大森さんのこと

 3/11日付けの当欄「3.11のこと」と題する記事の一部に誤りがあった。
 記事は、震災の日の午後7時に宮城県石巻市にある「石ノ森萬画館」のキュレーター嬢から「先生のトキワ荘は無事でした!」という電話があり拙作の無事を知ったという内容で、電話があたかも萬画館から発信されたように記述した。だが事実はそうではなかった。地震の発生直後、すぐに津波が来ると知った彼女は、いち早く館を離れ、午後7時にはどこかの避難所にいたと推定される。したがってわたしへの電話は避難所からで、萬画館からではない。お詫びして訂正いたします。
 ではなんで避難所にいた彼女がトキワ荘の無事を知り得たのか。
 それは、津波が来ると知りながら館に残ったスタッフが、ひとりいたからだ。

 以下は2011年5月、当欄に投稿した記事から。
 下の写真は津波の被害に遭ったあとの石ノ森萬画館である。
 電気はまだきていないものの建物はそのまま残っていた。拙作トキワ荘も無事だった。それらを確認するために2011年5月18日に現地を訪れた。
 この日案内をしてくれた萬画館のスタッフ・大森盛太郎さんによると、地震発生時刻は営業中だったため、まずはお客様を避難させ、そのあと津波の襲来に備えて、スタッフ全員がただちに高台へと非難した。しかし大森さんだけは館を守るため現場に残った。するとすぐにに津波がやってきた。どっと海水がなだれ込んできた。だが建物が流されることはなく、水の侵入は一階部分のみにとどまり、上階へ逃れた大森さんは一命を取りとめた。やがて自衛隊員によって救出されるまでの五日間を、彼は停電した萬画館の中で過ごした。外に出ても周囲は瓦礫の山で、どこへも出かけられなかった。さいわい最上階にはカフェレストランがあり、食料や飲料には困らなかった。もちろん大量のマンガ本もある。なにかのイベントに使うためのロウソクもまとめて備蓄してあったので、夜はひたすらマンガを読んで過ごした。
 まるでロビンソン・クルーソーのようなはなしである。
 ——以上、2011年の記事より。

 午後の3時過ぎに津波がやってきて、やがて去っていった。その間の正味一時間くらいはメチャクチャな状態だっただろう。その後は食料をさがしたり、身の回りを整えてたりしているうちに、たちまち夕方になる。夕方以降はバッテリーが切れるまで、あちこちに電話をしまくったことだろう。(以上わたしの推測)。避難所にいたキュレーター嬢にトキワ荘の無事を伝えたのもそのころのことだとおもう。そう考えると我が家に電話があった午後7時という時間は、時系列的にあっている。
 人々が脱兎のごとく逃げたす中で、目の前が海という立地の萬画館に、自らの意思でひとり残った大森さん。彼がいてくれたおかげで、館の戸締りがきちんとなされ、海水の侵入を最小限に食い止めることができた。二階まで水が達せずに済んだのだのは彼のおかげである。したがって大森さんは萬画館と、拙作トキワ荘(1/15)にとっての恩人である。
 3.11を語るとき、どうしてもそのことを言っておきたくて、本日あらためてこれを書いた。

 2011年5月18日に撮った写真である。中央が萬画館。津波をかわすのに理想的なかたちをしている。のっぺりとして窓がない。海水は館のてっぺんの高さにまで達し、周囲の建造物はすべ流されてしまったのに萬画館だけはビクともしなかった。道路は自衛隊によってすでに片付けられていて、空き地に大量のゴミが積み上がっている。電線と電柱は復旧の途上にあり、このときまだ電気は来ていなかった。