3.11から10年だそうだ。
その日わたしは自分のスタジオで普段どおり仕事をしていた。やがて午後2時半過ぎ、とつぜんユサユサッと尋常ならざる揺れがきて、鴨居(梁?)の上にならべてあったものたちがバラバラッと床に落下した。あと、書き出せばきりがない。ラジオはつけっぱなしだったが、夕方までたいした情報は入らず、その後のんきに山手線で買い物に出かけ、池袋の駅を降りたとたんに目を見張った。
駅前は群衆で埋め尽くされ、歩道も車道もひと人ひとである。要するに西武線が全線ストップしてしまい、(あるいは東上線や有楽町線や丸ノ内線もだったのか?)それに乗車できない人々が、時間とともに駅前で膨張しているのだ。
「ヤバイ、山手線が止まったらオレも帰れなくなる!」
慌てて電車に飛び乗って家へもどると、東京中に帰宅難民者があふれている様子をテレビで中継していた。そのころからだんだんと現地情報が入るようになり、次第に大惨事の惨状をまのあたりにすることになる。まずは東北だとわかり、沿岸各都市の名前が連呼され、そのなかに石巻という地名もあった。そうこうするうちに午後7時ごろ固定電話が鳴り、出るとザーザーという雑音とともに
「先生!萬画館の○○です。電話はすぐに切らねばなりません。先生の作品は無事でした。ツナミは2階まで達しませんでしたので。わたしたちも無事です。それだけをお伝えします。」
「わかった、ありがとう!」
そう答えると、すぐに電話は切れた。
ツナミに襲われ、停電で真っ暗な「石ノ森萬画館」(宮城県石巻市)の中で、通じないはずの電話で、わざわざ作品(1/15トキワ荘)の無事を伝えてくれたキュレーターの○○さんだ。館は海岸からわずか数百メートルの距離にあり、地震発生当時は営業中だったにもかかわらず、ひとりもけが人が出ず、彼女も、わたしのトキワ荘も無事だった。
それから10年、犠牲になられた多くの方々のご冥福をお祈りいたします。