近況①「放課後ライフのこと」

 いよいよ「あるマンガ家の住居」制作教室が始まりました。
 下が初回(1月15日)の様子です。
 この日は終了間際に、教室OBの佐野匡司郎氏がぶらりとやってきて、放課後行われた宴会に参加いたしました。
 以前は一期3ヶ月の終了時ごとに開かれていた宴会でしたが、このごろは毎回です。これは「あるマンガ家」教室に限らず、ほかのふたつの教室(火の見やぐら教室とル・ペンギン・バー教室)でもだいたいおんなじです。またときには有志による放課後二次会まで開かれることもあり、まことに充実した放課後ライフとなっております。
 ですから「マンガ家」の次には「ペンギン」に顔を出し、そのあとは「火の見」に顔を出したりしていれば、そのうちうちの教室の現役生全員と親しく交わることができます。
 どうかみなさん、ぶらっと遊びに来てくださいね。
 放課後ライフへの参加は無料です。ただし割り勘の飲食料がかかります。
 次回の「マンガ家」教室(1月29日)ではスペシャル講師として「ままや」さんが登壇し、そのまま放課後へとなだれ込む予定です。
 ——-どうぞよろしく。

近況②「月刊『悠+』(はるかプラス)2月号」

 月刊「はるかプラス」2月号が発売になりました。連載中の芳賀コーナー、今号の作品は「昭和初期の真岡駅」でした。
 以下記事より。
 日本大学名誉教授で医学博士の田村豊幸教授は栃木県真岡市のご出身。真岡線にSLを走らせる会というSL招致運動の初代会長を務めたほどのSLマニアである。そのかいあって現在真岡鐵道真岡線では毎週末SLが運行されている。
 そのご友人、元真岡市市長菊池恒三郎氏もこれまた熱烈なSLマニアだった。
 ある日教授が市長にこう提案した。
 「むかしSLが走っていたころの真岡の駅の模型展示物をつくって現在の駅舎の中に展示したらいかがでしょうか…」
 この提案を市長が気に入り、わたしが制作を担当することとなった。そして1997年の夏、ごらんのような作品が完成した。
 ——-以上が「はるかプラス」の記事だった。
 ところで今年はその田村教授からはじめて年賀状が届かなかった。どうしたんだろうか、ご高齢でもあるので非常に心配している。

「悠+」(はるかプラス)1月号より
発行:㈱ぎょうせい

近況③「悠日4号」のこと

 1月15日に雑誌「悠日4号」が発売になった。
 この雑誌の原稿を依頼されたのは昨年の12月初旬のことである。そのときちょうど「デカルト通り48番地」を制作中だったので、その「制作記」みたいなものを書くことに。
 もっともその時点では、まだタイトルを決めておらず、ただ単に「パリのパン屋」として取り組んでいた。
 —–以下「悠日4号」から。

 模型師のこだわり
 写真の色を考える

 上の写真をもとに作品をつくっている。
(*写真は下に掲載)
 最初にこの写真を見たとき、一階部分は濃いグリーンか紺だろうと思った。だがどうも自信がもてなかったので、まずは二階部分から先につくりはじめた。
 二階は多分アイボリーホワイトだろうと考えて、壁とよろい戸をつくり、それらをすべてをアイボリーホワイトにぬった。すると乙女チックでぜんぜんよくない。そこでアイボリーからホワイトを取って、ただのアイボリー(象牙色)にしてみたら大成功。二階部分が完成した。つぎに石だたみの歩道をつくり、いかにもそれらしい色に着色。つづいて作品の裏側をつくり、額縁(フレーム)をつくり、展示台(イーゼル)をつくり、電気配線を済ませた。そこまでが去年9月のことだった。
 その後10月に有楽町でエキシビションがあって、それが終わったら今度は悠日で「はがいちよう展」がスタートした。しばらくはそれらに忙殺され、そのため約二ヶ月の制作中断期間があって、ふたたび作品と向き合ったのは12月6日のことだった。
 未着色ながら店舗ファサードはすでに9月のうちにつくり終えていた。残った仕事はその着色と店内部の制作だ。そして最後に看板を取り付けたらおしまいである。
 遠くエキシビションの会場にいたときも、常にこの店の色のことが頭から離れず、最初は濃いグリーンと思っていたものが、次第にモスグリーンへと変わり、そのうちだんだんとナス紺がいいと思うようになっていった。
「よし、あしたナス紺にぬろう!」
 と、考えて眠りにつき、翌朝気が変わった。着色よりも先に店の内部をつくるべきだと気がついたのだ。色を決めるのはそれからでも遅くはない。

 店内部をつくる

 もう一度写真を見てほしい。1911年、ウジェーヌ・アジェによって撮られたパリのパン屋である。ウィンドウに縦に並んだ巨大なパンが強烈なインパクトを放っている。
 さいわいぼくの倶楽部にはミニチュアのパンをつくる名人がいる。彼女にこの写真を見せて、似たようなパンをつくってほしいと頼んだ。するとほどなく写真そっくりのパンが届いた。
 だから内部をつくるといっても、ここでのぼくの仕事はせいぜい棚の制作ぐらいだった。しかしどんな棚をつくるのかについては試行錯誤があった。結局うすい真鍮版を用いて、プレーンな三段の棚をつくった。写真を見るとその最上段の、更にその上に一本の横棒が通っていて、でっかいパンはどうもその棒に立てかけてあったらしい。
 だからその通りにやってみた。
 そしたらぜんぜんよくない。
 そんなはずはなかろうと、パンの数を変えてみたり、角度を変えたりと、いろいろやってみたがやっぱりヘンだった。写真のディスプレーを、そのままミニチュアでつくると、まるでウソっぽく、さっぱり説得力がないのである。

 頭の中が方向転換

 もともとこの写真にほれたのはウィンドウにならんだ巨大なパンが放つインパクトゆえである。ところがその通りにつくってみたら、ちっともよくないことが判明し、非常に困ってしまった。
 しかしそのときからゆっくり頭の中が方向転換をはじめ、この作品は写真の通りにはつくらないことに決めた。別段たいしたことではない。いつもやっていることである。だがそのことによって一気に視界が開け、やれダークグリーンだ、やれナス紺だといった重たい色ばかりに固着していた店舗ファサードの、色の選択肢が一気に広がった。
 そうしたある日、とうとう「水色だ!」とひらめく瞬間が訪れた。ひらめきは瞬時に確信へと変わった。すぐにでもぬりたくなったが、木製のファサードにいきなり色をつけても、とてもきれいは仕上がらない。まずは絵の具できっちりと真っ白に着色し、ドライヤーで完全に乾かしてから、一気に、薄い水色をぬった。
 結果は、最低だった。
 真っ青になり、あわてて布でふき取った。
 あまりにもノー天気に明るすぎるのだ。
 そこで次はアッシュグリーンと呼ばれる、やや落ち着いた色を塗ることに。いっぺんにぜんぶは怖いので、今度は恐る恐る目立たぬところからちびちびぬった。するとこれもまったくよくない。ふたたびあわてて布でふき取った。こうなったらもうめちゃくちゃだ。次はベージュをぬり、布でふき取り、その次は白をぬり、また布でふき取った。「ええい、もうどうにでもなれ!」と、やけを起こしたそのとき、ふと作品を見つめると、完全に、完璧な色に仕上がっているではないか。ふき取ったとはいうものの、直前にぬったそれぞれの色が微妙に作用しあい、折り重なり、絶妙な色彩の綾を織りなしている。しかも全体としては水色なのだ。
 「もしかしたらこれは傑作ではないか…。」
 ゴクンと生唾を飲んで、こころの中でそうつぶやいた。

 以上まで、この原稿を書いている2010年12月16日の段階では、このはなしはここまでです。この作品がこのあとどう変化したのか。その完成形は、ギャラリー悠日の「はがいちよう展」会場(1月31日まで)でごらんになれます。
 ———どうぞご期待を!

 というのが悠日4号の記事だった。
 ちなみにこの雑誌は宇都宮市近郊の30の書店で取り扱っているそうですが、その他の地方にお住まいの方は入手困難かもしれません。直接HAGAまでご連絡いただければお送りいたします。

アジェの写真
48 rue Decartes (5e arr.), 1911

2011年1月22日