「先生のはなし」

  腰のマッサージを受けるため調布市の多摩川住宅という古い団地まで、ときどき通っているのだが、そこにむかしマンガ家のつげ義春が住んでいたと知り、驚いた…と、1/25日付で、ここに書いた。
  その続きです。
  以前は気がつかなかったが「無能の人」というつげ氏原作の映画には、正にわたしが通っている団地がモロに映っているし、ロケ地探訪的な記事も多数みつかった。つげファンにとって多摩川住宅はメッカのようなところだったのだ。
  そこで、マッサージの先生(74歳女性)に聞いてみた。
 「むかしこの団地につげ義春というマンガ家が住んでいたらしいですが、ご存知ですか?」
  すると先生は
 「ええ、知ってますよ、つげさんは同じ[ハ号棟]でしたから。奥さんとはしょっちゅう顔をあわせていました」
  やっぱり知っていた。マッサージの手をゆるめることなく先生は平然とそう答えた。だが、つげ氏本人とは一度も会ったことはなく、彼のマンガについてもよく知らないという。だとすると会っていても気がつかなかっただけなのかも知れない。
  当時先生のご主人は、団地の卓球クラブのリーダーを務めていて、そこにつげ夫人が入部したことからますます親しくなり、しかも、おなじ年ごろの子を持つ親同士。互いの子供について、あれこれ相談しあう仲となった。つげ氏の長男「正助さん」と、先生のお子さんは、おなじ小学校に通っていたが、つげ君は非常にナイーブな性格で、不登校児だったそうだ。その少年が、その後どのように成長したのか、先生はしきりに心配していた。
  実はわたし、その正助さんに会ったことがある。
  以前にも書いたが数年前某所から頼まれ、つげ作品映画化のため、背景としてのミニチュア作品を何点かつくったことがあった。そのときわたしは正助さんにもお会いし、名刺交換までしている。いただいた名刺には「つげ事務所・柘植正助」とあり、彼は父親の作品の版権管理やそのマネージャーをしていた。2020年フランス、アングレーム国際漫画祭で、つげ氏が特別栄誉賞に輝き、同時に「つげ作品展」が開催されたが、それらイベントを支えたのも正助氏だった。
  そのへんのことを説明すると
 「わあ、ほんとですか! つげ君、がんばっているのねえ」
  先生はまるで自分のことのように喜んだ。と同時にいつのまにかマッサージの手が止まってしまい、しばらく柘植談義となったので、わたしはゆっくりと治療台から身を起こし「こんど来るとき、正助さんの名刺を持ってきますよ…」と、お約束し、ほどなく先生の部屋を辞した。
  このごろつげ関係の作品はつくらなくなってしまったが、ひょんなところで、またつげつながりに出会うとは。まさに奇遇である。
  ——-つげ義春氏は現在85歳。お元気である。しかし正助氏の母である柘植マキさんは、そののち癌を発病し、1999年の春、58歳で亡くなった。

写真はつげマンガにたびたび登場する多摩川住宅の給水塔。最初は5基あったそうだが、給水塔が5基もある団地は全国的にも珍しく、給水塔ファンのあいだで「聖地」と呼ばれているらしい。