前回のトークスでは、ロゴスギャラリーで開催された私の最初のエキシビジョンについてお話しし(2003年5月19日付け)このとき一点だけアートインボックス作品をつくったと書いた。
それはパリの街角ではなく、白い壁の「ベランダの情景」だった。
当日の展を手配した友人がそれを作ったらどうかと、私に提案したからだ。彼は、その少し前に仕事でイタリアに出かけ、ミラノの露天で売っていたという絵はがき3枚をわたしの自宅に送ってよこした。見るとはがきには、ベランダの情景が造形作品として作りこまれた写真が印刷してあって、下段には「ART IN BOX」と書いてあった。あんまりたいした作品ではないと思い、気にもとめないでいると
「ハガキ見た? あれ、作ったら売れると思うんだ‥‥」
数日後に当人から電話があった。
「へえ~ こんなものが売れるのかねぇ~」
と、私は、半信半疑だったが、せっかくの提案だからと、さっそく似たものを一点だけ作ってみることにした。
それがこのときの「ベランダの情景」である。
最近当サイトのスライドショー・アートインボックスのページに、その白いベランダを掲載したので、ぜひご覧になって下さい。フランス語のタイトルは「L’atomosphere dans la veranda」(ベランダのムード)とし、作品の横に配した英文は、本日ここに書いたことの要約だ。
当時わたしは、模型をつくり始めてまもなくのころだったので、まだ80分の1の作品しか作ったことがなく、ドールハウスというものの存在すら知らなかった。従って、最初のベランダ作品を作り始める前にはいろいろとリサーチをして回り、そういった作品はドールハウスと同一サイズ(縮尺12分の1)で作るべきだと、始めてわかった。だが作品は、友人の予言どおりこのときの展で売れてしまい、気をよくした私は、その直後にまったくおなじ作品をまた作った。それが今回サイトに掲示した「「L’atomosphere dans la veranda」である。(だからこの作品は、私がいちばん最初に作ったアートインボックス作品とおんなじ、ということである。)なぜ直後に、同一の作品をまた作ったのかというと、この年の年末に、こんどと新宿伊勢丹での個展開催予定があったからだ。
そのとき私は伊勢丹の担当者に対して、急遽20点ほどのアートインボックス作品を制作し、陳列することを約束し、この年の秋、大慌てで大量のアートインボックス制作に着手していた。当時は「パリものをつくる」といったアイデアはまだなく、とりあえず売れてしまった作品のコピーをもう一点だけ作ってみたのだ。また、絵ハガキに写っていた作品は白い壁ではなく、赤い、レンガ色とでもいった色調だったため、他にももう一点、そんな作品も同時に作った。――この作品も、以前より当サイトに掲示中で、「LA VERANDA AUX MURS ROSE」(壁がピンク色のベランダ)という仏題で、白いベランダ作品の直後のページに掲示してある。
こうして私はまずふたつのアートインボックス作品を作った。
その後更に追加で2点の小さなベランダを作り、これで計4点のアートインボックス作品が出来あがった。しかし20点制作すると言ったのだから、またまだ数が足りなかった。が、目の前に4点のベランダが出来てしまうと、なんとも趣向にとぼしく、会場ぜんぶをベランダ作品で埋めるのは到底無理と判断した。そうして私はやむ終えず、このときに始めて「パリの情景」を作りはじめることになった。
そのあとは言語に絶する大奮闘が約二ヶ月間続き、毎日毎日「パリもの」ばっかりを作りつづけた。が、結局20点は作りきれなかった。しかし、お陰様で大小合わせて15点ほどのアートインボックス作品が完成し、曲がりなりにも伊勢丹への約束を果たすことができた。
もう、なくなってしまったが、当時、新宿伊勢丹・新館8階には「伊勢丹美術館」という大型ギャラリーがあって、ダリやシャガールなど国宝級の美術品を意欲的に開催していることで有名だった。このフロアーには、他にもふたつのギャラリーがあって、8階全体が「伊勢丹・美術フロアー」と呼ばれていた。そのうちのひとつ「ファイン・アートサロン」という会場を使わせていただき、1996年の12月25日~30日という日取りで「模型は美術・芳賀一洋の世界展」という拙展が開催された。
1996年という年は、新宿駅南側が再開発され、新たに「高島屋・タイムズスクエアー」がオープンした年だ。伊勢丹対高島屋の激烈な商戦がスタートしたばかりのころだった。客足が高島屋に向いてしまうのを少しでも食い止めようとした伊勢丹は「伊勢丹創業110周年記念」と銘打って「コーン・コレクション展」という催しを、かなりのロングランで開催した。
もちろん「伊勢丹美術館」を使って、である。
あまり詳しく知らないが、コーン氏(米国人)とは、個人としては世界でも有数の美術コレクターだそうで、会場にはマチス・ピカソ・ゴーギャン・ゴッホ・セザンヌなど、そうそうたる画家たちの、どれもが本邦初公開といった名画美術品がずらっと並んだ。この催しが、確かこの年の夏から始まっていて、最終日が年末だった。だから拙展がスタートした12月25日とは
「二度と再び見られません、この機会を絶対にお見逃しなく!」
ということで、ものすごい数の客が、8階の隅々にまであふれていた。拡声器では「一列にお並び下さーい!」が連呼され、延々長蛇の列が遥か3階あたりにまで連なり、「どうか押さないで‥‥」という係員の声が私の会場まで聞こえていた。
「東京に、こんなに多くの美術愛好家がいたとは‥‥」
と、私は、ただただ驚くばかりだったが、フロアー全体がまるでラッシュ時刻の駅ホームのような状態なのだ。そして美術館から吐き出された客の群れが、津波のように私の会場を襲い、まるで身動きがつかないほどの大盛況(と言ってよいのか?)という、まれにみる、非常に恐ろしい展覧会状況におちいってしまった。だからこのときの拙展に一体何人の客が詰め掛けたのかは、いまだにわかっていない。
その翌年、私は調布パルコの特設会場を使わせていただき、「箱の中のパリ」という拙展を開催したが、こちらは入口で入場者数をカウントしていた。それによると、6日間で約7000人の客が訪れた計算だった。だが伊勢丹は、それをも上回っていたと思うので、多分「万」の数を超えていたんじゃないかと思う。
まあとにかくスゴイ展覧会だった。
当日の様子は、当サイト「Scenes From Exhibitions」のセクションに最近掲載した。だが撮影は開店直前に行われたため、人は誰も写っていない。また、このときの展に間に合わせるため、いっぺんに大量のアートインボックス作品を制作したことの奮闘は、拙著「続・木造機関庫制作記/雲の上から届いた便り」(これも当サイトに掲示中!)に詳しく記述したので、ぜひ一度お読みになってください。
2003年5月27日