お陰さまでメイキング伊東屋のミッションは4月の20日ごろ、ほぼ終了することができた。しかしまだまだ未完成だった3月中旬のこと、「プラウド」という雑誌の編集グループ御一行さま計6名が、ゾロゾロッと私の作業場にお見えになった。そしておそらく3時間ぐらいはいらっしゃったような気がする。
取材のためである。
プラウド誌とは、野村不動産株式会社が二ヶ月に一回発行している雑誌だそうだ。紙質、デザイン、印刷ともに目の覚めるようなクオリティーで作られている。さすが天下の野村不動産である。このたびその5月号が発行され、先日わたしの手元にも一冊届いた。うち計6ページを私の紹介にさき、拙作の写真も、大小あわせて14枚も使ってくださるなど、どこもかしこも申し分のない記事に仕上がっていた。
―――野村不動産(株)とプラウド誌編集部の皆さまに、心より御礼を申し上げます。
ただ雑誌は一般の書店では販売されていないとのことなので、本日は「プラウド」誌2004年5月号から、私に関する記事の全文を下に掲載することにする。
以下、掲載文。
「住まい」のインタビュー/アーチスト編 01
Interview with HAGA Ichiyoh
芳賀一洋/街と気配の標本箱
[立体絵画作家]
不思議な「立体画家」の作家・芳賀一洋さんのアトリエを訪問しました。
芳賀さんは異国の風景や古い店などに取材した多数のミクロコスモスを生み出していますが、それはノスタルジーだけで語りつくせる作品ではありません。
5ミリにも満たない木製や金属製の小物の類もほとんどが精巧に手作りされておりそこには凝縮された美意識やある種の執念さえ感じさせます。ある造形作家は芳賀さんの作品を「標本箱」と評しました。
それは単に家や街角の標本箱であるばかりでなく気配や時間、そして人間の想像力の標本箱なのかもしれません。
矢島幸紀[写真]
photographs by YAJIMA Yukinori
作品をなんと呼ぶのが適当なのか、話はそこから始まった。ミニチュア、ドールハウス、模型、ミクロコスモス、立体造形‥‥どれもしっくりこない。彼なりに立体絵画という名称に落ち着いたが、これもまだ改良の余地があるらしい。
最初の作品をつくった経緯もとても興味深い。1990年代の半ばごろ、経営していたブティックの経営が思わしくなく、7つあった店舗はふたつになり、誰もお客がこない中、夏に従業員を休ませて自分ひとりで店番をしていたときのことだったという。
「ふと、そばにあったカッターナイフを手にとり、店にたくさんあった紙の値札を切って小屋を作ったのが始まりです。店を空けたままどこにも行けないので、柱にはマッチの棒、窓ガラスにはコンビに弁当のふた、屋根はラッピング用のシールを貼って作りました。それがなかなかいい作品に仕上がったんです(笑)。1日で完成したので自分でもびっくりして、次の日には倉庫、次の日にはトイレと、1週間の間に5個ぐらい作品ができてしまった。その後初めて模型屋へ行き、まともな材料を買って、ある程度本気で作り始めることになりました」
若いころ彼には一時画家を目指した時期があったというから、まったく絵心がなかったわけではない。しかしほかの少年たちと同様、紙飛行機を作ったことがある程度で、模型制作に関しては経験も興味もなかったという彼にとって、その夏の出来事は不思議な転機をもたらした。彼は店を閉め、自分の天職へと歩みだしたのだ。そして、彼の作品の価値を認めた友人の後押しもあって、それから1年も経たないうちに渋谷パルコのギャラリーで個展を開催するまでになっていった。
しかし最初のときと同様に、どうして作品ができるのか自分でも説明できない部分があるという。
「どういうわけか自然にできちゃうんです。これが不思議ですね(笑)。朝目が覚めると、やることがぼーっと頭に浮かんでくる。そのまま作業場に来てそのとおり1日中続けて、気がついたら夜になっているので寝る。それでまた次の朝起きるとまた何かが浮かぶ‥‥。ですが、その状態になるまではなかなか作品に取り掛かれません。悩んでしまい、気持ちが定まらず、時には蕁麻疹(じんましん)が出てしまうこともあります。やろうと思っても始める勇気が出てこない状態が続きます。ところがある程度作業が進むと、ふいに霧が晴れたように自然にやりかたがわかってくるようになるんです。あとは、気がついたらできていたという感じでしょうか」
全体の寸法など大枠を定めた設計図はあるが、細かな図面は存在しない。とくに入念なスケッチをとるわけでもなく、むしろ部分部分のディテールにそのつど徹底的にこだわりながら、それが全体の整合性を失うことなく、最後には絶妙なバランスで総合されたひとつの作品世界ができあがるのだ。
部品についてはドールハウス関連の小物類が使えなくはない。しかし実際には、カタログを探したり発注したりするのに手間がかかり、送られてくる部品の精度が彼の基準に達しないことも多く、結局ほとんどのパーツは、木製のものも金属のものも手作りに頼るのが現状だという。
実は、彼の作品は全部解体できるようになっており、完成した時点で、一回パーツに分解され、ホコリを払い、細部を手直ししながら再度組み立てられる。もちろんそれだけでも1日がかりの仕事である。
取材時、彼が手がけていた作品は、100年前に銀座に建てられていた伊東屋の店舗を1枚の古写真から復元するという仕事だった。けっして資料が豊富にあるわけではない。古びた写真はあいまいな部分も多く、もちろん背後に隠れた部分は想像するしかない。しかしそれは単純な想像力というのとも少し違うらしい。むしろ推理に近いものだ。
「たとえば、向かって左手のケースの中には万年筆を並べています。この万年筆はペリカン製品を想定しました。この時代にはこのほかにもモンブランやパーカーも輸入されていましたが、ペリカンのロゴがとてもレトロで雰囲気にあったのでそれを選びました。しかしほんとうは当時の万年筆の形そのものではないんです。忠実に明治の万年筆を再現しても万年筆には見えないので、見てわかるよなものを作りました。
ケースの中身については実はほとんど手がかりがないのですが、伊東屋さんといえばまず万年筆と思い、手前に万年筆を置き、それに付随してインクの壷を置きました。資料の写真でトルソーが見えているのでトルソーを揃え、そうするとその隣にはやはり絵の具かという具合です‥‥‥」
さらには、作品としてここに照明を入れたいといった創意も含め、そこには彼独自の様式感覚と時代感覚が凝縮されていく。それは即物的な意味での復元ではなく、いわばその時代の記憶や気配の復元なのである。
毎日の作業を終えると、アトリエで作品を眺めながらお酒を飲むのだという。ようやく彼が物作りの魔力から解放されるわずかな安息のひとときに違いない。もっとも作品を見ているうちに「あっと思いついたりする」のは必至なのだか‥‥‥。(編集部)
―――以上が今回の記事の内容だった。
インタビューをお受けする場合
「どういうきっかけで始めたのですか?」
インタビュアーは、必ず冒頭でそれを尋ねる。だから毎回「コンビニ弁当のフタを使い、マッチの棒で‥‥」というはなしになってしまい、いつもあんまりかわり映えがしないのだが‥‥。ま、しばらくは、しょうがないでしょう。
2004年5月14日