近況①「石ノ森章太郎の机」

 月刊「はるかプラス」4月号が発売になった。連載中のHagaコーナー、今号では「石ノ森章太郎の机」を紹介。
以下記事より。
 マンガ家石ノ森章太郎は1956年、18歳の年に上京、同年五月「トキワ荘」に入居し、マンガ家人生のスタートを切った。トキワ荘を代表するマンガ家のひとりである。
 そして1998年、惜しくも世を去るまでに、なんと700タイトルをこえるマンガを残した。「仮面ライダー」も1タイトル、「サイボー009」も1タイトルと数えての700だ。描くスピードは手塚治虫よりも早く「マンガの王様」と呼ばれた。
 上の写真(*注下の写真)は、もっとも油が乗っていた1980年代、練馬区桜台にあった自宅アトリエの机を、㈱石森プロから提供された資料をもとに制作したもの。
 ——–以上4月号より。
 ちなみに石ノ森章太郎は宮城県登米市中田町字石森の生まれだ。
 子供のころは片道25キロの石巻市まで、自転車でしょっちゅう出かけ、映画を見たり本を買ったりしたという。市の中心部を流れる北上川の河口に位置する中州を、彼は「マンガッタン」と呼び(マンハッタンのもじり)、いつしかそこに自分のミュージアムをつくりたいと夢見ていたそうだ。自身が描いたミュージアムのラフスケッチも残っている。その「石ノ森萬画館」を、このたびの津波が襲った。

月刊「悠+」(はるかプラス)4月号より
発行:㈱ぎょうせい

近況②「狩野章さんからのメール」

石ノ森萬画館を津波が襲ったという話しは前回も書いた。
 下がその写真である
 スタッフ全員無事だったというが、このミュージアムは北上川の中洲にあり、そこは海からたった1200メートルのところ。しかも地震発生時は営業中だったことを考えると、奇跡としか思えない。
 ところがである。2009年までここに勤めていて、ずっとぼくの担当だった方の消息がわからず、一度ツイッターで呼びかけたことがあった。そしたらである。数日前とうとう当人からメールがあった。
 ———石巻の狩野です。なんとか無事でした。が、車、携帯、水没です。人生いろいろなことがありましたがこんな経験は初めてです。ただ私は家も家族も全員無事だったので、ほかの市民よりずっと恵まれています。(中略)。津波に巻き込まれそうになって、難を逃れた運のよさで、これからもがんばっていきます——–。
 「石ノ森章太郎の机」や「80分の1トキワ荘」は狩野氏からの依頼で制作した。石巻に行った際には宿の手配から食事の世話まで、ずいぶんとお世話になったものである。
 なにはともあれ無事でよかった。

津波が去ったあとの萬画館
営業再開は容易ではなさそうだ

近況③「イエローサブマリンのこと」

 名前からわかるように秋葉原の「ラジオ会館」はふるい。築50年になるそうだ。現行の耐震基準を満たしていないことから建て替えのはなしが持ち上がっていた。そこに今回の地震である。7階の「イエローサブマリン」にあるぼくの棚が倒れて、木っ端微塵になっていたとしても不思議ではなかった。
 突然ユサユサッと揺れが来て、商品がドドッと床に落下し、ガッシャーンとガラスケースが倒れた。総毛立ったスタッフらは我先にその場から逃げた。クライストチャーチのつぶれたビルの映像が脳裏をよぎった。そんな中ひとりの店員がぼくの棚へと走り、暴れるガラスケースをしっかりと押さえてくれたのだそうだ。おかげでぼくの棚(ガラスケース)は倒れなかった。ケースの中の商品はめちゃくちゃに散乱してしまったが、ほとんど壊れてはいなかった。
 震災後ビルはしばらくのあいだ閉館。あちこちメンテナンスを施してから営業を再開し、再開後見に行ってはじめてそのはなしを聞いた。
 当人に礼を述べると
 「確かに最初は押さえていたのですが、そのうちたまらなくなって手を離し、ぼくもけっきょく最後には逃げ出してしまいました…」と、いかにも模型好きそうなその店員・吉田健一さんはすまなそうにそう答えた。
 ———うう、うっ、ううぅぅぅ(泣)である。
 この日は片付けと同時にシカゴへ持っていくための品物を大量に抜いたので、ぼくの棚は今スカスカである。

津波が去ったあとのような…

2011年3月26日