東屋(あづまや)のこと

 現在このウェブサイトの表紙に使っている写真は、去年の春、伊東屋を作っていたときのものだ。この写真のあと、作品は2004年5月には完成し、当サイト「ワークス」のセクションでたくさんの完成写真を見ることができる。そしてそのあと実はもうひとつ、これと非常によく似た作品を作り始めている。本編(伊東屋)制作のために調達したパーツがいくらか余っていたことに加えて、せっかく覚えたいくつかの新技術を一回ぽっきりで封印してしまうのはもったいないと思ったからだ。そんな事情から再び作ることにしたのだが、もう一回作るのならばと、今回は私の工作教室の課題として取り上げることにし、「スモール伊東屋」(本編よりは一回り小さいという意味)みたいなものを目指している。しかしなにぶんひとつ一つの作り方を説明しながら、しかも生徒さんたちの制作進度とあわせながらの仕事なので、どうしてもスピードが遅くなる。はじめたのは去年の夏のことだったが、それでも最近やっとかたちになってきた。下の写真を見てほしい。もちろんまだまだ未完成だが、オリジナル(伊東屋)と非常によく似ていると感じられることだろう。そして本編を製作中だったころの写真(表紙写真)と比べると一歩完成に近づいていることをご確認いだきたい。
 あまりにも本編(伊東屋)に似ているために、このたびのスモールバージョン製作に先立っては、趣旨を説明して、伊東屋の伊藤高之社長には「似たものをもうひとつ作ってもよろしいでしょうか?」と問い合わせて許可を得た。そして(言われたわけではないが)「伊東屋」という名前は使わないこととし、いまのところ「東屋」(あづまや)という屋号を考えている。
 おかげさまで一番やっかいな室内(店内)は大方終了し、そろそろ全体形状に取り掛かろうというところまできている。これからがおもしろいところなので私はやる気満々。やっと興に乗ってきた。ただこの作品は、生徒さんたちにとっては少々むずかしいので、一体何人の方々が完成までこぎつけることができるのかと心配している。
 いずれにしても年末までには間違いなく完成する予定だ。できるだけ小さな作品に仕上げて、完成した暁にはアメリカまで持って行き、あっちのミニチュアファンにもお見せしようかと考えているところである。

東屋(あづまや)


2005年5月10日

作品展終了のこと

 昨年の10月28日から伊豆高原ドールガーデンで開催していた「セピア色の風景・芳賀一洋/立体絵画の世界」が先日(4月30日に)無事終了した。期間中ご来場いただいた方々には厚く御礼申し上げたい。
 5月8日、撤収のためトラックで伊豆高原まで出向き、作品を回収してきたわけであるが、当日の写真が一枚ほしいと思い、お世話になった担当者に、一緒に写真を撮りましょうよ‥と持ちかけた。
 すると
「え~!わたし‥写真は、ニガ手なの‥」
と言ったきり、彼女は突然どこかに消えてしまったのだった。あれ?っと、少しメゲていると、しばらくすると猫のかたちをした仮面を携えて戻ってきた。そんなわけで、下の写真で仮面をかぶっているヤングレディーが、このミュージアムの学芸員吉岡由起子さんである。仮面の吉岡さんをはじめ、鮎川寿枝館長にもすっかりお世話になってしまった。改めて御礼を申し上げたい。

撮影・杉山武司
ドールガーデンのカフェテラスにて


2005年5月9日

お花見のこと

 去る4月10日(日)、われわれクラフトクラブの有志10余名は中央線武蔵小金井駅近郊に位置する桜の名所「小金井公園」まで繰り出してひとときのお花見を楽しんだ。当日はさわやかな好天に恵まれ、公園全体を埋め尽くした何百何千というシートの上では家族連れやカップルたちがまことに平和で健康的な宴を繰り広げていた。
 午前11時、私の乗ったバスが公園西門前に到着すると、若手クラブ員のひとりである渡邉格(わたなべいたる)氏が迎えにきていた。それから門をくぐり、歩いて5分ほどのところに陣取った青いシートまで案内してくれた。聞くと場所取り班は午前9時前には公園に到着し、しかるべき地べたをゲットしたとのこと。シートの上ではすでに数名の有志が意外と上品に酒を飲んでいて、ドンちゃん騒ぎをしている風でもなかったので一安心。あいにく私は所用があったため午後4時まで同席し帰宅したが、ほかの皆さんはその後近所の居酒屋に場所を変え午後10時まで飲み続けたという。
 ――以下参加メンバー。

 小川美樹
 稲葉美智子
 佐野匡司郎
 牧野幸文
 砂田麻美
 中村幸司
 三宅孝雄
 渡邉格
 坂井恵理
 迎宇宙
 高谷俊昭
 坂田真一
 芳賀一洋

 実をいうと私は若いころ、桜というものをあんまり好きではなかった。あのけばけばしいピンク色を下品だと感じ、どうしてもなじめなかった。それは特攻隊のイメージとも重なった。あるいは桜吹雪舞い落ちる三波春夫の歌謡舞台や、地方の商店街の軒先などに連なっている造花とも重なって、それら桜の花にまつわるイメージは概してやぼったくて古臭くて安っぽくて、どうも好きにはなれなかったのだ。そういう御仁も案外多いのではなかろうか。ところが50才を過ぎたころのこと、あるうららかに晴れわたった春の日を突然に、とてつもなくいとおしいものに感じた一瞬があって、そのとき以降急に気が変わり、桜に対する嫌悪感がいっぺんに吹き飛んでしまった。まあ年のせいだろうと思う。ちょうどそのころを境にして若いころには見向きもしなかった水戸黄門の如き時代劇もすんなり受け入れられるようになったので、これはいわゆるお年寄りの仲間入りを果たしたということなのかと、静かに愁(うれい)ている今日この頃である。

撮影:渡邉 格


2005年4月16日

「金子辰也のJUNK BOX」より

 金子辰也(かねこ・たつや)という方が「石の家」の石積み部分(石壁)を作ったということは2004年12月14日付の、このトークスでも一度お伝えしたことがあった。氏はテレビチャンピョンなどでもおなじみの大御所プロモデラーである。また月刊アーマーモデリング誌上において「金子辰也のJUNK BOX」というコラムを毎月執筆していて、その2005年3月号の誌上で、今般の制作にご協力くださったことの経緯や心情がつづられていた。文中わたしのことが過剰にホメ上げて記載してあり、こそばゆい限りだが、石壁部分制作に関してのことがらを作者本人が語った貴重な一文と考え、本日はそのコラムの全文をここに掲載することにした。掲載をご許可いただいたアーマーモデリング誌と金子辰也氏に対しては、こころより御礼を申し上げたい。
 以下、アーマーモデリング誌・第65号「金子辰也のJUNK BOX」 第65回より。

タイトル「石の家」

■はじめに
 ひょんな事から昨年秋頃より今年の正月明けまで高名な模型作家である芳賀一洋さん(ネット環境があれば、素晴らしい作品画像や日記などが掲載されている芳賀さんの下記サイトをぜひ御覧戴きたい)のお手伝いをさせて戴いていた。まあ、ミリタリー模型とは少し違うような、でも情景模型としては非常に近いような、同じような・・・。まあ、どっちでも良い事だけど少なくとも同じ模型を造り愛する人間として、人生の先輩として芳賀さんを通して今回いろいろ多くの事を感じ共感し考えさせられた。と、言う訳で今回はそんな出合いと、お手伝い製作記を。

■或日突然
 で、僕が何を手伝っていたかと言うとほぼ三ヶ月あまり〈石=STONES〉と格闘していたのである。事の始まりは、共通の知人を通じての依頼であった。
 その前に、そもそも僕は以前より芳賀さんの作品にはとても魅力を感じ引かれていた。エキゾチックな香りに包まれた額縁入半立体の戦後間もないパリの街角シリーズや、1/80スケールで統一され、モノトーンに色彩をコントロールされたまるで現代の枯れ山水のような情景。さびれた鉄道施設や廃屋の様な建物と情景としての構築物。そこには、我々がいつのまにか何処かに忘れてしまった闇の部分に潜む恐れや、敬い、感謝のようなモノを私は感じてしまう。そんな、芳賀さんは以前ファッション界に居た事も在り一見西欧的なダンディーでお洒落な人物だが、実はとても東洋的であり日本人的な、独特の世界観を持った希有な存在の模型作家であると思う。
 僕が一方的に出会った最初は、あまり記憶が定かではないがアート系の模型誌だったかもしれない。ただ、その後決定的に衝撃だったのは現在石巻市にある故石ノ森章太郎氏の博物館に展示されているマンガ家の聖地トキワ荘1/15の模型だ。新聞に掲載されたたった一枚の完成写真だけだったけど、その空気間・存在感に衝撃を受けたことを今でも覚えている。また、その前後だったか東京銀座伊東屋のギャラリーにて個展を開かれた時にも駆け付け、数々の作品を目にしている。しかもミーハーなことにその場で著書を購入し、たまたま会場にいらした芳賀さんにサインをしてもらったりと、けっこう気持ち的には追っかけの真似事をしていた自称隠れファンである。その後、秋葉原のイエローサブマリンや銀座伊東屋に作品の一部が展示されているので本誌読者も各店を訪れた際に一度は目にしている事と思う。現在も多くのお弟子さんを育て慕われつつ作品造りをされている。最近は海外のミニチュア専門誌に何度か紹介されたり、外国からファンがわざわざ訪ねて来たりと国内での評価以上に海外での評価が高まりつつある。
 で、話を戻して先ほどの続きをすると、その知人からの電話は『芳賀一洋さんと言う模型作家の方が、フジテレビより〈北の国から〉に出てくる〈石の家〉の模型製作を受けているのだけど・・・。図面が遅れていて、そろそろ納期も心配らしく。そこで、その〈石の家〉の石部分を誰か造ってくれる人を探していて・・・。で、やってくれない・・・。』と、突然の話し。もちろん私はそう言った訳で驚きながらもひとつ返事で訳も分らずオーケーを出してしまった。

■気持ちがカタチを作る
 そして、それからが大変ではあったが今考えれば実に良い経験と出合いをさせてもらったものだと思う。そこで、早速その知人を通じて僕をあらためて芳賀さんに紹介してもらい憧れの御対面。その後は役得で芳賀さんの都内某所のアトリエに何度か通いながら芳賀さんの人となりに接する事となる。
 まず製作方法等については僕に一任されたものの最初に始めた作業は、出来上がった縮尺1/15の何枚もの大きな図面を元に建物全体像の把握と基本構造及び石積み部分の製作方法の検討。そして平行して、頂いた現地写真から一個づつ大きさも形も違う石積みパターンを図面へ描き起こす作業であった。特に、当時スタッフ総出で河原の石を集め、ひとつづつコツコツと積み上げたこの石壁は、ドラマ原作者の倉本聰さんはじめ美術監督及びスタッフの方々の思いが強く、作業を進めながらも芳賀さんからその辺りのいきさつを聞くにつれだんだんとプレッシャーが増大していった。お陰で、当初何とかなるだろうとお気楽に考えていた石積み壁の製作については結局その後数々の試行錯誤をくり返しながら、テストや材料、方法を何度も検討し約一ヶ月半後やっと理想の素材と方法論に辿り着く。出来上がったテストピースにも芳賀さんからOKが出る。それから本番用の石の壁と石の煙突その他石・石・石を造り続け、結局三千個以上の石を正月明けの4日までに無事造り終える事が出来た。芳賀さんには当初の予定を大幅に遅れたにもかかわらず、過分なお誉めの言葉を戴き今までの緊張感と重圧が一気に報われた思いであった。その後、少しだけ合間を見つけてお手伝いに伺った正月明けの頃。アトリエでちいさな明かりの入った完成間近なこの〈石の家〉を前にしながら芳賀さんと遅くまで飲みかわした至福の夜の事は多分一生の思い出となる事だろう。
 実は、今回芳賀さんのアトリエにおじゃまさせて戴く事になり、ひとつ驚いたり感心したりした事があった。それは、芳賀さんが以以前トキワ荘を作る際、習作として作られたタイニーハウス(小さな家)と言う作品があるのだがその入り口にヤカンがひとつ放り置かれているのだが、見るからに真鍮などの金属製と思われてっきり旋盤で加工されたものと思っていた。そこで、アトリエに初めて伺った時に辺りを見回したのだが旋盤らしきものは皆無。恐る恐るその事を訪ねてみたら、旋盤の事は考えたが使い方を修得する時間が惜しく、ヤスリでガリガリ削って作ってしまったとの事・・・。正直絶句。返す言葉も見つからなかったが、その時モノがカタチになる本質を教えられたような気がしてしまった。

■さいごに
 重圧や苦労も多くあったが、あらためてモノ造りと言う意味で貴重な経験であった。現在、その完成した〈石の家〉は芳賀一洋氏最新作として現在お台場のフジTVにて一般公開を待っている。機会があればこれも模型のひとつの頂点として御覧頂ければ幸いである。

アーマーモデリング誌・第65号
発行・大日本絵画


2005年3月23日

“デイビッドのこと”

 もうかれこれ一年近く前のこと。アメリカのナッシュビルに在住のデイビッド・マルコルム・ローズ(David Malcolm Rose)というミニチュア作家から
「友人からあなたのウェブサイトを薦められ、作品を拝見いたしましたが、どれも本当にすばらしい!私もミニチュアを作っていますが、あなたの作品とテイストが似ていると思います‥」
という、最初のEメールを受け取った。
 文末には彼のウェブ・アドレスが掲載されていたので、さっそく開いてみて驚いた。デイビッドの作品こそ、すばらしいではないか。そして確かに作風が若干似ているかも知れないと感じたものだ。
 その後、いっしょにエキシビションをやりませんか‥‥というお誘いや、あなたのウェブ・アドレスを、私のサイトのリンク・リストに加えても良いですか‥‥など、たまに彼からのメールが来るようになり、そのつど短い返事を書いて送った。デイビットと私は同い年である。だからというわけではないが、何か非常に好意的な印象を受けるとともに、だんだんと一度お会いしたいような気持ちにもなってきた。スタジオを一度拝見したいという気持ちもあるし、もちろん作品も見てみたい。
 そこで先日
 「もしナッシュビルに行けば、あなたの作品と、あなたのスタジオを拝見することができますか?」
というメールを、思い切って打ってみた。
 これはニューヨークに出かける二週間ほど前のことで、もし大歓迎という返事ならば、ついでにナッシュビルまで足を伸ばすのも悪くないと考えてのことだ。(ニューヨーク行きについては2005年3月2日付けトークスにも記載があります。)
 これに対するデイビッドからの返事は私の予想を超えていた。
 「一年半ほど以前のことになりますが、当時私は54歳で、人生で始めて、男の子のパパになりました。それ以来わたしの環境は激変し、ここ数年、ミニチュアはまったく作れておりません。出来るだけはやく仕事を再開したいと考えていますが、今はまだスタジオの準備がととのっておりません。しかしこちらの棚には私が過去に作った作品のすべてが収納されています。ですからあなたが将来ナッシュビルに来れば、もちろん私の作品と、私の息子と、私の家内に会うことができます‥」
 上のメールにはよちよち歩きの男の子が冷蔵庫の扉を開けている写真が一枚添付されていて、写真の下には「エイデン」(Aiden)とあったので、多分子供の名前だろうと思った。文章はなにぶん英語なので、微妙なニュアンスまでを把握することはできなかったが、全体的には「お取り込み中」といった雰囲気が伝わってきて、押しかけたら申し訳ないようなムードが感じられた。そんな訳で、結局デイビッドのところには立ち寄らずにニューヨークから帰ると
 「私の家内が手伝ってくれたお陰で、つい最近私のウェブサイトをすっかりリフォームすることができました。表紙にあるロスト・ハイウェイのポスターは家内が作ってくれたものです‥」
のような内容のメールが、ちょうど届いていた。
 かなりのアツアツムードが漂ってくる。それと同時に、このメールには、「みんなで私のウェブサイトを見てください‥」の意味が込められていると思い、本日はデイビッド・マルコルム・ローズのホームページを宣伝することにした。
http://www.davidmalcolmrose.com/

 もちろんデイビットの作品もスゴイが、彼の友人であるアラン・ウォルフソン(Alan Wolfson)や、ティム・プリセロ(Tim Prythero)の作品もスゴイ(リンクのページから入れます)ので、どうかじっくりとご覧いただきたい。そして英語たんのうな御仁がいらっしゃったら、是非デイビット・マルコルム・ローズに宛ててファンレターを送ってほしいのだ。
 文面は
 「東京のIchiyohからあなたのウェブサイトを薦められて拝見しましたが、あなたの作品は本当にすばらしい!」
ぐらいで十分だと思う。

THE LOST HIGHWAY
By DAVID MALCOLM ROSE


2005年3月15日

「えれび」のこと

 先日つくった石の家の模型を宣伝するために、フジテレビが短い「えれび」を作ってくれたので紹介することにする。文末にあるポッチをクリックすれば、そこからえれびに入れる。芳賀の顔写真も含まれていたりするので、私の視点から見ると、少しだけはずかしい部分もある「えれび」である。
 もともとこの石の家はフジテレビ美術制作局プロデューサーである梅田正則氏が、トラックで河原から大量の石を運んできて、スタッフと一緒にひとつひとつ積み上げて作ったものである。そしてこの「えれび」の映像監督も梅田氏自身が担当されたそうだ。絵にからまる特徴ある筆字も梅田氏のものだ。それどころか北の国グッズは、台本の表紙から「北の国カレンダー」、「北の国絵はがき」にいたるまで、ぜんぶが梅田氏のハンドライティングで統一されているのである。毎年作成されるフジテレビ決算書の表紙にまで、いっとき梅田氏の字が採用されたことがあるそうだ。
 その梅田氏が
「これ、芳賀さんのホームページで使ってください‥」
と、先日この映像を送ってくださった。
 たいへんにありがたいこととして、心から感謝を申し上げる次第です。
 当然こういうものには著作権があるわけで、それをテレビ局が「使っていい」というのは特別なご許可であり、ご好意だと思う。ただオリジナルテープのバックグラウンドには「さだまさし」氏によるあの名曲(主題曲)が流れているのだが、それは使えない。(音楽著作権があるので‥。)ということで、私のホームページでは「サイレントえれび」となってしまった。 なお「えれび」とは「エレベーター・ビデオ」とのこと、だそうだ。

“えれびのいりぐち”

2005年3月11日

冬のニューヨーク

 一週間ばかり、極寒のニューヨークを体験してきた。
 映画で見る真冬のマンハッタンは、マンホールのフタの横っちょから真っ白な水蒸気がもうもうと立ち昇り、風に吹かれて横に流れ、人も街もイエローキャブも、白煙の向こうにかすんで見える。そんな数々の名シーンに以前からあこがれていて、一度体験してみたかった。
 到着した日はあいにくの雨でそれほど寒くはなかったが、翌日から一気に冷え込んできた。現地メディアでは華氏17度と伝えていたが、マンホールはもちろんのこと、タイムススクエアーの通りでは、ビルのダクトからものすごい勢いで噴き出した水蒸気が、天高くごうごうと舞い上がっていた。その晩の夜9時、イーストビレッジにある待ち合わせの飲み屋に向かって歩いていると、今度はいきなり上空から白いものが、突然舞い降りてきた。それはまさに極上のパウダースノウというやつで、東京のようにべたべたしたボタン雪でなかったことにしびれた。ニューヨークは気温が極端に低いために、そんな良質な雪が降るようだ。しかし華氏17度がどんな寒さを示すのかがそのときには理解できず、帰国後調べてみるとマイナス8度とのことだった。
 ま、そんなわけで極寒のニューヨークから先週の金曜日に帰ってきたところである。

写真右ハシの人物が私です
撮影:杉山武司


2005年3月2日