ゴーストタウンのこと

 先週、米カリフォルニア州のゴーストタウンへ行ってきた。
 再々お伝えしている盗っ人リバーの馬具店制作の研究のためであるが、つい数ヶ月前までは、米国におけるウェスタン村的観光施設でも視察してお茶をにごすつもりでいた。ところが、あるネイティブ氏から、「そんなところを見てもなんの参考にもならぬ。あなたはゴーストタウンこそ見るべき」と言われ、遠路はるばる訪れることにした。
 しかし、本当に、遠路はるばる、である。
 ロサンゼルスからブ~ンと蠅のような小型機に乗り換えて、ネバダ州はレノ(Reno)という田舎町におり立ったのが7月16日。この地一帯でゴールドラッシュが発祥したといわれている。空港からは車を借りてシェラ・ネバダ山脈に沿って国道395号線を150キロほど南下し、カリフォルニア州へと入り、さらに山奥へと分け入った。そしてゴーストタウンがあるとされるデコボコ道を、今度は東へ約20キロ走る。すると突然視界が開け、その町は、そこにあった。ボディ・ゴールド・タウンの成れの果てである。
 小高い丘の上から町全体を見渡すと、大小あわせて50や100ほどの建物がボロボロの状態で建っていた。もちろん誰も住んでいない。東京ドームの10倍ぐらいの広さだろうか、1870年代には数千人規模の人々暮らしていたと思われる。町の入り口には木造の教会があって、メインストリートには雑貨屋があり、衣料品店があり、酒場があり、馬具店らしき建物も、ちゃんとそこにあった。そして町を見下ろす丘の上には広大な墓地があった。ここで生まれ、ここに育ち、一度もここを出ることなく、ここに眠っている人々も多いと思う。
 どうせ、誰もいないだろう…。
 行く道々、半分おびえながら考えていたが、あにはからんや20人ほどの観光客が訪れていた。それにしてもパラパラといった感じである。町の中心に一軒だけ、50坪ほどのみやげもの屋兼ミュージアムのような建物があって、ヒゲの老人がひとりで店番をしていた。ミュージアムとはいっても、風化した薄暗いぼろ屋の中に、往時の人々が使っていた品物を無造作に並べているだけ。そんな中にアニー・クレイトンという女性の持ち物だったという、ビクトリア調の靴や帽子や手袋といった調度品が、かさかさに乾燥した状態で置いてあった。一緒にアニーの写真も並んでいた。楕円形の額縁の中のアニーは、ピカピカに美しく、嬉しくてたまらないとでもいった風にこちらを見て笑っている。その奥には、ここの展示品の目玉ともいえる葬儀馬車がデーンと据えてあった。シンデレラ姫に出てくるカボチャの馬車をペタンとひらたくしたようなかたちで、いたるところに彫刻が施され、一級の芸術品といった風格だ。
 ま、そんなこんなをシッカリ見て、ちょっと安心した。全体的に、ぼくの考えていたイメージと、さほど違いがなかったからだ。もちろん写真もパシャパシャいっぱい撮って、予定オーバーの約3時間、ボディ・ゴーストタウンを視察したあと、今度は西へ進路を取り、シェラ・ネバダ山脈を越えて約500キロ走り、結局は、サンフランシスコへと辿り着くのだが、そのへんのはなしは、そのうち又…。

2008年7月27日

デビッド・スカルファーさんのこと

 本日は英国人デビッド・スカルファーという人のサイトを紹介したい。
http://www.davidsculpher.com
 上がそれだが、かなりのもんだと思う。
 実はこれらの作品の現物数点が、先月浜松町で開催された「ドールハウスショー」に出品されていて、デビッドさんのご子息、ダンカン・スカルファー氏が会場に立っていた。いやぁ、素晴らしい作品ですねと声をかけると、「あなたはICHIYOHさんか?」と逆質問され、非常に驚いた。なんとダンカンさん親子は、ぼくのサイトのファンで、しょっちゅうチェックしていると言うのだ。特に「ITO-YA」が好きだと言って褒めてくれた。ついうれしくなって、今度はぼくのサイトで、必ずデビッドさんの作品を宣伝すると約束した。
 というわけで、本日はデビッド・スカルファーさんのウェブサイトを、是非ご覧ください。

デビッド・スカルファーさんの作品


2008年7月22日

佐野工房訪問のこと

 7月12日(土)、渋谷クラフト倶楽部の面々十数名が、茅ヶ崎市中海岸にある佐野匡司郎さんのお宅へとお邪魔した。氏の名前は模型界ではよく知られていて、作品の一部は当サイト、ストラクチャーセクションでも見ることができる。小津映画を彷彿とさせる純日本風家屋にお住まいで、家のはじっこに小さな工作室がある。大手ゼネコンを定年退職されたあと、ひょんなことからぼくの工作教室に参加することになり、現在は日々自宅の工作室にこもり、悠々自適のクラフトマンライフを送っている。氏の作業台からは庭の木立がながめられ、窓を開ければ湘南の潮の香りがはいってくる。そんな夢のような工作環境を一度見てみたいと誰かが言いだし、企画された今回のもよおし。見学後、近所の海岸を散策するというはなしもあったが、暑すぎて、それはやらなかった。

工房の佐野さん
写真:ふるはし・いさこ


2008年7月19日

新作のこと

 下はある作品の完成一歩手前の写真である。
 入り口に絵があるが、その上にはなにもついていない。だからこの作品は、この段階では看板のない作品だった。たいがい看板の文字をそのまま作題にしていたので、それがないとなると、困った。困った末の2月の10日、この欄で、当作品の題名を募集したことがあった。そしてフランスものに詳しい宮田いづみちゃんや、いづみちゃんの友人にも相談した結果、彼女らが推薦してくれた「サンドニの夜」、あたりを採用するつもりでいた。
 ところがそのあと、どうしても絵の上に何かがほしくなり、ライオンの顔やエンジェル(天使)など、いろいろな金具を検討してみた。しかしどれもシックリこない。そうこうするうちに手元にあった「ミクロコスモス」という丸いエッチングプレートを試しに取り付けてみた。すると案外「グ~」。これすなわちこの店の看板である。なので、タイトルも合わせたほうがいいような気がしてきて、結局作題もミクロコスモスにしてしまった。フランスものの題名にしては少しヘンではあるが…。
 いづみちゃん、ごめんなさい。

「ミクロコスモス」
完成作はアートインボックスセクショに掲載済み


2008年7月7日

帆船売場のこと

銀座伊東屋パートⅢ1Fの帆船模型売り場が6月いっぱいで閉鎖されることになり、波紋を広げている。ここでしか売っていない小さな金具や木材など、帆船づくり以外にも使える品物がいっぱいあったので、ドールハウスをやっているおばちゃんたちからも惜しむ声があると聞く。かく言うわたしも困ったひとり。しょうがないので先日行って、ゴッソリ買いだめしてきた。
 「やめちゃうんだって?」
 この売場のチーフ、大橋さんの顔を見るなり尋ねると
 「そうなんですよ、新社長の方針だから、仕方がない…」
 彼は案外サバサバと答え、でも商品はありますので大丈夫ですよ…と付け加えた。伊東屋は現在、毎月第3日曜日に、パートⅡ5階の会議室において帆船模型の制作教室を開催しているが、以後商品はそこで販売するという。ちょっと前からこの教室の講師も大橋さんが勤めている。だからほしいものがあれば第3日曜日に伊東屋の会議室へ行って、直接彼から買えばいい。それと、近々東京のどこかに、このコーナーを引き継ぐための店が出来るという極秘情報も耳打ちしてくれた。詳しいことはあとで連絡してくれことになっている。わかり次第またお伝えします。

笑顔がお茶目な帆船売場の大橋則顕さん


2008年6月30日

工作教室7月期のこと

 千石で開催中の工作教室、初心者クラス4月期は、課題作「水場エレジー」がほぼ完成いたしましたので、6月28日を以って終了します。代わって7月からは「孤独の世界」(下の写真)を課題とした新しい期(7月期)が始まります。その第一回目は7月12日スタートです。もうこの期からは初心者クラスとはいえぬ内容になりますが、参加をご希望の方がいらっしゃればメールをください。折り返し詳細をお送りします。
 なお4月期最終日の6月28日放課後に、打ち上げと称する、とても地味な飲み会を開催いたします。おれも一緒に飲みたいという御仁がいらっしゃれば、当日直接教室においでください。

縮尺1/80「孤独の世界」


2008年6月23日

建物めぐり

 まだ詳しいことは発表できないが、最近ある方から明治期に建てられた建造物の模型化を依頼され、いろいろと古い物件を調べている。そんなことから五月晴れのある日、愛知県犬山市にある「明治村」へと調査に出かけた。帰った翌日には小金井の「江戸東京たてもの園」へも…。
 たいして期待してなかったせいか、両方とも非常におもしろかった。
 アメリカの建築家フランク・ロイド・ライト氏が設計したという旧帝国ホテルのエントランスロビーや、2.26事件で暗殺された高橋是清元首相の家など、多くの建物を見物し、たくさんの写真を撮ってきた。
 下はその中の一枚。文京区千駄木にあったという夏目漱石邸の玄関である。往時の建物がそっくりそのまま明治村に移築され、木立の中にひっそりと建っていた。漱石はこの愛らしい家の書斎で「我輩は猫である」を執筆したという。
 さっそく玄関をくぐり、ぼろっちい風呂場や台所を見物し、女中部屋や、さほど広くはない書斎を見たあと、奥の八畳間でゴロンと大の字になった。天井には無数のシミがあって、それが歴史を物語っている。縁側からさわやかな風が入ってきて、さらさらと畳の上を流れてゆく。
 なんとも贅沢なひとときを満喫した。
 それはいいんだが、このとき家の中にも外にもぼくひとり。他には誰もいなかった。見張りすらいない。こんな大事な建物に、客をひとりで勝手に上がらせておいていいんだろうか。ちと心配にはなったが…。

明治23年から約1年、森鴎外がこの家に住んでいた。
そして明治36年から39年まで、今度は夏目漱石がここに暮らしたという。


2008年6月18日