2003年5月19日

 わたしが最初に模型の小屋をつくったのは1995年、阪神淡路大震災があった年の夏だった。この年はまたオウムの地下鉄サリン事件も勃発した年で、国中がなにかと騒々しかった。当時わたしはまだ商売をやっていたので、上九一色村のサティアン二階でグル麻原が発見されたときの映像は、厚木パルコ従業員休憩所のテレビで見守っていたものだ。そこに自分の店(ブティック)があったからだ。
 確かこの年の前年、当時の橋本政権が消費税を5%に値上げし、そのため一気に消費が冷え込んでしまったのも、また1995年のことだった。だから麻原逮捕のニュースのあと、わたしは厚木の店をリストラし、同時に池袋の店もリストラした。そしてこの年の初夏にかけては、他にもひとつかふたつの店をリストラしてしまい、これから先どうやって生きていこうかと、かなり悩んでいた。そんな年の夏、ほんの気分転換のつもりで非常に小さな模型の小屋を作ってみた。そしたらそれがなかなか良いできで、いきなり熱中してしまった、というわけだ。
 このへんの事情については拙著「模型のはなし①しぶ~い木造機関庫をつくる」(お問い合わせは http://www.10daysbook.com/ )に詳しいので、ぜひ一度お読みになってください。
 ま、そんなことで、急に模型の制作に熱中してしまったわたしは、この年の年末までに約20個ほどの作品を作った。だが同時に、依然としてまだ数店舗の営業はつづけていたので、よくもそんなに沢山作れたものだと改めて感心する。火事場の馬鹿力というやつだ。明けて平成8年(1996年)の正月に、私の友人が、私がつくった木造機関庫を、渋谷パルコの奥山俊一という方のところに持ってゆき
「こんなものを作っている男がいるんですが、御店のどこかで展示できませんか?」 と、尋ねた。木造機関庫とは蒸気機関車を格納するための車庫である。そして奥山氏は、当時パルコの取締役副社長だったと記憶する。
 あとでその友人から聞いたはなしによると、パルコの応接室に通されてパッと機関庫のふたを開けたとたん、奥山副社長は「ウーン‥」と言ったきり、しばらく黙りこくってしまったそうだ。そして私の機関庫を、非常に気に入ってくれたとのことである。
 当時はぜんぜん知らなかったのだが、数年後に判明した情報によると、奥山氏は鉄道の大ファンで、JR各線全駅の切符を収集しているほどの「鉄道大オタク」なのだそうだ。多分そんなことが幸いしたのだろう、お陰様で1996年の春、渋谷パルコ・パート1の地下一階にある「ロゴス・ギャラリー」というところで、最初のエキシビジョンを開催することができた。
 パルコの地下には「ロゴス」という名前の書店があり、その脇にあるので「ロゴス・ギャラリー」という名称だ。そしてキャラリーのお向かいは、ちょうど洋書売り場になっていて、アートに関する洋書としては東京でも屈指の書籍数を誇ると思う。そんな関係から、渋谷の割にはインテリが多く集まる場所で、多種済々の方々との知遇をえることができた。なかでも田村豊幸(たむら・とよゆき)という日大名誉教授さまが新聞を見て会場を訪れ、拙作をたいへん気に入ってくださり、翌年(1997年)に「真岡駅・STATION」を作ることのきっかけ(4月22日付けトークス参照)となった。

 最近、当サイト「ウォークス」のコーナーに「Scenes from exhibitions」というスライドショーを新設し、その最初のページに、このときの展示の様子を掲載した。(写真の横にディスプレーした英文は、本日ここに書いたことの要約だ。)
 中心は木造機関庫の展示だったが、そればっかりでは変化に乏しいと考え「日本軽石興業株式会社」(以前より当サイト・スライドショーに掲載中!)という大型作品を急遽一点制作し、会場中央に陳列した。そしてこのときは、鉄道とはぜんぜん違う「ベランダの情景」も一点だけ制作し、会場の奥の壁に掲げてみた。これは、テスト的に制作した最初のアートインボックス作品だったのだが、どういうわけか売れてしまい、このあと雪崩(なだれ)のように制作することになっていった。
 展示タイトルは「80分の1の世界・木造機関庫たち」ということで約二週間開催され、朝日新聞をはじめとして雑誌サライや週刊文春や、FM放送など、いくつかのメディアでも取り上げていただいたため、予想をはるかに上回る多くの方々にご来場いただいた。
 当日、会場で始めてお会いした吉田政彦氏、坂田真一氏、山下浩氏、高谷俊昭氏の各氏4名は、現在では私の工作教室の中心メンバーとして、あるいは当クラフトクラブのメンバーとして、毎回親しくお付き合いさせていただいている。

雑誌サライ・1996年6月6日号


2003年5月19日