ミニチュアコレクター

 7月23日付けのこの欄で「ドールハウスミニチュア」(Dollhouse Miniature)という米国の雑誌で私の作品が取り上げられたことをお伝えした。そして今回は「ミニチュアコレクター」(Miniature Collector)という雑誌についてお伝えしたい。
 米国では現在、上記2誌を含めて計4誌程度のミニチュア系マガジンが発行されているらしい。中でもドールハウスミニチュアはビギナー向けの記事が多く、比較的初心者向きの雑誌といえる。対してミニチュアコレクターは上級者向きの雑誌で、私の知る限り米国ではもっともクオリティーが高い。この雑誌で最初に私の作品が取り上げられたのは2000年の春、シカゴのミニチュアショーに参加したときのことだった。2日目の夕刻、客がまばらになったころを見計らったように、ツカツカと大柄な女性が私のブースにやってきた。真っ黒なパンタロンスーツに身を包んだ彼女は、陳列してあった「サウンドオブサイレンス」という題の拙作を威厳十分な態度で指差し、「ちょっと貸してくれ」と言って、どこかに持っていってしまった。
「一体なんだろう?」
と思っていたら、それがミニチュアコレクターのひとだった。
 数ヵ月後、片面1ページを使って私の作品を紹介してくれた。
 その後、去年ニューヨークのショーに参加したときにも、やはり彼らは私の作品を気に入ってくれて、このときは確か2回にわたり数点の拙作を取り上げてくれた。彼らは私に対しては常に結構親切なのである。そして今回、2004年の7月号と11月号の二度にわたり、ふたたび私の作品を取り上げてくれた。そこまではいいのだが、自分の作品が掲載された雑誌を入手するのには毎回苦労している。日本なら掲載誌は必ず雑誌社から一冊タダで送ってくれる。しかし外国の雑誌社はヨーロッパも含めてそういう習慣がないらしく、だいたいからして掲載されたのかどうかさえもわからないというのが現状である。(あるいは私が日本在住だから連絡してくれないのか?)今回の11月号のときも、拙作が掲載されているという情報はアメリカの友人(ルーシー・マローニー)さんから聞き、はじめて「え、そうなの?」という具合だった。掲載されたと聞けば見たいのが人情。とりあえず私は国内のミニチュア屋での取り扱いがないかどうかを尋ねてみた。しかし「扱っていない」という返事だった。しょうがないのでルーシーさんに頼んだところ、先日エアメールで送ってくれた。
 下に写真を掲載したが、写真に見える見開きページの裏側にもいくつかの作品がとりあげられていて、計3ページにわたっての扱いだったので、なかなか悪くないと思う。
 しかし問題がひとつあって、私のサイトアドレスが掲載されていなかった。もちろんエディターに対しては毎回そのことをお願いしているのだが、彼らは一回も私のサイトアドレスを掲載してくれたことがないのだ。不思議に思ってルーシーさんに尋ねてみた。
 「なにかの決まりがあって、サイトのアドレスは掲載できないのでしょうか?」
 彼女は、ただちに返事をくれた。
 「すでに編集者に対しては問い合わせのメールを打ちましたので、なんらかの返事があればお知らせします。しかし最近あなたの名前はこちらで良く知られています。またこちらのインターネットでは、ICHIYOHの名前からあなたのウェブサイトを探すことも簡単に出来ますので、心配することはありません‥‥」
 ま、そんな趣旨の返事があり、お説のようにあんまり心配しないことにした。

 いまのところ日本ではミニチュア系の雑誌は一誌も発行されておらず、仕方がないのでせいぜい米国の雑誌で点数を稼いでいるわけだが、お陰でこのごろ少しずつ知名度がでてきたようで、大変に喜んでいる。

ミニチュアコレクター誌より
2004年11月号


2004年11月12日

ジョンとキャロル

 ことしの8月ごろ、東京在住の米国人・ジョン・ロブソン(John Robson)氏から一通の英文メールを受け取った。
「この秋に私の母が東京を訪れます。彼女はあなたのファンです。どこかであなたの作品を見られる場所がありますか?あなたのサイトをチェックし、エキシビジヨンの項目を見ましたが、来年の1月までは展覧会がないようなのですが‥」
 当時は「ドールガーデン」での展示は予定しておらず、仕方がないので
「もしよろしければ、わたしの工房にご案内することができますが、いかがでしようか‥‥」
と、お答えした。
 結局、ジョンの母親は10月の21日に来日し、11月5日まで日本に滞在する予定となった。しかし10月24日からは京都旅行にでかけるため、できれば10月23日に工房を拝見したいと言ってきた。そうして当日の午後3時、ジョンと彼の母親キャロル(Carole)が私のおんぼろ工房にやってきた。この日は土曜日だったので運良く(か、どうかはわからぬが‥)私の工作教室が開催されていた。またこの日は、アメリカからの来客のほかにも2名の見物人がいらっしゃり、それでなくとも狭苦しい作業場には来客を含めて計10名ものおとながひしめくこととなり、ちょっとしたカルチャーショックを与えてしまったかもしれぬと考え、かなり心配になった。でも私のメイキング・パフォーマンスなどを見ることができたので、それなりに喜んでいただけたのではないか。
 びっくりしたことに、ジョンはアメリカ大使館員で、しかも米軍関係の部署のチーフをしているとのこと。あまりにもグレートすぎる肩書きに対しては、わたしの工房があんまりにもおんぼろすぎるので、最初は若干たじろいた。だがしょうがない。ひるんだ様子は極力顔に出さぬことにした。
 彼は東京に来てから3年になるそうだ。そのまえは韓国に6年間駐在していたとのことで、米大使館員のなかでは「アジア通」としてとおっているそうだ。そして今回、はじめて彼の母親・キャロルが、故郷ミシガンから東京にやってきた。
「どこで、私の名前を知ったのですか?」
と、キャロルさんに尋ねたところ、ドールハウスミニチュアマガジンで知り、東京在住の息子さんに「見たい」というメールを打ったのだそうだ。
 工房見物のあとは、来客のふたりを含めて、私の生徒や家内などとともにJR・駒込駅近くのレストランで一緒に食事をした。しかし、席について30分ほどしたときのこと、われわれはいきなりグラグラっと激しい揺れに襲われた。
 例の新潟県中越地震が発生したのだ。
 ウェーターが「調理用の火はすべて消したのでご心配なく‥」と、真っ青な顔で告げにきた。楽しいはずの国際親善の場が一瞬にしてかなり怖い場面へと変わった。地震など私は慣れっこだが、キャロルさんはさぞかし怖かっただろうと思う。なにしろミシガンでは地震は皆無なのだ。
 一通りの揺れがおさまったころ、ジョンが言った。
「もしこれとおなじものがイランで起こったならば、たちまち大災害へと発展したことだろう。土と石で出来たイランの家は間違いなくすべてが倒壊してしまったはずだ。しかし日本の家は壊れない。」
この話は、当夜同席していた私の生徒・山下健二氏に対して向けられたもので、直前に山下氏を「建築家」として紹介したばかりだったからだ。
 続けてジョンは
「これほどの地震にも耐えうる建物をつくるというのは、あなた方の技術が大変に立派だからです‥」
 山下氏の顔を見つめながら、もちろんジョンは英語でしゃべった。しかし山下氏は発言の意味が飲み込めず、どうにか理解した私からの説明を受けたあと
「サンキュー!」
と、ただひとこと、すっとんきょうな声を発した。
 この、サンキューのお陰で、場にはふたたびまた和やかな空気が戻り、駒込の飲み屋(レストラン?)での国際親善大会は、いたって明るい雰囲気のうちにおひらきとなったのだった。

 以下余談になるが、当日使った飲み屋は6月にナンシー・フローゼス(Nancy Froseth)さんご夫妻がおいでになったときにも使った「かまどか」という店で、まことにうらさびれた駒込の「アゼリア通り商店街」という通りの一角にある。(ナンシーさんは伊東屋のタイルを作った方です。)その日のわれわれは、まず銀座に立ち寄り、その後秋葉原へと移動し、そして最後に駒込にたどり着いたので、歩くのが大のニガ手というナンシーさんのご主人・ケント氏はもうふらふらの状態だった。しかし都合200メートルばかり、どうしてもこの商店街を歩かねばならぬハメにおちいり、「もう一歩も歩きたくない!」というケント氏とともに、私は、この場末感あふるる商店街の夕暮れどきをゆっくりと歩いたことがある。約20メートルほど歩いたときのこと、周囲を見渡しながら、ぼんやりと
「ファンタステック!」
と、独り言を、突然ケント氏がつぶやいた。
 彼は、銀座には、まったく興味がなさそうだった。
 秋葉原も、すぐに帰ろうとした。
 しかし駒込の、雑然とした景観を目の当たりにしたときにはじめて、心からの感動を覚えたようなのだ。それからの彼はいきなり元気になってしまい、「かまどか」も大変に気に入った様子で、店では終始ゴキゲンだった。
 外人(特に白人)に対しては、駒込のような場末も、決して悪いものでもないようだ。多分、そこに「アジア」を感じるのだと思う。

ジョンとキャロル
撮影: 山下健二


2004年11月5日

ドールガーデン

 静岡県の伊豆高原一帯にはたくさんのミュージアムが密集して存在していることをご存知ですか? ドールハウスミュージアム、ねこの博物館、少年少女奇怪グッズ博物館、ガラス工芸品美術館、ロウ人形館、木工クラフト展示館、等々、その数は大小合わせて50軒にものぼるという。
 そんな中のひとつに「ドールガーデン」という、庭と人形のための美しいミュージアムがある。ここには「はとバス」がとまるという情報を、私の生徒のひとりがビックリまなこで知らせてくれた。(本当かどうかはわかりません。)しかし著名な外国人作家による人形や、辻村寿三郎(つじむらじゅさぶろう)、ムットーニ、恋月姫、因間リカ氏など、そうそうたる日本人・人形師たちの手による人形までもが多数陳列されていることに加えて、四季折々の花々が咲き乱れる本格的西洋庭園や、シャレたコーヒーショップ(レストラン)など、すばらしい設備・内容が備わっていることは確かである。
 詳細については下のサイトによってご確認いただきたい。
http://dollgarden.co.jp

 昨日わたしは数点(約10点)の拙作を持参して伊豆高原まで出向き、そのミュージアム「ドールガーデン」のエントランスホールにビシッと陳列してきた。今年の10月から来年の4月までという長期にわたり、こじんまりとした「芳賀作品展」を開催してくださるというはなしがまとまったからだ。
 ――ドールガーデンの鮎川館長ならびに学芸員の吉岡由起子氏に対しては、厚く御礼を申し上げます。

 タイトル: セピア色の風景/芳賀一洋「立体絵画」の世界
 場所: 伊豆高原「トールガーデン」
 住所: 静岡県伊東市八幡野1118-2
 電話: 0557-54-5515
 期間: 2004年10月28日(木)~2005年4月30日(土)
 時間: 9:30~17:30(年中無休)
 アクセス: 電車→伊豆急行「伊豆高原駅」から徒歩20分
      車→国道135号線、伊豆高原駅手前海側(東京方面からの場合)

 かなりの長期にわたる展示なので、そのときどきによって展示の方法や、展示数量などが多少変化するかもしれません。しかし常にある程度の点数は見られるはずです。伊豆方面に行かれることがあれば、ぜひ足を運んでみてください。伊豆は、なにしろ風光明媚なこと申し分なく、ドライブに最適な環境であることはいうまでもありません。

ドールガーデンにて
撮影・渡邊格


2004年10月29日

拙著の宣伝

 教室のほうには最近また数人の新入生が入りましたので、本日は拙著の宣伝をさせていただきます。
 当サイト・インフォメーションのところには10冊程度の拙著がラインアップされておりますが、これらの書籍はご連絡いただければ後日郵送させていただきます。しかし電子書籍本「しぶ~い木造機関庫をつくる」は郵送の必要がなく、ご自分のパソコンにダウンロードすることによってただちに読むことが出来ますので、ぜひお読みになってください。
 630円(消費税込み)です。
 買い方ですが、まずhttp://www.10daysbook.com/にアクセスいただきまして、画面最上段にある検索窓に「しぶ~い木造機関庫をつくる」と記入すれば、本を見つけることが出来ます。あとは画面の指示に従って購入(クレジットカード)すれば、すぐさま自分のパソコンで読むことが出来るのです。当サイトでは見ることが出来ない写真もたくさん入っております。
 本日この書き込みによりまして、せめて5~6名の方々にお買い上げいただければ幸いと思い宣伝をさせていただいた次第です。
 どうぞよろしくお願いいたします。
 余談になりますが、本の表紙(下の写真)は、ときたま当トークスにも登場するグラフィックデザイナーの「ほうとう・ひろし」氏の手によるものです。どうってことのないデザインではありますが、わたしは非常に気に入っております。こういうなんでもないようなもののデザインって意外とむずかしいものなのです。

芳賀一洋・著
「しぶ~い木造機関庫をつくる」


2004年10月19日

クレアーさんとケリーさん

 9月末のこと、オーストラリアからチャーミングなレディーがふたりやってきた。下の写真で金髪の女性がクレアー・ブラク(Claire Brach)さんで、クレアーさんの後ろにいる黒髪の女性がケリー・ケイト(Kelli Cato)さんだ。ふたりはシドニーの南方、車で約40分のところにある町に住んでいるお隣同士で、一緒にミニチュア関係の仕事をしているとのこと。そしてケリーさんは彼女が15歳のころ、交換留学生として大宮に一年間住んでいたことがあるという日本通で、現在シドニーの学校で日本語教師も勤めているそうだ。
 来日の10日ほど前のこと。「月末に日本に行くのですが、東京にあるミニチュアのお店を教えてほしい」という趣旨のひらがなメールが、ケリーさんから届いた。しかしあいにく東京には、これといったミニチュアの店はなく、はるばるお越しいただいても、見せるべきものはなにも思いつかなかった。仕方がないので伊東屋さんに頼んで社長室に展示してある「伊東屋作品」をお見せすることにした。当初は10分程度の見物ができればありがたいと考えて出かけたが、伊藤社長は小一時間にもわたってわれわれの相手してくださり、大変なお世話になってしまった。
 ――御礼を申し上げます。
 そのときまで知らなかったが、社長は実に英語が達者なのである。私の作品についての説明を、直接彼女らに、流暢な英語で語ってくれたのには驚いた。そして帰りには、あるひとつの箱を見せてくださった。それは拙作を収納するために最近伊東屋さんが作ってくれた箱なのだが、あまりにもゴージャスだったので、これまたびっくり。見たとたんクレアーさんは
「まるで銀行の金庫みたい!」
と、叫んだ。まさにそんなカンジだった。かなり高かったんだろうと余計な心配までしてしまうほどの威厳があった。(英文トークスには箱の写真が掲載されています。)(株)伊東屋では10月14日、帝国ホテルにおいて創業100年祭のイベントが計画されているので、拙作をそこまで運ぶための箱なのだろうと思う。
 銀座のあと、来客のお二人には私のおんぼろ工房へもお越しいただき、そのあとは近所のレストランで一緒に食事をした。
「ところで、どこで、私のサイトアドレスを知ったのですか?」
と、お尋ねしたところ、オーストラリアのミニチュア・ファンのあいだではICHIYOHのサイトはポピュラーなので誰でもが知っていると、信じられない答えが返ってきた。またシドニーを発つ前には「今から東京に行ってICHIYOHに会い、作品を見せてもらう」というメールを、彼女のアメリカの友人10名程度に送信したそうだが、アメリカン・ピープルの10人が「それは、スゴイ!」とびっくりしたというのだ。どこまで本当なのかよくわからない。
 まあ、上のはなしはお世辞がほとんどであろうが、それにしても最近はポチポチと海外のファンも増えつつあるよな気がして、嬉しい限りの一日だった。これもひとえに当サイトを作ってくれて、おまけに管理までやってくれている優秀なるウェブマスター氏のお陰と思い、心より感謝を申し上げる次第です。

クレアーさんとケリーさん


2004年10月7日

伊東屋の写真掲載!

 今年の春、文具店「伊東屋」のミニチュア作品をつくったというはなしは再三にわたってこのコーナーでお伝えしてきた。しかし作品の写真については長らくお待たせしていた。しかしつい最近、「Works」のコーナーにたくさんの写真をアップすることができたので、あとでぜひチェックしてほしい。しかしスライドショーでの説明はいまのところ英語オンリーなので、下にその和訳を掲載することにした。日本語とすればちょっとヘンなのだが、ご勘弁いただきたい。

Special Model ITO-YA
2004年、私は古い文房具店をつくった

「2004年の伊東屋」
伊東屋は、わが国ではたいへんに良く知られた文房具店である。この店の原稿用紙は非常に優れているので、日本における偉大な作家たちからも長く愛されてきた。
開店は1904年、今からちょうど100年前(1904年)で場所は銀座だった。銀座は東京の中心で、伊東屋本店は現在にいたるまでずっと銀座にある。

「1904年の伊東屋」
この写真は開店当時の伊東屋を写したものだ。2004年に開催する同店の開店百年祭のイベントに陳列するために、この写真を模型化することを求められた私は、2003年の10月よりその準備にとりかかった。そして同年の12月20日から本格的に制作をはじめた。

「完成」
そして2004年の4月20日にはほとんど完成した。ちょうど桜の花が満開のころのことだった。

「看板」
看板の文字は:上段/店の名前(漢字で伊東屋と書いてある)。中段/和漢洋文房具、和洋諸帳簿、学校用品類、電話新橋2616番(新橋は東京の地名)。
ところで「ITO-YA」だが、”ITO”とはこの店のオーナーの姓で、”YA”とは、日本語で”店”という意味である。

「メイキング伊東屋」
当初担当者から古いモノクロの写真を一枚いただいたが、写真からは店内の様子は一切うかがい知ることができなかった。私は非常に困ったが、この店の現社長である伊藤高之(いとう・たかゆき)氏は「店内はあなたの創造力(想像力)で作ってください‥」とおっしゃり、そうするしかなかった。

「メイキング伊東屋」
なにしろ伊東屋は文具店なので、おびただしい量の文房具が必要だった。当初わたしはトムビショップ氏のミニチュアショーやインターネットなどを使って、世界中からミニチュア文具を調達するつもりだった。しかし私が求めているようなものは見つからず、結局ほとんどすべての文房具を自分で作ることになった。いくつかのショーケースや、万年筆やインク瓶、絵の具のチューブや画筆、パレットナイフに画材カバン、金銭登録機にいたるまで、すべて木や金属で自作した。

「人力車」
当時は非常に忙しかったので、人力車の製作は私の生徒・佐野匡司郎(さの・きょうしろう)氏にお任せしたが、彼は真鍮でそれを作ってくれた。また別の生徒・田山まゆみさんにはノートや絵葉書といった「紙もの」を大量につくっていただいた。そして店の入り口に貼ってあるタイルは、米国のナンシー・フローゼスさんに特注した。彼女は「トム・ビショップショー」のディーラーのひとりである。

「色」
制作においてもっとも難しかったのは色である。特に看板の字の色が難しかった。最初私は濃いグリーンのオイルステインで着色し、あとでほんの少しの赤を加えた。以上はオイルステインでの着色だったが、更にその上に、今度は油絵の具で、少量のゴールド(金)を加えて仕上げた。色は、ディティールよりも遥かに重要だとおもう。それと、全体のかたち(フレームやベースなど)も非常に重要である。

「ミュージック」
ひとつ仕掛けがある。ショーケースの後ろに小さなスピーカーを2個取りつけてあるので、店の内部から音楽が流れてくる仕組みなのだ。聞こえてくるのは古い日本の曲だが、お聞かせすることができないのが残念である。

「伊東屋ギャラリーにて」
2004年の4月に作品は完成したが、社長(伊東屋の伊藤高之社長)が気に入るかどうかが心配だった。幸いたいへん気に入ってくださり、さっそく作品は「あの時代の文房具」というイベント会場の入り口に展示されることになった。このイベントは伊東屋百年祭の催しのひとつで、2004年の6月に伊東屋ギャラリーで開催された。そして作品は現在、伊東屋の社長室に飾られている。

「最終ページ」
以上が伊東屋作品についてのはなしだった。
そのあと、この作品の製作技法を、生徒のみなさんに指導するため、もう一つ別の文房具店(伊東屋に良く似た文房具店)を作り始めたところである。完成は2005年の年末ごろになると思うが、出来上がったらお見せするつもりだ。

 以上がスライドショーのページにある英文の翻訳である。
 ところで私は、自分では一切写真を撮らないし一台のカメラも持っていない。だから出来上がった作品はいつも知り合いのカメラマンに撮ってもらっている。現在5人のカメラマンがいるが、伊東屋はそのうちの3人、神尾幸一、佐藤紀幸、伊藤誠一の各氏に撮影してもらった。
 以下、彼らの紹介。

 神尾幸一(かみお・こういち)
 神尾氏は私の友人のひとりで、プロ・カメラマンである。若いころはファッションカメラマンをやっていたこともあったそうだが、現在は物撮り(ブツドリ)が主で、普段はシチズン(時計)のカタログ写真等の撮影に多くの時間を使っている。そのせいかディティールを撮ると実にセンスが良い。
 氏は吉田大朋(よしだ・だいほう)というわが国の写真界においては草分け的存在の写真家の正式な弟子の一人として師事したことがあるそうだ。現在彼は独身だが、アメリカのコーネル大学に通っているチャーミングな息子さんがひとり居て、ご子息(神尾大悟・かみおだいご君)は、ニューヨーク州の北方に位置する「Ithaca」(イサカ)という町に住んでいる。

 佐藤紀幸(さとう・のりゆき)
 佐藤氏もプロ・カメラマンである。若いが売れっ子で、普段は全日空やモスバーガーといった企業のコマーシャルフォトを撮っている。もう5~6年前のこと、京王プラザホテルで開催した拙展会場に偶然やってきた彼は拙作をたいへん気に入ってくれ、「ぜひ写真を撮らせてほしい」と申し出た。じゃあ、ということで撮ってもらうと、すばらしい出来栄えだったので驚いた。このときの写真「風に吹かれて」や「日本軽石興業」は、某写真コンテストにおいて見事「銀賞」を受賞したのだが、それら受賞写真のいくつかは私のパンフレットや当サイトにも使わせていただいている。www.satofoto.net

 伊藤誠一(いとう・せいいち)
 伊藤氏はプロではないが、ミニチュアの写真を撮らせるとスゴイ。数年前、彼はいっとき私の教室の生徒だったこともあったが、現在鉄道模型のプロモデラーである。と同時に、その分野ではちょっとした有名人でもある。そんなことから伊藤君に模型の写真を撮らせると玄人はだしの腕前なのだ。若干ラフで、多少茶色すぎる写真なのだがパワフルで、独特のオーラが感じられる写真を撮る。
 上の3人には改めて御礼を申し上げます。彼らの尽力なくして伊東屋のウェブページは決して作れませんでした。

写真家・神尾幸一


2004年9月17日

オリンピックとクラブ旅行との関係

 昨今、スポーツがたいへんな盛り上がりを見せているという事情は理解している。また私は高校のころテニス部に所属していたこともあったのだが、子供のころから運動(スポーツ)の類は、どうも好きにはなれなかった。運動会にもまったく興味がなく、その日になるといつもずる休みを繰り返していた記憶がある。従ってオリンピック中継なども、どこがおもしろいのか意味がわからず、若いころはほとんど見なかった。
 先日、ちょうどアテネオリンピックの最中に、私の教室の生徒数人と歓談する機会があったが、みなさん興味ナシといった風情で、我が意を得たりと思ったものだ。だいたいからして模型をやる方々は、なにしろオタクと呼ばれる方々ばっかりなので、たいがいはアンチ・スポーツ派なものだ。私の推察によると当クラフトクラブに所属するみなさんのうちほぼ全員がそうだと思われる。つまり体育会系のひとたちは、はじめっから模型などやらないのである。もちろん何事にも例外はあるが、模型を作ったり、絵を描いたり、作曲をしたり、小説を書いたりといった仕事には、非・体育会系キャラのほうが明らかに向いているようである。
 かく言う私ではあるが、オリンピックについてはたったひとつだけ自慢がある。どうして私がそこに行ったのかが不可解だが、私は代々木のオリンピックスタジアムにおいて東京オリンピックの女子陸上を、ライブで見物しているのだ。私の席は聖火側の中段に位置していたので、振り返って仰ぎ見ると、すぐ近くにオレンジ色の炎がめらめらと揺れているのが見えた。秋晴れの空に映える聖火と、鮮やかなレンガ色のフィールド、スタンドを埋め尽くしていた大観衆7万人(多分)のどよめきなど、まことに非日常的な体験だったので、いまでも強烈な印象として残っている。しかしそれとて学校から無理やり行けと強制されて、多分数名の生徒がいやいや出かけて行ったんじゃないかと‥‥いま考えれば、そんな気もするのだ。
 ま、そんなわけで、アテネオリンピックが最終盤を迎えていた8月28日(土)と29日(日)の両日、我がクラフトクラブでは「オリンピックとはなんの関係もない」小旅行に出かけ、男子マラソンも閉会式も見物せずに、ただのドンチャン騒ぎに興じていたのである。長時間にわたるアルコール摂取には若干の疲れを感じるようになっていた私は、今回は不参加だったが、特にドーピングの検査などがあるわけでもなく、みなさんすこぶるゴキゲンだったとの報告を、さっき受けたところだ。
 ――このたびの「オリンピックとはなんの関係もない」アルコール摂取競技へのエントリーメンバーは以下の方々でした。

 稲葉美智子
 牧野幸文
 中村幸司
 坂田真一
 赤松義彦
 伊藤昭亜
 坂井恵理
 渡邉格
 三宅隆雄

 そしてメダル獲得者は、多分上記名簿における上位3名の方々であったと推定されるが、ひょっとすると坂井恵理氏あたりがかなり上位に食い込んでいたのかも知れない。
 下に写真を一枚掲載したが、当日は折からの台風16号の接近によって、あいにくの雨だったため、まじめな集合写真を撮るチャンスを逸し、残念ながら競技中の写真のみしか残っていないとのことだった。
 写っていない方々にはお詫び申し上げます。

第四回・渋谷クラフトクラブ・クラブ旅行
静岡県伊東市の宿泊施設「マリンウッドの冒険」にて
写真手前が坂井恵理選手


2004年8月31日