シカゴへ出かけます

 4月8日~10日の3日間、米シカゴで開催されるミニチュアショーに参加するため、Hagaは4月7日に成田を発ち、シカゴのショー会場へと向かいます。

 タイトル:シカゴ・インターナショナル2011
 会場:ホテル・マリオット・シカゴ・オヘア
 住所:8535 W. Higgins Rd, Chicago, IL 60631 U.S.A.
 電話:800-228-9290 or 773-693-4444
 プレビューショー&販売:4月8日午後5時半~午後9時半
 プレビューショー&販売:4月9日午前9時~午前10時
 ショー&販売:4月9日午前10時~午後5時
 ショー&販売:4月10日午前11時~午後4時
 主催:トム・ビショップ・プロダクション

 会場のホテルは空港から車で15分ほどの辺鄙なところにあり、あたりにはなんにもありません。そんな場所に世界の17カ国からやってきたミニチュアディーラーたち227チームが集合し、作品および商品の展示販売や各種のワークショップを開催いたします。
 今回うちの倶楽部からはぼくのほかにも古橋いさ子さんと正影智子さんがディーラーとして参加し、われわれを含めた日本勢の合計は8チームです。これはアメリカ、イギリス、カナダ、ドイツに次いで世界第5位のディーラー数で、ちなみに中国や韓国からは出場者はおりません。
 ——–原発問題には目もくれず、余震やプルトニウムもなんのその、いまはその準備に大わらわといったところです。

マリオット・シカゴ・オヘア

2011年4月3日

近況①「石ノ森章太郎の机」

 月刊「はるかプラス」4月号が発売になった。連載中のHagaコーナー、今号では「石ノ森章太郎の机」を紹介。
以下記事より。
 マンガ家石ノ森章太郎は1956年、18歳の年に上京、同年五月「トキワ荘」に入居し、マンガ家人生のスタートを切った。トキワ荘を代表するマンガ家のひとりである。
 そして1998年、惜しくも世を去るまでに、なんと700タイトルをこえるマンガを残した。「仮面ライダー」も1タイトル、「サイボー009」も1タイトルと数えての700だ。描くスピードは手塚治虫よりも早く「マンガの王様」と呼ばれた。
 上の写真(*注下の写真)は、もっとも油が乗っていた1980年代、練馬区桜台にあった自宅アトリエの机を、㈱石森プロから提供された資料をもとに制作したもの。
 ——–以上4月号より。
 ちなみに石ノ森章太郎は宮城県登米市中田町字石森の生まれだ。
 子供のころは片道25キロの石巻市まで、自転車でしょっちゅう出かけ、映画を見たり本を買ったりしたという。市の中心部を流れる北上川の河口に位置する中州を、彼は「マンガッタン」と呼び(マンハッタンのもじり)、いつしかそこに自分のミュージアムをつくりたいと夢見ていたそうだ。自身が描いたミュージアムのラフスケッチも残っている。その「石ノ森萬画館」を、このたびの津波が襲った。

月刊「悠+」(はるかプラス)4月号より
発行:㈱ぎょうせい

近況②「狩野章さんからのメール」

石ノ森萬画館を津波が襲ったという話しは前回も書いた。
 下がその写真である
 スタッフ全員無事だったというが、このミュージアムは北上川の中洲にあり、そこは海からたった1200メートルのところ。しかも地震発生時は営業中だったことを考えると、奇跡としか思えない。
 ところがである。2009年までここに勤めていて、ずっとぼくの担当だった方の消息がわからず、一度ツイッターで呼びかけたことがあった。そしたらである。数日前とうとう当人からメールがあった。
 ———石巻の狩野です。なんとか無事でした。が、車、携帯、水没です。人生いろいろなことがありましたがこんな経験は初めてです。ただ私は家も家族も全員無事だったので、ほかの市民よりずっと恵まれています。(中略)。津波に巻き込まれそうになって、難を逃れた運のよさで、これからもがんばっていきます——–。
 「石ノ森章太郎の机」や「80分の1トキワ荘」は狩野氏からの依頼で制作した。石巻に行った際には宿の手配から食事の世話まで、ずいぶんとお世話になったものである。
 なにはともあれ無事でよかった。

津波が去ったあとの萬画館
営業再開は容易ではなさそうだ

近況③「イエローサブマリンのこと」

 名前からわかるように秋葉原の「ラジオ会館」はふるい。築50年になるそうだ。現行の耐震基準を満たしていないことから建て替えのはなしが持ち上がっていた。そこに今回の地震である。7階の「イエローサブマリン」にあるぼくの棚が倒れて、木っ端微塵になっていたとしても不思議ではなかった。
 突然ユサユサッと揺れが来て、商品がドドッと床に落下し、ガッシャーンとガラスケースが倒れた。総毛立ったスタッフらは我先にその場から逃げた。クライストチャーチのつぶれたビルの映像が脳裏をよぎった。そんな中ひとりの店員がぼくの棚へと走り、暴れるガラスケースをしっかりと押さえてくれたのだそうだ。おかげでぼくの棚(ガラスケース)は倒れなかった。ケースの中の商品はめちゃくちゃに散乱してしまったが、ほとんど壊れてはいなかった。
 震災後ビルはしばらくのあいだ閉館。あちこちメンテナンスを施してから営業を再開し、再開後見に行ってはじめてそのはなしを聞いた。
 当人に礼を述べると
 「確かに最初は押さえていたのですが、そのうちたまらなくなって手を離し、ぼくもけっきょく最後には逃げ出してしまいました…」と、いかにも模型好きそうなその店員・吉田健一さんはすまなそうにそう答えた。
 ———うう、うっ、ううぅぅぅ(泣)である。
 この日は片付けと同時にシカゴへ持っていくための品物を大量に抜いたので、ぼくの棚は今スカスカである。

津波が去ったあとのような…

2011年3月26日

わたしは大丈夫です

 このたびの震災のあと、多くの方々から「大丈夫でしたか」という見舞いのメールをいただいた。さいわいわたしは大丈夫です。そのときは、いつものように自宅の作業場で仕事をしている最中だったが、なんの怪我もなく、被害といったら天井の梁の上に並べていた塗料の類がパラパラッと床に落下しただけ。平屋の一階にいたせいかさほどの恐怖も感じなかった。
 その後東北東海岸の惨状が明らかになるにつれ、宮城県石巻市のミュージアム「萬画館」に展示中のトキワ荘のことが心配になった。だがこの時点では調べようがなかった。同時にイエローサブマリンのガラスケースが心配になり、秋葉原のラジオ会館へと向かった。するとシャッターが閉まっていて、当分のあいだ営業を見合わせるという張り紙が。中に入れないのでビルの外から店に電話したら誰も出ない。
 ガーンである。
 仕方なく秋葉原から戻ると「あなたのことを非常に心配している」という趣旨のメールが、海外から複数とどいていた。今回の災害が世界をも驚かせている事実を改めて実感。
 その翌日こんどは逆にイエサブから電話があった。店はメチャクチャだそう。だがぼくの棚にはさほどの被害はないという。ほっと一安心。すぐにでも見に行きたかったが、それは少し待ってくれと言われた。
 そして震災4日目の朝、石巻の萬画館から電話があった。トキワ荘は難をのがれたそうだ。津波がやってきて、波のしぶきが建物の屋根をも濡らしたが、浸水は一階までで、二階にあったトキワ荘に被害はなく、スタッフも全員無事とのこと。
 「それはよかった。あんまり長くしゃべっていると回線が混雑するので。」
 と、手みじかに電話を切った。
 ま、わたしはそんなところだ。
 ———このたびの災害で被災され、不自由な非難生活を送っている方々に心よりお見舞いを申し上げます。そして犠牲になった多くの方々のご冥福をお祈りいたします。

3月12日/秋葉原ラジオ会館で

2011年3月20日

写真をチェンジしています」

 羽田に拙作の展示コーナーができたことによって、初めてこのホームページを訪れるひとも多かろうと考え、少し前から「作品ギャラリー」における写真の差し替えを行っている。むかし銀塩のカメラで撮った写真はできるだけ廃し、新しく撮ったデジカメの写真に差し替えている。おかげで映像がずいぶんシャープになったと思う。
 アートインボックスに関しては大体終了し、いまはストラクチャーの写真をいじっているところだが、写真が違うとおんなじ作品でもまったく別の作品のように見えてくる。
 ——–あとで一度ご覧になってください。

シェルタリングスカイ

2011年3月10日

近況①「月刊『悠+』(はるかプラス)3月号」

 2月15日に、月刊「はるかプラス」3月号が発売になった。発売日に合わせ、今号では「さむい朝」を紹介した。
 以下記事より。
 わたしの作家デビューは1996年、渋谷パルコで開催された個展だった。このパルコの地下1階には「ロゴス」という名前の書店が今でもあるが、その一角に位置する「ロゴスギャラリー」が会場だった。
 場所がらインテリ外国人が多いところだ。彼らの興味を引くためには伝統的な日本の墓場を見せるのがよかろうと、このときは二点の墓地作品をつくった。そのうちの一点が本作である(縮尺80分の1)。そのあと一回大幅な改修を施してはいるがベースを含めた全体的な構図はそのときのまま。ぼくの作品の中ではもっとも古いものの部類にはいる。
 まだまだ寒い朝が続くが、春はもうそこまで来ている。

月刊「悠+」(はるかプラス)3月号より
発行:㈱ぎょうせい

近況②「月刊美術3月号」

 月刊美術3月号が“完成! アジェのパリ第二弾”というキャッチフレーズで、「デカルト通り48番地」の完成を伝えてくれた。
取材のため編集部がわざわざ拙展会場(宇都宮の悠日ギャラリー)まで足を運び、展示中の作品を見た上で、ピリッと短い文章を書いてくれた。モノクロではあるが表紙をめくってすぐの、なんと平山郁夫さんのページのお隣である。
 ——-月美編集部の下川さん、ありがとう!!

月刊美術3月号/実業の日本社発売

2011年3月9日

近況①「羽田のお知らせ」

 ツィッター(http://twitter.com/#/hagaichiyoh)ではすでに何回かつぶいたことがありましたが、羽田空港「ディスカバリーミュージアム」の中に、Hagaのちょっとした作品展示コーナーがお目見えすることになりました。
 アクセス:羽田行きモノレールの終点「羽田空港第2ビル」で下車し、保安検査場「C・D」方向に向かってください。(保安検査場とは搭乗の際にボディーチェックを受けるところです)。「ディスカバリーミュージアム」は検査場「D」の向かいにあるエスカレーターを上ったところです。
 大小合わせて10点ほどの作品が常設展示されています。
 永遠ではないでしょうが、菅政権よりは長続きしそうな気配です。
 ——–どうぞよろしく。

http://www.discovery-museum.com/

近況②「倶楽部入会のお知らせ」

 ぼくの教室の現役生とOB氏らによって構成されている渋谷クラフト倶楽部。現在60名ほどの会員がおりますがOBの全体数から見ればまだまだです。そこで非会員であるOB氏らへのアナウンスの意味で、倶楽部事務局の山野順一朗氏が下のような一文を書きました。
 以下山野文。
「渋谷クラフト倶楽部」は芳賀クラフト教室の生徒、OB、知人の集まりで、作品展を中心にいろいろなイベントを行っています。始まりは11年前、渋谷パルコで開かれていた芳賀教室の生徒たち数人が作品展を開催したのがきっかけです。今では会員数60余人の大所帯になりました。
 活動内容はまず第一に作品展を開くこと!あとは月例会(自習会)、合宿(ちょっと鉄分とアルコール分入り?)、忘年会などの行事で親睦をはかっています。最近は小人数で「○○さんの工房見学会」なんかの活動も盛んです。
 この倶楽部の特徴は、ふつう一緒にならないだろ、っていう様々な分野の人たち(フィギュア、ドールハウス、アート系、鉄道模型、漫画家、コピーライター、時計屋、主夫、‥)が集まっていることです。これは芳賀先生の不思議なオーラがなせる業でしょう。そんな刺激的な環境のなか、楽しく活動しています。何より創作意欲が自然と高まります。みなさんも奮ってご入会ください。
 入会希望の方は倶楽部事務局 山野順一朗 j-yamano@giga.ocn.ne.jp までご連絡下さい。
 ———以上山野文でした。
 どうぞよろしく。

生徒のみなさんと
写真提供:おがおが

2011年2月26日

ハオフェイさんの作品

 中国のハオフェイ・ディン(丁浩飛)さんから短い英文のメールが届いた。年齢性別は不詳だがミニチュアをつくっている方のようだ。メールには添付ドキュメントがあって、当人がつくったと思われる作品の写真が多数掲載されていた。
 下がその中の一枚である。
 なんとこれがミニチュアなのだ。
 縮尺は12分の1と思われる。
 「You have a great talent!!」と英語でお返事したところ、数日後にこんどは日本語で下のようなメールが届いた。
 以下原文のまま。
 親愛なる芳賀一洋さん:
 ご連絡ありがとうございます。自分の作品を気に入って頂いて、感謝しています。中国国内でモデルアートに関してはまだまだ注目されてなくて、日本がとても盛んになっていると聞きます。なので、とても日本のモデルアートの情報が欲しいのです。芳賀さんといろいろと情報交換したいので、メールアドレスの他には、たとえばもっと便利なチャットソフト(メッセンジャー)をご利用していませんか?もっとスムーズに 交流出来ればなと思います。
 それでは
 丁浩飛
 2011.2.13
 ——–きっと日本人が翻訳したのだろう。完璧な日本語である。
 これに対しては「チャットソフトはやっていない」とお答えしたが、まだその返事は届いていない。

2011年2月19日