まずしかったころ

 子供のころ、商店街の裏手には原っぱがあり、小さな芝居小屋が建っていた。客席は、地面にゴザ敷きだったが、年数回そこに旅芸人の一座がやってきて、チャンバラの劇を演じた。奥には一応安物の舞台が付いていて、顔を真っ白に塗りたくった役者たちが、床にドスンドスンと音をたてて、おお立ち回りを演じていた。刀は竹製で、表面には銀紙がはってあり、裸電球の光を受けてギラギラ光り、めまぐるしく動き回った。ものすごい迫力だ。しかし役者たちの衣装も、背景も、劇場も、哀しいほどに貧しかった。
 私は、自分が貧しかったせいか、まずし~いものたちがたまらなく好きだ。しかし今日、まずしいものって、なくなっちゃったような気がする。確かにホームレスの人々は貧しいんだろうが、彼らは単にカネが無いだけで、真の「貧しさ」とは、少し違うような気がする。やっぱり、社会全体がまずしくないから、いかんのかなあ。
――芳賀一洋

いま青山で、私を含めた計8名の作家たちによって「私の劇場」と題する合同作品展が開催されている。
――そのことについては前々回、この欄でお知らせした。
 上の一文は、会場で私のコーナーに掲げられているキャプションだ。
 搬入の4~5日前のこと、主催者側より「自分にとっての劇場を説明し、同時に作品の説明にもなるような文章を、至急に作って提出せよ‥‥」との、非常にむずかしいご注文があり、ない知恵を搾って提出したのが上の一文だった。しかし会場では、ほんの少しだけ違った文章(多分ミスプリント)が掲示されているので、「正オリジナル」として、冒頭に掲げた次第だ。
 ところで案内にもあったように、展の初日、3月10日(月)の午後6時より、盛大なオープニング・パーティーが催された。これが大変な大盛況だったので、ついでに本日は、ほんの少しだけ、そのときの様子を説明することにする。
 当日は、午後5時半のころからポツポツと客人が現れはじめ、定刻6時になると、会場に入りきれない客たちが青山通りにまであふれるといった、異常な現象におちいってしまったのだ。もちろん、そのころギャラリーの中は、完全なる満員電車状態である。と言っても、そんなに広いスペースではなかったので、せいぜい100人とか200人といったレベルの人数だったと思う。が、とにかく身動きがとれない。だからのんびり酒を飲むとか、会話を楽しむといった通常の行動は、まったくとれなかった。代わりに、陳列中の作品が壊れるんじゃないかと心配したり、ご来場いただいた私の客人を識別できず、失礼になってはいけない、などと心配しながら、次々と繰り広げられるけったいなパフォーマンス耳をそばだてるといった、非常に、非日常的なひと時を過ごすことになった。
 当日は、フェーマス・ピープルも多数お見えになり、私が確認した範囲では、平野レミ(料理研究家)渡辺真里奈(タレント)市山貴章(俳優)さんなどの顔ぶれが、確かに人ごみに混ざっていた。もっとも、このたびの合同展のキュレーターである宇野亜喜良氏や、和田誠さんや、串田和美さんなど、私以外の作家さんたちは、すべてフェーマス・ピープルなのだから、まことにゴージャスなメンバーだ。
 当日主催者より、カメラマンを呼んできてくれと言われ、いつも拙作の撮影をお願いしている佐藤紀幸氏に声をかけ、その混雑ぶりをカメラに収めていただいた。こういった、なんでもないような群集写真が、実は一番むずかしいのだ。そして、どの写真も「さすがプロ」という仕事を残してくれた。とりあえずその中の一枚を下段に掲示したので、当日の異常な混雑ぶりを、しかとご確認いただきたい。
 パーティーの終了後は、この日にみえた客人とともに近所の飲み屋へと場所を変え、深夜の12時まで談笑した。
 しかし私にとっては、その前日にも、搬入後の「お疲れさん会」という名目の酒席が当然あったわけで、若干バテた。そしてパーティーの翌日には「ザ・メモリー・オブ・マイファーザー」(昭和33年・江戸川区鹿骨)と題する大型作品一点を、追加で陳列したのだから、近年まれにみるお「疲れさん体験」を実践したことになる。しかし今、ギャラリーへ足を運ぶと、つわものどもの夢の跡とでもいった風情で、なんともガラーンとしたものである。
 ま、そんな訳で、ただいま青山で、ちょっとした合同展を開催中ですので、お時間があれば、是非一度のぞいてみて下さい。
 4月12日(土)までです。

撮影・佐藤紀幸


2003年4月1日