなかった。だから家族そろっての食卓もなく、そんなことが約20年間続いた。考えれば私のオヤジも商売をやっていたので、元旦の朝以外には家族と一緒の食卓についたことがなかった。その元旦も、夕方にはひとりでどこかへ出掛けていたので、私の父が家族と供に、家で夕飯を取ったことは多分一回もなかったはずである。お陰で代々芳賀家には、家族そろっての食卓や、一家でどこかへ出掛けるといった伝統(習慣)がなく、正月も右へ習え、なのだ。
 と、まあ、本日は、はが・いちようの「いやし系」(どこが?)正月の行動パターンをお伝えしましたが、みなさんの場合はいかがでしたか‥‥。
――本年も、どうぞよろしくお願い申しあげます。

2004年元日の集合写真
I’m wearing a hat in the picture.
撮影・丹羽伸一郎


2004年1月4日

三宅作品のこと

 再放送していたので、ご覧になった方も多いと思う。主演の黒板五郎には田中邦衛が扮していて、彼は北海道・富良野(ふらの)の原野に、都合五つの家を建てるというのが、ドラマの設定だ。
 実は私は、ほんの数ヶ月前まで、この番組については、まったくと言ってよいほど無知だった。しかし事情があって、最近このビデオを大量に見ると同時に、9月には番組の製作スタッフと現地まで視察に出向いた。このとき一緒に私の工作教室の生徒・三宅隆雄氏も同行した。彼はこの番組の熱烈なファンで、以前よりフジテレビの方と懇意にしているからだ。現地には撮影に使ったという幾つかの「黒板家」が、幸いそのまま残っていて、中でも五郎さんが三番目に建てたという家に、三宅氏は異常な興味を持ち、撮影や採寸に長時間取り組んでいた。そうして出来上がったの作品が「黒板家Ⅲ」(下の写真)である。だからこれは私の作品ではなく、三宅隆雄氏の作品である。
 しかし、あんまりにも素晴らしい出来栄えだったので、フジテレビの人がビックリし、うちの社内に展示させてほしいとの申し出があり、いま展示されている。

 場所: ㈱フジテレビ(東京都港区台場2-4-8)24階コリドール
 日時: 2003年12月13日(土) ~ 2004年1月4日(日)
 時間: 通常は10:00~20:00ですが、12月24日(水)は10:00~23:00、12月31(水)は10:00~25:00です。

 下の写真の他にもあとひとつ、五郎さんが最初に作ったという「黒板家Ⅰ」という作品も同時に陳列されているので、お台場方面に出掛ける用事があったら、是非ご覧になってください。

三宅隆雄氏・作品「黒板家Ⅲ」


2003年12月24日

伊東屋のこと

 前々回のトークスでは銀座・伊東屋に拙作の小さな展示コーナーが新設されたことをお知らせしたが(2003年11月4日付け)今回もまた伊東屋に関しての話題である。
 伊東屋とは、言わずと知れた日本一有名な文房具店のことである。創業は明治37年(1904年)6月16日とのことなので、来年(2004年)の6月で、ちょうど創業100年を迎えることになるそうだ。長い歴史である。その100年のあいだ、店を閉鎖していた戦乱のいっときを除き、ずっと「日本の文具店・ナンバーワン」の地位をキープし続けたというのだから、モノスゴイものだと、改めて感じる。したがって来年の6月には、大々的な慶賀の式典が予定されているとのことだが、式には創業当時の店舗を現した模型展示物が一個必要とのことで、少し前から、ぽちぽちと作り始めたところだ。とてつもなく栄誉ある仕事を与えられたものだと、身の引き締まる思いで、慎重の上にも慎重な態度で、制作を開始したところである。

 下に写真を掲載したが、これが創業当時の店舗である。資料はこの写真一枚きりで、今回の私の任務は、下の写真を、雰囲気のある重厚な立体造形物に作り直すという、とても難しそうな仕事である。写真を見ると、複雑な形状の造形看板がすぐに目につき、2階のベランダには独特の模様を組み込んだスチール製の手すりがついているなど、そのどれもが造る者をおびえさせるに十分である。と同時に、大いなる意欲をわかせるにも十分な面構えであるとも言える。
 この美しい店舗を造ったのは伊藤勝太郎(いとう・しょうたろう)という方で、彼は明治8年に、銀座7丁目でお生まれになっている。両親は洋品店(洋服屋)を営んでいたそうだが、文明開化のころの洋服は、正に最先端グッズだったはずである。勝太郎氏は長男だったので、成長すると親の商売を継いで商人となったが、やがて彼は、今度は「洋品小間物」を専門に取り扱う店を、帝国博品館の中に開いた。帝国博品館とは、いまでも銀座7丁目に現存する博品館(現オモチャ屋)の前身だが、当時は2階建ての長屋のような構造をした、今で言うテナントビルのようなものだったらしい。勝太郎氏はその一区画に新しい店を構えたのだが、たまたま隣りが文具店だった。そして、ほどなく文具店は経営危機におちいり、「居ぬきで店舗ごと、買い取ってくれないか‥」とのはなしが、勝太郎の元に舞い込んだ。
 伊東屋100年の、幕開けストーリーである。
 伊藤勝太郎30歳のときのことだった。

 「居ぬきで、ぜんぶ買ってくれ」と言われた勝太郎だが、写真をじっくり眺めればわかるように、どこもかしこも、ぜんぶを作り変えてしまっただろうことが、一目瞭然である。STATIONERY(ステーショナリー)と英文が入った美術的なサインボードや、その上に乗っかったゴシック風・造形看板など、どれもが芸術的で、しかも飛び切りモダンだ。そうとうな気合を入れて造り、また莫大なカネを掛けただろうことが見て取れる。新しい商売に賭けた伊藤氏の気概が伝わってくるようだ。
 そういう訳で、伊東屋の一号店は、現在の場所にあったわけではなく、現・博品館の位置にあったのだ。そして、開店からわずか6年後の明治42年に、今度は銀座3丁目(現・伊東屋のすぐ近所)に引っ越すと同時に、ここに新築3階建てのビル型店舗を建ててしまったのだから、青年社長・伊藤勝太郎氏が、大変な商才の持ち主だったことを認めないわけにはいかない。また当人の姓は伊藤なのに、敢えて「伊東屋」という屋号を掲げるあたりにも、独特の感性を感じる。(もし筆や和紙など、もっぱら和物を中心に取り扱うのなら「伊藤屋」でよいが、西洋の文具にはやっぱり「伊東屋」のほうが似合うような気がする。また、そういうことを考えるというヒラメキに、抜群の才能を感じる。)
 ―以上は「ITO-YA」のウェブサイト http://www.ito-ya.co.jp/ より「伊東屋物語」を読んで、少し勉強しました。

 そして現在、創業者・伊藤勝太郎氏から数えて4代目にあたる方が、現社長・伊藤髙之(いとう・たかゆき)氏である。いかにも老舗の社長といった高貴な風格を漂わせた、ダンディーな紳士であると同時に芸術や音楽にも造詣が深く、若い頃にはチェロを演奏していたとお伺いした。その伊藤4代目社長からのご指名にあずかり、このたびこのような重大な任務を任せられたというわけで、とてもおちおちしてはおれない。実は数ヶ月前より、2階の手すりや造形看板など、特にむずかしそうなパーツについての研究は開始していて、あるものは専門の業者にパーツを依頼したり、またあるものはアメリカから取り寄せたりしながらも、徐々に主要な部品がそろいつつあり、それらをまとめて作品にするという仕事を、恐る恐る、つい最近開始したところである。
 完成は2004年、5月の予定。
 乞うご期待!

「明治37年創業当時の伊東屋」
写真提供・株式会社伊東屋


2003年12月16日

雑誌クイック・ジャパンのこと

 以前3回にわたり、このトークスの欄で、小島素治(こじま・もとはる)という方から届いた手紙を紹介したことがある。(2002年9月9日付、2003年2月16日付、2002年2月28日付けの計3回。)
 小島氏は、1970年代から80年代にかけて雑誌の編集や広告関係の仕事で活躍し、実に重要ないくつかの仕事を残し、それはあの時代に、はっきりと光っていた。だがこの十数年、見事に世間から忘れ去られ、その居所さえも判然としない身の上に変貌していた。しかし、氏の消息を知りたがっている方々も大勢おられると考え、また、大変な苦境に立たされてしまった現在の状況を、微力ながらも世間にアピールし、願わくは再度、氏の仕事と、人間「小島素治」について、人々に語られる日が来たらんことを、切に願った。
 幸い当欄に氏の氏名を掲載したあと、ほどなく数名の方々から問い合わせがあり、彼が創った過去の仕事について、再び語られんとする気配を感じはじめていたとき、ちょうどそんなとき、当サイトによって、やっと氏の消息にたどりついたという雑誌の編集者が現れ、当人に会って取材を敢行し、今般めでたく「クイック・ジャパン」という雑誌において、「Get Back SUB―あるリトルマガジンの魂に捧ぐ―」という特集記事が、しかも連載で、掲載されることになった。
 ――SUBとは、小島氏が約30年前に発行していた雑誌のタイトル名である。
 ついに小島氏とその仕事が、再び世間の脚光を浴びようとしている。
 記事の内容に付いては、あえてここでは触れぬが、中身の濃い、非常に上質なパラグラフに仕上がっている。このサイトからの引用も多い。ぜひ雑誌を買って、お読みになってください。
 11月15日発売の「Quick Japan」誌・第51号、㈱大田出版/刊行(03-3359-6281)です。雑誌は一般の書店にてお買い求めになれます。

11月15日発売のクイック・ジャパン誌/第51号


2003年11月19日

2003年11月4日

 「芳賀一洋&渋谷クラフトクラブ作品展」のこと、先日無事に終了いたしました。ご来場たまわりました方々には厚く御礼申し上げます。この催しは来年も開催される予定で、スケジュールについては追って当サイトに掲示いたします。

 さて本日は、このたび銀座「伊東屋」に新設されました小さな芳賀コーナーについてご案内させていただきます。
 われわれの展が開催されている最中の10月29日の夕刻7時に、わたしは小さな作品10数点を、有楽町の会場からは目と鼻の先に位置する伊東屋(松屋の隣)へと運び、二階の階段を上がってすぐのショーケースの中に陳列いたしました。よって翌30日より、ここに私の小さなコーナーがお目見えすることになったのです。幅25センチ・長さ60センチ程度のガラスの棚4枚というスペースですが、なにしろ非常に良い場所なので、大変に喜んでいる次第です。
 銀座にお出掛けの折には是非ご覧になってください。
 場所は、銀座・伊東屋(中央区銀座2-7-15 電話03-3561-8311)本館2階(中2階ではありません)の階段を昇ってすぐの右側です。

銀座「伊東屋」本館2階
撮影・丹羽伸一郎


2003年11月4日

下記日程でエキシビジョンのお知らせがあります

 名称: 芳賀一洋&渋谷クラフトクラブ作品展
 場所: 東京交通会館(JR有楽町駅前)
 電話: 03-3215-7933(直通)
 日程: 2003年10月26日(日)~11月1日(土)
 時間: 午前11時~午後7時 (初日のみ13時開場)

 渋谷クラフトクラブとは、現在わたしが講師をつとめている工作教室の生徒(生徒OBも含む)諸氏の全体名称です。彼らは毎年一回作品展を開催していて、今年で四回目になります。今回は私(芳賀)の作品も含めて、かなり広い会場を使って開催いたしますので、是非ご来場ください。
 芳賀は、大体会場にいます。

当日の様子
撮影・佐藤紀幸


2003年10月16日