ただいま撮影中!

 いまアートインボックスをつくっている。
 たまにそれを佐藤紀幸カメラマン(SATO FOTO)が撮りにくる。いわゆる密着取材というやつで、制作の過程を順を追って動画で撮影、短いドキュメンタリー作品にしあげて、動画投稿サイトYouTubeに掲載し、世界中の人々に見てもらおうって魂胆だ。
 佐藤くんのカメラマン稼業も、リーマンショック以降やたらとひまになり、最近独学で動画の撮り方を研究しているそうだ。その研究材料に小生の制作現場が選ばれた。
 撮影の初日、まずはひげをととのえ、こざっぱりとしたシャツに着替えて、いつものように作業をしていた。そこへ佐藤くんがやってきて
 「なに、そのかっこうは?」
 カメラを構えたとたん、ジャブが来た。
 「まずいの?」って返したら
 「わざとらしいんだよな…」
 と、こんどはストレートである。
 それ以降、取材にはできるだけとろとろのかっこうで臨むようにしている。
 なおこのドキュメンタリー映像、今月末には撮影が終了し、たぶん来月にはご覧いただけるはずである。
 ——-乞うご期待!

左がSATO FOTO

2012年5月6日

近況①「しげざねさんからのメール」

 ひさしぶりに重実(しげざね)さんからメールがあった。
 ご無沙汰しています。教室、制作、そして飲み会(?)でお忙しい毎日をお過ごしのことと存じます。最近、走るとすぐに息が上がるようになりました。お互い様のことかと思います。体にお気をつけ下さい。
 さて先週、ひとつ仕上がりました。
 お忙しいかと思い、ちょっと遠慮していたのですが、やはりご覧いただきたいということで、写真を送信させていただきます。よろしければ、ちらっと目をやって下さい。
タイトルは「パリ 15区 アモー街 9番地」、縮尺1:60 です。
 この大きさが、ほどよく、手頃で気に入りましたので、同じ大きさ、縮尺で二作目の作業に入ったところです。
 ——上のメールには計10枚の写真が添付されていて、下がその一枚だ。室内が写っている写真もあったので、内部もちゃんとつくってあるらしい。
 しばらく音信がなかったので、なにかをつくっているらしい気配を感じてはいたが、しかしよくもまあつくったものである。びっくりして腰を抜かすひとがでるのではないかと心配だ。

重実博幸氏制作
「パリ15区アモー街9番地

近況②「西山くんからのメール」

 以前、自由が丘教室に西山朋樹という生徒がいた。その西山くんからメールが届いた。
 彼は「渋谷クラフト倶楽部」の会員にもなったが、その後教室をやめてしまい、一体どうなったのかと、たまに訊かれたことがあったので、そのメールを、当人の許可を得て掲載することにした。
 芳賀先生
 大変お世話になっております。
 自由が丘の教室で1月までお世話になっておりました西山です。
 教室をお休みさせていただいた理由の一つとして、1月末から取り組んでまいりました転職活動が3月末をもって終了し、昨日現職の出版社を退職いたしました。先生とのご縁のきっかけにもなりました雑誌の編集をはじめ丸9年間在職した職場を去ることになり、引き継ぎや残務処理などでなかなかご連絡ができず申し訳ありませんでした。新しい職場はさる有名な手帳を作っている会社です。
 社会人向けの研修やeラーニングなど、手帳以外にも幅広い業務をおこなっており、私はそこで、社会人向けの通信教育の企画編集をさせていただくことになりました。義務教育から社会人教育へということで、同じ教育分野とはいえ、なれるまではまた慌ただしい日々が続きそうです。
 落ち着いたら田端にもご挨拶に伺いたいと思っておりますので、その際は何卒よろしくお願いいたします。
 以上が西山くんからのメールである。
 ——–西山くん、なにはともあれ、おめでとう!

「能率手帳」

2012年4月28日

近況①「自由が丘のクラフト教室」

 先月このコーナーで生徒の募集を呼びかけた自由が丘のクラフト教室ですが、4月14日(土)に新学期(4月期)がスタートいたしました。
 (この期の制作課題は「1/80孤独の世界」です。)
 呼びかけの甲斐あって、このたび8名の新入生が入り、従来からの方々と合わせた生徒数が15となりました。
 当日写真を撮ったのですが、初回だったせいか、みんな表情が硬いなあ。

写真:羽賀尚文

近況②「DANONE 1944年」のこと

 本作は1996年、新宿伊勢丹でエキシビションを開催するにあたって、まとめて制作した計15点のアートインボックス作品のうちのひとつ、アートインボックスとしてはもっともふるいものである。
 これ、実はおんなじものを三つつくっている。最初につくったものは伊勢丹で妹夫婦が買い、次につくった作品は仙台で売れて、そして三つ目の作品は広尾のレストランのオーナーが買ってくれた。
 その三つのうちの最初の作品を、妹夫婦から借りてきて、佐藤紀幸くん(SATO FOTO)が撮影し、動画投稿サイトYouTubeに投稿してくれた。
http://www.youtube.com/watch?v=_JcqbX_u4uM
 映像を見ていると、これを制作した当時の意気揚々とした気分がよみがえる。バドパウエルの軽快なピアノ曲がぴったりだ。

1/12「DANONE 1944年」

2012年4月22日

近況①「花見のこと」

 むかしからボロいものや暗いものが好きだったせいか、パーッと明るいサクラの花は大キライだった。梅や山茶花なら十分に理解できる。だがサクラの花の、あのベタでけばけばしいピンク色の一体どこがよいのか。ずっとそう思っていた。
 気が変わったのは50歳を過ぎてから。
 そのころからだんだんと相撲が好きになり、水戸黄門が好きになり、ふと気がついたら、いつのまにかサクラの花も好きになっていた。
 要は歳を取ったということらしい。
 むかしは秋が好きだったがいまは春が好きだ。森繁の社長シリーズや寅さんなど、のんきで明るい映画をこころからよいと思えるようになったのもついこのごろのことである。
 歳をとるにつれてだんだんと明るいものが好きになるようだ。
 だが花見の宴会だけは、いまだにどうも好きになれない。
 だいたいからしてゴザの上ではすこぶる座り心地がわるく、たいしたつまみもなく、ビールはぬるい。その上トイレは長蛇の列である。
 あれの一体どこがよいのか。
 かくいうわたしではあるが、そんな花見にも何回かは出かけたことがある。
 下の写真は2005年、クラブ(渋谷クラフト倶楽部)のメンバーとともに武蔵野の小金井公園で撮った一枚。

左から4人目がぼくです
写真:わたなべいたる

近況②「誕生日のこと」

 4月13日で満64歳になった。
 もうれしくも、めでたくもない。
 しかし世界中の200名を越えるひとたちから「おめでとう!」と言われ、困惑している。宣伝のため、ツイッターやフェイスブックといった、いわゆる「ソーシャルネットワーク」を始めたからだ。
 おかげさまでフェイスブックにおける友達数が1000を超え、全員の投稿に目を通すことにいささかげんなりしてきたところへもってきて、このたびは「Happy Birthday Ichiyohsan!」の総攻撃を受けた。おめでとうといわれればありがとうと返すしかなく、言ってくれた全員に「Thank you !!」と返した。
そこまではいい。
 だがメッセージを送ってくれた人たちにもそれぞれの誕生日があるわけで、こんどはこっちが相手の誕生日にあわせて、メッセージを送らねばならぬような気がしてきた。
 ——–おいおい、それは、相当めんどうくさいぞ…。
 もともと「誕生日を祝う」風習は西洋(特にアメリカ)のもの。戦争に負けて、すべての日本人がアメリカナイズされ、そんなことをやるようになった。だからぼくは、いままで誕生日なんてだれにも公表してこなかったし、だれからも「おめでとう」なんていわれたこともなかった。それで十分だ。
 自分が誕生したこと。それはめでたいことだとおもう。だが年に一度自分の誕生日がやってきて、そのたびに、めでたい(Happy)なんて思っているひとって、いるのか。

台湾の陳小弟さんから送られたメッセージ

2012年4月15日

YouTube映像

 1998年、新宿の某高層ホテルで開催した作品展のときには、お隣が「ニコン・サロン」だった関係でカメラマンの客が多かった。佐藤紀幸くんもそのひとり。
 彼はしばらくのあいだ真剣に作品を見ていたが、やがて写真を撮らせてほしいと申し出た。そうしてその日と次の日にかけて36枚撮りフィルム三本の写真を撮って帰った。後日その中の三枚を某写真コンテストに出品したところ、見事「銀賞」をゲット。
(それらの写真はいまでもこのホームページで使わせてもらっています。)
 そんなことがあってから、ぼくは彼に写真を頼むようになり、「1/15 トキワ荘」や「伊東屋」など、いくつかの作品を撮ってもらった。
 現在、佐藤くんは「SATO FOTO」という名前で、主にコマーシャルフォトの分野で、広く活躍している。
 そのSATO FOTOが先日ひさしぶりにやってきた。
 ぼくの作品を動画に撮ってYouTubeにアップしたいという。
 その日は打ち合わせのために訪れたが、たまたま作品が一個置いてあったのがマズ(?)かった。さっそくそれを撮っちまおうってことになった。
 下がその映像だ。
http://www.youtube.com/watch?v=L7nAZODVUkY
 彼の友人が作曲したという音楽が素晴らしい。
 だが作品がいまいちなので、なんだかなあ。
 ——次に期待したい。

SATO FOTO
http://www.satofoto.net/

2012年4月8日

考えている

 ぼくがこの仕事を始めた1995年当時、CG映像はまだほとんどなかった。だから本物そっくりなものをつくれば、人々はただ単に驚いていたようにおもう。
 ところが、それから17年たって、いまやCG映像どころか3D映像の時代に入り、ハリウッドでは最新技術と莫大な予算、優秀な頭脳を駆使して、超リアルな映像をつくりだすようになった。そんな時代にひとりでせこせこと、低予算で、本物そっくりなものをつくったって、一体どうなんだろう。あいかわらず「リアルですねえ…」なんてほめられてはいるが、近ごろどうもピンとこない。
 前置きが長くなったが、いまなにかをつくろうとして懸命に考えているところである。
 旧横浜駅の制作にとつぜん待ったがかかり、ただぼさっと待っていてもしょうがない。手ごろなアートインボックス作品を一個つくる気になった。まったくなんの縛りもなく、自由に、自分の作品をつくるなんて2008年「白い石炭商人」以来のことである。
 そこで冒頭のようなことを考えた。
 つまり、リアルさもある程度は必要だろうが、そこにたっぷりと手作りのぬくもりを、つくりものとしての味や面白さを加味しなければ、わざわざ手でつくる意味がないだろうってことである。
 そこでこんどの作品は荻須高徳的な、セザンヌ的な、なおかつジョルジュ・デ・キリコ的な、絵画的ムードを醸すものにしたい。
 乞うご期待!

ミニチュア絵画
こんどの作品に使うつもりです

2012年3月31日

車輪をつくりなおす

 1998年に制作した「ピエールの荷馬車」という作品がある。
 ある生徒から一日教室でその作品の荷馬車部分のつくりかたを教わりたいというご要望があって、先日倉庫から作品を運んできた。そして改めて、まじまじと荷馬車を見ると、肝心の車輪のスポークがねじれて、歪んでいるではないか。思わずウーンとうなってしまった。
 考えればこの荷馬車のホイールは、東急ハンズで売っている自然木(多分ツゲ)の輪っかを削ってつくったものだった。それが経年変化によって縮んだらしい。ホイールが縮んだものだからスポークがねじれてしまい、いまにも車軸からもげそうになっている。最後に展示したのは今年の一月、甘楽町展の会場だったが、そのときにはまったく気がつかなかった。
 いろいろ考えたが結局は車輪をつくり直すしかなく、仕方なく今度は厚さ4ミリのシナベニヤの合板を材料にして、それを糸鋸で輪っかのかたちに切り抜いてホイールとした。合板ならば絶対に縮まないのだ。初期のころはそのことに考えが及ばず、ストラクチャー作品の土台などにもよく自然木を使って、おなじような失敗を繰り返した。ホイールが出来たらあとは簡単、車軸から八方にスポークを張ってそれでおしまい。ほんの2日で修理が完了した。

車輪をつくりなおしました

2012年3月24日