橋の手前まできたときのこと、なんだこりゃあ~、と思わずつぶやいた。われわれが渡るべき全長20メートルほどの鉄橋の向こう側が完全に水没し、進むべき道がすっかり消えうせていたのだ。かわりに目の前には巨大な沼がひとつ静かに広がっていて、つい数日前、搬入のために走った田舎道は、すべて沼の中に沈んでいた。
この日の午後2時過ぎにマンハッタンを出たわれわれは、北へ向かって約90分走り、ニューパルツの町をぬけ、町はずれにある橋のたもとまでやってきた。車はエイビスで調達した銀のシボレー。まことに快調な走りを見せてくれたが途中で一回渋滞し、予定がやや遅れ、このときすでに午後4時を回っていた。ときどき霧雨がフロントグラスを濡らすというあいにくの空模様で、あたりはすでに薄暗かった。
「スギちゃん、至急公衆電話を探してくれ!」
同行のスギちゃん(杉山武司氏)にあわてて声をかけた。
橋を渡ってほんの15分ほどのところに位置するユニソンのアートギャラリーでは、このたびのエキシビションにまつわるオープニングレセプションが、もうすでに始まっている時刻である。(ユニソンについては2005年8月13日付けのトークスにも記載があります。)私はどうしてもそれに出席しなければならない。会場はもう目と鼻の先なのに、しかし橋から先へは進めないのだ。そのことを至急ユニソンに伝えねばならぬ。どこかに迂回路はないのか、それも尋ねたい。できれば迎えの車をよこしてもらえれば大助かりである。
やがてエッソのガソリンスタンドの横に公衆電話を発見! しかし財布には25セント硬貨が一枚も入っていなかった。(アメリカの公衆電話は25セント硬貨しか受け付けてくれない。)よって札を硬貨に両替しなければならない‥等々、面倒くさいことがいろいろあって、結局3回両替し二箇所の公衆電話を使って、約30分を費やして通話を試みたが、とうとう電話はつながらなかった。何度コールしても留守録メッセージが応答するのみで、まるで肉声が聞こえてこないのだ。仕方なく電話をあきらめた私は、今度は迂回路を探して探して、探しまくるという作戦に出た。オープニングレセプションは午後6時までやっているので、なんとかそれまでにたどり着ければ、と考えたのだ。となれば、時間はまだ一時間以上もある。かといって詳細な地図があるわけではなく、英語はもちろん苦手だ。
で、結局、たどり着けたのである。
あまり鮮明ではないが、下がそのときの写真だ。到着したのは午後6時ちょい前で、パーティーはすでに終わりかかっていた。前夜の大雨で上流の川が決壊したため、あたり一帯が水没し、当日はいたるところで通行止めが発生したという、ニューオルリンズ現象だ。当然ながら来客はかなり少なかったと思われる。だがぎりぎりながらもわれわれが滑り込みセーフを果たせたことは、わたしはもとよりユニソンの関係者にとっても、非常に明るい出来事だったと思う。
決め手はポリスだった。
最初はガソリンスタンドで道を尋ねたがラチがあかず、かわりに警察署を探すことにしたのだ。ほどなく小さなポリス・ステーションがみつかり、ちょうど裏口から顔を出したクールなポリスにいきなり道順を尋ねた。彼は周辺の道を熟知しているらしく、躊躇なくユニソンまでの迂回路を、口でビターッと説明してくれた。そのあまりの迫力(説得力)に押された私は、英語がわからないくせに、自然と言葉の意味が飲み込めてしまったのである。彼が6マイルと言えば、ぴったり6マイルのところに信号があった。その先4マイルに石の橋があると言えば、本当にジャスト4マイルのところに石の橋があった。そうして彼は計約15マイル(約24キロ)にわたる迂回のための道順を、的確にわれわれに教えてくれたのだった。
やれやれ‥。
2005年10月18日